月夜の遭遇1
満月の夜は、やはり気分がいい。今夜は雲もなく、いい天気だった。
ひんやりとした冷たい夜風が、肌を優しく撫でていく。およそ人間からはかけ離れた犬並みの嗅覚が、鋭く獲物の匂いを嗅ぎつけていた。
「しかしこれは……、どうしたものかな」
到底ご馳走とは言えない匂いと光景に、思わず眉を顰めた。
「ひどいな。人間もここまで堕ちたか」
隣で呟いたヴィドックに、リュシアンは重々しく頷いた。誰もが喉をかき切られ、焼け落ちた教会の前で無造作に晒されている。見世物のつもりだろうか。あまりにもえげつない。中には、まだ若そうな修道女や子どももいた。
「教会を潰してもミックスが調子に乗るだけだ。奴らは元々人間。所詮は共食いを悪化させるだけだろうに」
「……連中はそこまで気づいてないんだろうな」
昔は人間にももっと理性的な者がいたらしいが。嘆かわしい世の中になったものだ。
重いため息をこぼし、二人は振り返って硬直した。
「……アンリはどこだ?」
一緒にいたはずの仲間がいない。
ようやく食事の仕方を学び始めたばかりの幼いヴァンパイアが。
二人が目を離した隙に、どこかに行ってしまったようだった。
「どの匂いも、あまりおいしそうじゃないなぁ」
お腹をすかせたアンリは、辺りをきょろきょろと見回しながら夜の町を歩いていた。漂う血の匂いを細かく選別し、ため息とともに首を振る。どれも、すでに死んだ人間の匂いで、生臭かった。それでも飲めないことはないが、どうせ町に来たのだから、やはり新鮮な血が欲しかった。しかし、生きている人間はしっかり戸締りをして家に籠っている。ハンターでもない限り、このご時勢では夜中に外へ出る人はいなかった。
「これがリュシアンの言ってた、『生存の危機』ってことなのかな」
呑気に歩きながら、一人で呟く。近年暴走を繰り返すミックスの影響で、純粋なヴァンパイアにも大きな支障が生じていた。ミックスとは、妖魔の血が混ざって拒否反応を起こした人間の成れの果てだった。人にも妖魔にもなりきれない彼らは、本来血を分けた主人に従うものだが、人間のハンターが増加したことにより、主人を失って暴走を繰り返す者が増えていた。
「おや?」
ふと、アンリの鼻がひとつの匂いを嗅ぎ分けた。
「おやおや?」
吸い寄せられるように、自然と足が向かっていく。とろけるような甘い匂いは、間違いなくご馳走の匂いだった。それも、生きた女性だ。
アンリのお腹から、可愛らしい音が鳴り響く。
「おっと、いけない。紳士たるもの、いつでも品良く、毅然としてなきゃね」
すかさずお腹に力を入れ、気合いで音を止めようと試みる。が、やはり空腹は耐えられない。おまけにこの匂い。品良くと言ってるそばから、涎がこぼれそうだった。しかし、匂いに引き寄せられたのは彼だけではなかったらしい。そこには、多くの先客たちが群がっていた。
「うわあ。いっぱいいるなあ」
貴重なご馳走を前に、派手に取り合いをしている。先客は全てミックスのようだ。それなら、アンリが遠慮する必要はない。
「みんなどいて。邪魔。このご馳走は僕のものだよ」
堂々と歩いていくと、気づいた彼らが道を開ける。たとえ幼くとも、純血のアンリが混血の彼らに負けることはなかった。悔しそうに顔を歪める彼らを気にもせず、アンリは難なくご馳走に辿り着いた。
「お姉さん。怪我してるの?」
そこには、首から大量の血を流した女性がいた。すでに息はか細く、浅い呼吸を繰り返している。
ヴァンパイアたるもの、いつでも紳士でいろと日頃から教えられているアンリだが、まだ幼い彼には、このご馳走を前に理性を保つことは難しかった。
むせ返るほどの甘い匂いに、思わず顔を近づける。流れ落ちる血を舐めようと口を開けたとき、
「アンリ!」
聞き慣れた声に呼ばれ、彼は慌てて身を起こした。
「リュシアン。ヴィドック」
保護者のご登場だ。
