生 贄5
「ヴィドック……」
涙で頬を濡らし、彼を求めるティティーヌに、クレイは目を見開いた。
「まさか……」
思わず小声でつぶやいた。
(そんなわけが)
洗脳は完璧だった。ティティーヌの心は完全に操れた。
確かに彼女は術がかかりにくかったが、一度侵された心を、再び元に戻すことなどあり得ない。過去にも例外の人間は山ほどいるが、それは全て最初から操れない人間だった。能力は、効くか効かないかのどちらかなのだ。一度でも効いてしまえば、人間は自力で解くことができない。解いたという前例もないのに。
「助けて……」
すでに去ってしまった彼らを求め、ティティーヌは必死に呼びかけている。
「ティティーヌ……」
戸惑いながらも、クレイは彼女にささやいた。
こうなった以上、再び彼女の心を支配するより、他に方法はなかった。
「落ち着いて、ティティーヌ。無理をすると傷口が開くよ」
「いや……」
「寂しい気持ちは分かるけど、あなたが決めたことだろう?」
「違う、私じゃない……。ヴィドックっ……、リュシアンっ……!」
もがく彼女にクレイは眉根をひそめ、強引に抱き寄せた。
「興奮しないで……、落ち着いて……」
耳元で、彼女の脳へとささやきかける。
「大丈夫だから、怖がらないで」
甘い声で言いながら、彼女の耳たぶをぺろりと舐め、甘噛みした。
「……や……」
か細い抵抗を続けるティティーヌを押し倒し、首筋を這うように唇で伝っていく。少しずつ、抵抗が弱まっていくのを感じながら、クレイは彼女の首に吸いついた。包帯の上、耳の少し下辺り、赤ん坊が母乳を飲むように力を入れずに吸っていく。くっきりと印がつくと、間近で顔をのぞき込み、改めて告げる。
「愛しているよ」
ティティーヌの抵抗が完全に止まった。
「あなただけを愛してる」
優しく頬を撫で、指先を滑らせていく。
「ずっとここに、私の傍にいて」
懇願しながら、ブラウスのボタンをはずそうとした。
突然、部屋の扉が。荒々しく蹴破られた。
開け放たれた扉の向こうに、ヴィドックが立っていた。
ティティーヌはびくりと肩を弾ませ、みるみるうちに顔を赤く染めていく。
「帰ったんじゃなかったのかい? ヴィドック」
クレイが振り返り、微笑んだ。
「……ティティーヌ」
ヴィドックはティティーヌだけを見つめて言った。
「俺を呼んだだろう」
「ああ。そういえば、人狼は耳もいいんだったね。恥ずかしい声を聞かれてしまったかな」
笑みをこぼすクレイを、ティティーヌは真っ赤な顔で睨みつけた。
「もう、クレイが変なことするから……」
「ごめんごめん。悪かったよ」
じゃれ合う二人を前に、ヴィドックは立ち尽くしている。
「ヴィドック!」
リュシアンとサーガも戻ってきた。
「ごめんなさい。なんでもないの。クレイがあまりにもふざけるから……、あの、ほら、クレイもちゃんと謝って」
「分かったよ。悪かったって」
本人から言われては、どうすることもできない。
ヴィドックは無言でティティーヌを見つめた後、踵を返した。
「……邪魔したな」
今度こそ帰ろうと足を進める。
「あのっ……、ごめんなさい、本当に……。帰りは、気をつけてね……」
申し訳なさそうな顔で、ティティーヌは慌てて声をかけてきた。
「もう……、会えない?」
後ろから聞こえる頼りない声に、振り向きもせずヴィドックは答えた。
「俺がここに来ることはない」
違和感を感じたのはその時だった。
「ヴィドック……。待って……。ごめんなさい、私……」
彼女の声が震え、動揺が見られた。
「ティティーヌ?」
リュシアンが不審の眼差しを向けている。
「私……」
「ティティーヌ。もう休んでと言ってるだろう?」
クレイが言葉を遮り、一瞬微笑んだティティーヌだったが、振り返ったヴィドックを見て、ぽとりと涙をこぼした。
「助け、て……」
クレイが小さく舌打ちした。
何の躊躇いもなく、ティティーヌの腹に拳を沈める。
「ティティーヌ!」
とっさに叫んだリュシアンに、彼は妖艶な微笑みを向けた。
「残念。もう少しだったのに」
気絶したティティーヌをベッドに寝かせ、ゆらりと彼は立ち上がる。
「やはり……、操っていたのか」
リュシアンが顔を歪め、歯軋りをした。
「同族の血を飲んだ影響だろうね。君のような一般的なヴァンパイアが駄目でも、禁忌を犯した私なら可能なようだよ。まあ、それでも不完全だったけどね」
悪びれもなく、クレイは平然と言う。
「だからと言って、君達は私には敵わない。大人しく帰ってくれないかな」
そう言って、にっこり微笑んだ彼を前に、ヴィドックが吼えた。
一瞬にして狼へと姿を変え、勢い良く飛び掛かっていく。
「無理だと言ってるのに、まだ分からないのかい?」
クレイは笑顔のまま彼を迎撃し、軽やかに蹴り飛ばした。
「サーガ。隙を見て、彼女を逃がしてくれ」
リュシアンに小声でつぶやかれ、サーガは深くうなずいた。
「できるか分かんねえが、やってみる」
互いに視線を交わしてうなずくと、同時にクレイへと飛び掛かった。
「懲りない人達だねえ」
