生 贄3
匂いがない。
二階に上がったヴィドックは、かすかな匂いも逃すまいとして、慎重に嗅ぎ分けていた。
だがティティーヌの匂いは見つからない。おそらく、クレイは彼女が石のまま運び入れたんだろう。考えてみれば、屋敷に着くまでも彼女の匂いは一切なかった。フィーナを利用したのも、このためだったのだと改めて気づいて、舌打ちしたくなる。
もしかしたら、今も石になっているんじゃないかと思ったが、すぐに考え直した。
ここに来てからも、クレイは新たに血を飲んでいる。そのためにはティティーヌを元に戻さざるを得ないはずだ。
しかし、奴は呼びかけても無駄だと言っていた。それは彼女が故意に答えないか、答えられないかのどちらかだ。ヴィドックの考えでは、前者はあり得なかった。
だとすれば、血をもらった後に再び石化させた可能性が高い。それが外で行われていたとすれば、屋敷内で彼女の匂いを掴むことは不可能だ。しかし、外でも彼女の匂いは感じられなかった。
(どういうことだ?)
不思議に思いながらも、辺りの匂いを嗅いでいく。刻々と時間は過ぎ、焦りだけが募っていた。自分の嗅覚をもってしても、それらしいものが見つからない。
ヴィドックは、改めてティティーヌの匂いを思い出そうとした。
血の匂いよりも、彼女自身の匂いだ。
嫌味にも、あちこちに噴きかけられた数種類の香水が疎ましい。
屋敷内には、様々な匂いが溢れている。クレイや自分達の匂い、使用人の匂い、食料や香辛料の匂い、酒の匂い、石鹸の匂い、埃の匂い、染料や土の匂い……、数え切れない種類が漂っているのに、彼女の匂いが感じられない。
(ティティーヌ)
いつも首の傷のせいで、彼女自身の匂いよりも血の匂いが強かった。生肉を思い起こすあの匂いに、一度も食欲を感じなかったと言えば嘘になる。だがヴァンパイアならともかく、人間を食わない人狼が、彼女をどうこうしたいという気持ちは湧かなかった。それよりも、心の傷を癒してやりたかった。そんなヴィドックの気持ちに応え、彼女も心から信頼してくれたのだ。
(必ず、見つけてやる))
見つけるまでは帰らない。
意識を研ぎ澄まし、ひたすら彼女の匂い探しに集中した。
◇◇◇
「ずいぶん手こずってるようだねぇ」
広いロビーにイスを運ばせ、クレイは優雅にワインを味わう。
「能力というのは、使わないと衰える。人狼の嗅覚も鈍ってきたかな」
彼の正面に座ったリュシアンとサーガは、腕を組んでじっとヴィドックを待っていた。
(あいつならやってくれる))
ヴィドックを信頼している二人は、よけいな感情をひとまず追いやり、待つことだけに専念した。
彼が人狼の次期頭首に選ばれているのは、血筋によるものだ。彼の家系は、代々一族の長を引き継いでいる。多くの人狼をまとめる初代は、種族の中で最も優れた者が選ばれた。優れた者にはふさわしい伴侶があてがわれ、二人の間にも優れた子が生まれる。恵まれた環境も伴い、何代も同じ家系から長が輩出された結果、自然とその家系が頭首を務める流れになった。子に複数の男児がいる場合は、更にその中で最も優れた者が選ばれる。そうして伝統は今日まで受け継がれ、ヴィドックが選ばれたのだ。
つまり、彼は一族の中で最も優れた能力の人狼ということになる。
事実として、ヴィドックは長の素質がある。身体能力は高く、頭の回転も速い。気持ちを落ち着かせ、冷静に物事を判断できるし、ここぞという時には先立って行動もする。有無を言わせない存在感と、人を束ねる才能は、天性とも言えるだろう。
時々毒舌になることと、マイペースなところが玉に瑕だが。
いざという時には誰よりも頼れる。それを知っているからこそ、二人はヴィドックを信じた。
「もう三十分は過ぎたね。やっぱり彼にも無理だったかな」
胸元から懐中時計を取り出し、クレイは退屈そうにあくびをする。すっかりくつろいでイスにもたれると、コウモリ人間に二杯目のワインを注がせた。人間の血を思わせる、真っ赤なワインだ。
(まさか、ティティーヌの血じゃないだろうな)
ワインだと分かっていても、つい疑いたくなってくる。ヴィドックには及ばずとも、ヴァンパイアは獣並みの嗅覚を持っている。血を嗅ぎ取れる能力から、確実にそれが酒であることは分かるのだが。そこに一滴でも彼女の血が入ってるんじゃないかと、嫌な予感が心を蝕んでいた。
(ヴィドック。頼む)
どうか彼女を見つけてくれ。
手遅れになる前に、彼女を無事な姿のまま連れて帰りたい。
これ以上クレイに彼女を与えることなどしたくない。
(頼む)
心の中で強く願った。
早く彼女を見つけてくれと。そして――
「ヴィドック!」
彼が現れた。
サーガが席を立ち、続いてリュシアンも立ち上がる。