「一人でうろつくなと言っただろう」
しかめた顔でリュシアンに怒られ、アンリは慌てて言葉を返した。
「だってご馳走の匂いを見つけたんだ。もう少し遅かったら、ミックスにとられるところだったんだよ? 若い女性は僕たちにとっても貴重じゃないか」
うまく言い逃れようとして言ったのだが、ヴィドックが鼻を鳴らして疑いの眼差しを向けた。
「僕たちねえ」
アンリはたじろぐ。おまけにリュシアンからも睨みつけられ、小さく萎縮してしまった。
「ヴァンパイアのルールのひとつ。瀕死の女性から血をもらうことはしない。知らなかったとは言わせないぞ」
「ご、ごめんなさい……」
ここは素直に謝った方が得策だった。この保護者を敵に回せば、どんなお仕置きを与えられることか。食事を抜かれるか、礼儀作法の授業を増やされる恐れもある。書庫に閉じ込められたこともあったし、ヴァンパイアの規則を千回も書き写すという罰もあった。アンリにとっては、どれも耐え難い苦痛だ。
しかし、彼はちらりと女性を盗み見た。せっかくまだ生きているのに、血をもらえないどころか見殺しにしなきゃならないなんて、どう考えてももったいない。これを逃したら、次はいつになるかも分からないのに。
「それじゃあ……、このまま死なせちゃうの?」
血をもらってももらわなくても、どっちにしろ助かる見込みはないと思った。すると、リュシアンがおもむろに彼女を抱き上げた。
「連れて帰って治療をする」
運良く回復できれば、屋敷に住ませて定期的に血をもらうことができる。もし助からなくとも、死んだ直後の血ならまだ味も悪くない。このまま見捨てるのは惜しかった。
「帰るぞ。撤収だ」
何より、この甘い匂いを放っておくことはできなかった。
◇◇◇
気づいたら、知らない部屋にいた。
顔を動かそうとして、首に激痛を感じて息を呑む。
(ああ……、そうか)
意識を失う前のことを思い出し、ティティーヌはぼんやりと考えた。
家族と一緒にミサに行き、反乱に巻き込まれたのだ。市民でも、教会に通う者は敵と思われたようだった。目の前で司祭様が殺された。父も、母も、弟も。
(そして私も)
殺されたはずだったが、どうやら一命を取り留めたらしい。現状から察するに、心優しい誰かが助けて手当てをしてくれたのだろう。
それにしても豪華な部屋だ。自分が横たわっているベッドは、大きなキングサイズで天蓋つきだった。温かい布団も肌触りが良く、ふかふかで気持ちがいい。部屋も広く、アンティークで凝った作りの調度品が置かれている。クリスタルの大きなシャンデリアが、天蓋から半分ほど見えていた。まるでどこかの城のようだ。こんな立派な屋敷、近所にあっただろうかと不思議に思った。
時間は何時だろう。あれからどれくらい眠っていたのだろう。目だけを動かして時計を探したが、自分の位置からは見えなかった。代わりに目に入った窓は、分厚い遮光カーテンで外からの光が遮られており、今が昼なのか、夜なのかも分からなかった。部屋のあちこちに蝋燭が灯されているので、程ほどに明かりは確保できているが、自分以外に人はなく、ひっそりと静まり返っていた。
ティティーヌは、再び目を閉じた。屋敷全体に、人の気配はない。今は夜なのだろうか。住人が眠っているからこんなにも静かなのかと考えた。物音が一切聞こえないのだ。自分の呼吸が、いつもより大きく聞こえる気がした。体がひどくだるい。血を流しすぎたせいかも知れない。
他にも、助かった人はいるんだろうか。父や、母や、弟は、別室で自分と同じように眠っているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ティティーヌは、家族の中で一番最後に殺された。目の前で家族が切り捨てられるのを見たのだ。血飛沫が上がり、視界が真っ赤に染まっていった。あんな風に切られて、彼らがみんな無事でいるとは思えなかった。