ベッドの前に立ちはだかるクレイは、その場からほとんど動かずに三人を食い止める。彼の一撃一撃が鉛のように重く、ヴィドックの口から赤い血が滴った。リュシアンの美しい肌に、赤黒い痣ができていく。 サーガが壁に叩きつけられ、呻き声を上げた。部屋の隅で、誰にも気づかれることなくポールが動く。
「君達と遊ぶのはもう飽きたんだよ。悪いけど、降参してもらうよ」
クレイの動きに速さが増した。
防御から攻撃主体に切り替え、自ら向かっていく。
リュシアンとサーガをかわしながら、手始めにヴィドックの腹を殴りつけた。
手応えは充分。骨に亀裂が入る感触が拳まで伝わり、確実に折れたことを察した。倒れ込んだヴィドックは派手に血を吐き、動けない。その隙に突破しようとしたサーガの襟首を掴み、クレイは片手一本で投げ飛ばした。彼は勢い良く窓に当たり、崩れ落ちたところに鋭いガラスの破片が襲う。
「うあぁっ!」
難なく二人を片付けたクレイは、リュシアンを見てにやりと笑った。
「同族を傷つけるのは不本意だけどね」
言うと同時、瞬時に彼の懐へ踏み込み、下から拳を振り上げる。
「……っく!」
かろうじて、リュシアンはそれをかわした。
「さすがリュシアン。素晴らしい反射神経だ」
だがクレイがそう言う間にも、新たな一手が迫っていた。
振り上げた腕は向きを変えて空気を裂き、リュシアンの頬を彼の肘が襲う。
「!」
当たる寸前でとっさに手を挟んだが、掌ごと肘を叩きつけられた。
リュシアンの体が倒れ込む。
「やっぱり、同じ血が流れているだけのことはある。素晴らしい能力だよ。それに体術だけは、昔から君が上だったね。リュシアン」
互いの距離を埋めるべく、再びクレイが歩み寄る。
「でももう、終わりだよ」
そう言ってリュシアンを見下ろし、右足を上げたクレイにサーガがほくそ笑んだ。
「終わりは……、てめえだろ」
気づいたクレイが振り返った瞬間、ベッドの上でポールが巨大化し、一瞬にしてティティーヌの体を飲み込んだ。
「ティティーヌ!」
慌てて捕まえに行こうとしたクレイの左足を、リュシアンが両手で掴んで邪魔をする。
「このっ……!」
剥きになったクレイは、右足で容赦なく顔面を蹴りつけたが、リュシアンは手を放さなかった。
「ポール! そのままここを出ろ!」
サーガの声に、ポールは巨体をひきずって逃げていく。完全な大きさには戻っていない。人を飲み込める限界まで戻されたポールの体は、かろうじて部屋の入り口をくぐり抜けた。
クレイは舌打ちした。身体能力の優れたヴィドックよりも、同族であるリュシアンよりも、一番にサーガを始末するべきだった。能力的に最も劣るメデューサという種族を、甘く見ていたのだ。中でも落ちこぼれであるサーガを。
蛇の大きさを操るには、主人の技術と力量が必要とされる。一般的なメデューサは、相棒を大きくするか、小さくするかのどちらかしかできない。メデューサの能力に自信を持っているフィーナでさえ、蛇の大きさは操れない。つまり相棒の能力を自由に調節できる者ほど、優れたメデューサということになるのだ。同族からも蔑まれている彼が、実はフィーナよりも優れているとは思わなかった。
自在に大きさを変える蛇は厄介だ。室内でも戦力になる。蛇というのは機敏で、足でも取られようものなら一気に動きが封じられる。締め付けられれば骨を折るほどの力もある。いくら血を飲んだヴァンパイアと言えど、同族や人狼、メデューサまでもを敵にした中で、ポールをも相手にするのは無理があった。ある意味、主であるサーガよりもこのポールの方が危険だ。早く捕らえて始末し、さっさとティティーヌを奪還しなければこちらが危ない。クレイはリュシアンをひきずったまま、強引に後を追った。
が。
その入り口で、血を滴らせた銀色の狼が行く手を阻んだ。
「邪魔だよ。死に損ない」
クレイが左足を大きく振り上げる。勢いに負けて引き離されたリュシアンの体が飛んだ。ヴィドックはそれを難なくよけ、後ろにいたポールが飛んできたリュシアンをも丸呑みする。
「っく……」
クレイが顔を歪めた。
「そんなに死にたいなら、望みを叶えてあげようか」
深手を負ったヴィドックに向けて、クレイが渾身の一撃を振りかざした。
「させるかよ!」
頭蓋を叩き割ろうとした彼の体を、サーガが後ろから羽交い絞めにする。
ポールはみるみる遠ざかり、あっという間に姿を消した。
「邪魔だ!」
クレイはサーガの脇腹に肘打ちを食らわす。
よろめく彼を突き放そうとしたところに、ヴィドックが飛び掛かった。
「うあっ……!」
肩を噛みつかれ、クレイが悲鳴を上げる。
「こ、のっ……!」
深く牙を食い込ませたヴィドックの腹を、彼は再び殴りつけた。
完全に骨が折れたはずの場所だ。
なのに。
「離れろ!」
力強く殴りつけても、ヴィドックは離れない。
噛み付いた口元から大量の血を噴き出そうと、彼は決して離れなかった。
「やめろ!」
剥きになって殴るクレイを、サーガが後ろから襲う。
振り返った拍子に肩が抉れるように痛み、クレイは顔を歪めた。
そこにサーガの拳が叩き込まれる。
ヴィドック共々倒れ込んだクレイは、怒りに体を震わせた。
「殺してやるっ…!」