横になったまま考えていると、どこからか物音が聞こえた。屋敷の住人が起きてきたのだろうか。目を閉じたまま耳を澄ましていると、人の話し声も聞こえてきた。小さくて言葉は聞き取れなかったが、時折和やかな笑い声が聞こえ、ティティーヌの気持ちを落ち着かせてくれた。人の声を聞いて、安心する自分がいた。何度か、部屋の前を通り過ぎていく足音も聞こえた。動くこともできず、ぼんやりと天蓋を見つめていると、不意に扉の開閉音が聞こえてきた。
「お目覚めですか?」
慎重に、ゆっくりと顔を動かして、入ってきた人物を見た。
「良かった。どうやら持ちこたえたようですね」
にっこりと微笑み、穏やかに話しかけてきたのは、品のある初老の男性だった。白髪の混じった髪をきれいに分け、飾り気のないブラウスに濃紺のベストを羽織っている。どこか、貴族の執事でもやっていそうな格好だ。声を出そうとしたティティーヌは、口を開けて顔を歪めた。
「もしかして、お声が出ませんか」
「出すと……、痛い……」
かろうじて掠れた声で答えると、老人もすぐに察して頷いてくれた。
「フランク・ケティルサンと申します。このお屋敷の主はリュシアン・ウィケット様です。あなた様をお助けになられたのも、リュシアン様ですよ」
聞いたことのない名前だった。人を雇い、これほどの屋敷を持っているとなれば、名前くらい知っていてもおかしくないのだが。ここは、自分が住んでいた町からどれほど離れているのだろうか。
声を出すのが辛くて、考えを自分の中だけに留めたティティーヌに、フランクは優しく言い聞かせてくれた。
「暴動に巻き込まれたそうですね。主の話によりますと、息があったのはあなた様だけだったそうです。それでもひどい出血をしておりましたので、どうかと思っておりましたが、いやはや本当に良かった」
ティティーヌは目を見開いた。
「私……だけ?」
嫌な予感が的中した。予想した通り、家族はあのまま死んだのだ。それでも心のどこかで、もしかしたら生きているかもしれないと、かすかな希望を抱いていたが、それも儚い夢と化した。
「……心中はお察しします。我が主も強くご同情され、あなた様を引き取る考えでございます。これからはここを我が家と思い、安心してご静養なさってください」
家族の死を突きつけられ、涙が静かに流れていった。もう二度と会えないと思うと、胸が苦しくて息が詰まる。今までの思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
貧しい家庭だったが、いつも温かかった。父と母は仲が良く、自分もこんな夫婦になりたいと憧れた。年の離れた弟も、素直で賢く、姉思いの優しい子だった。
「ごめ……なさ……」
まずは助けてもらった礼を言わなければならないのに、涙が止めどなく溢れてどうにもできない。両親に、弟に、今すぐ会いたい。なのに、もう会えない。
しゃくり上げた拍子に首が痛み、ますます顔が歪んでいく。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
贅沢もせず、罪を犯すこともなく、ただささやかな平穏に浸っていただけなのに。妖魔の危険に脅えながらも、昼間の平和な時間に感謝した。
だけど、自分たちの命を狙ったのは人間だった。家族の命を奪ったのは、自分と同じ人間だった。
「……あまり泣かれますと、お身体に触りますよ」
「少し……、一人にして……くださ……」
気遣ってくれるフランクには申し訳ないと思ったが、まともに対応できる気分ではなかった。失ったものが大きすぎて、強い絶望感に駆られていた。
「ごめ……さ……」
「いいですよ。もうしばらくしたら、お食事をお持ちします」
フランクは終始穏やかな笑顔を見せ、部屋から出て行った。