クレイだけは座ったまま、顔だけをヴィドックへ向けた。
「見つかったかい?」
彼の言葉に、ヴィドックは無言で顔を動かし、ついてくるよう促した。
「それじゃあ行ってみようか」
クレイは残りのワインを飲み干し、嬉しそうに微笑んで席を立つ。
先を行くヴィドックに従い、階段を上っていった。
二階にたどり着くと、リュシアンは密かに匂いを嗅ぐ。ティティーヌの匂いは感じられなかった。ヴィドックは廊下を左手に進み、脇目も触れず歩いていく。彼が立ち止まり、振り返ったそこは――
「ここが、君の結論かい?」
クレイが尋ねた。
ヴィドックは早く開けろと言わんばかりに、前足で扉を掻いている。
「分かったよ。それじゃあ中に入れてあげよう」
クレイはあっさりうなずいて扉を開けた。突き当たりの部屋だ。今は物置きとして使われていることは、リュシアンも知っていた。しかし、足を踏み入れたそこには、大量にあったはずの絵画や彫刻の一切が消えていた。代わりに品のいい家具がバランス良く配置され、普通の客間と変わらない光景が広がっていた。
だがティティーヌの姿はない。彼女の匂いも感じない。
ここが怪しいことは確かだが、罠という可能性も考えられた。
警戒して室内を見回すリュシアンとは逆に、ヴィドックは迷わず部屋の脇へと進んでいった。隣の部屋に続く扉の前で止まると、再び振り返って開けろと催促をする。
これにもクレイは素直に従い、どことなく楽しそうに扉を開けた。
「リュシアン。彼女の匂いはどうだ?」
こっそりと、小声で尋ねてきたサーガに、リュシアンは頭を振る。
「俺には分からない」
言いながら、隣の書斎に足を踏み入れた彼だったが。
「そうか。お前でも分かんねえようじゃ、よっぽどだな」
難しい表情を浮かべるサーガの隣で、リュシアンは顔色を変えた。
血の、匂いが。
香水に混じってかすかに匂う。
甘い、とろけるような舌触りが蘇り、無意識のうちに唾を呑む。
(いる)
ほんのわずかに漏れ出す匂いを敏感に感じ取り、リュシアンは顔を強張らせた。
書斎の更に奥へと繋がる扉の前で、ヴィドックはぴたりと静止する。
クレイはうっとりとため息をこぼした。
「ここまですれば分からないと思ったけど、さすがだね、ヴィドック。やはり君の嗅覚には敵わない」
目を細め、惚れ惚れとする彼の前で、ヴィドックはあっという間に人間へと姿を変えた。首に下げていた荷物から着替えと靴を取り出し、手際良く身なりを整える。そして、低い声で促した。
「開けろ」
「残念だな。私は狼の方が好きなんだけど」
「お前が開けないなら俺が開ける」
「分かった分かった。開けるから、乱暴はやめてくれよ。彼女は今休んでいるんだから」
強引に押し入ろうとしたヴィドックを慌てて止め、クレイは静かに扉を開けた。
むせ返るような血の匂いが鼻につく。
ティティーヌが、大きなダブルベッドで静かに眠っていた。ひと目で青白いと分かる肌の色とやつれた顔立ちが、どれほど血を奪われたのかを物語っているようだった。クレイがヴィドックに声をかけても無駄だと言った意味がようやく分かる。石にされたわけでもなく、口止めをされたわけでもなく、ティティーヌは過度の貧血により起きていられない状態だったのだ。おまけに首元の包帯が真っ赤に染まっている。無茶をしたせいでまた出血しているんだろう。ただでさえ血が足りないのに。
少しでも気を抜けば、彼女を貪ろうとしかねない自分を叱咤し、リュシアンは慎重に進んだ。沸き起こるクレイへの怒りに心を委ね、食欲を抑え込む。
「ティティーヌ。起きて」
クレイが優しく彼女にささやきかけた。
人形のようにベッドに横たわっていた彼女が、ゆっくりと目を開け――
「クレイ……」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「リュシアン達が会いに来たんだ。起き上がれるかい?」
「手を……」
「ああ。それじゃあ失礼するよ」
クレイの手を借り、体を起こしたティティーヌは、彼が枕を立てて背もたれにしたのに気づくと、嬉しそうに見上げて頬を染めた。
「ありがとう」
恥らう彼女に、微笑み返すクレイ。
「どういう……ことだ?」
信じられない思いでリュシアンがつぶやくと、彼女の視線がこちらに向けられた。
「そちらは……?」
サーガを見つけて興味深そうに目を丸めるティティーヌに、傍らに座ったクレイが優しく教える。
「彼はサーガ。あなたを石化したメデューサの兄だよ」
うなずいた彼女は、丁寧に頭を下げた。
「……初めまして。もう知ってるだろうけど、ティティーヌと言います」
サーガは完全に絶句している。
「それで、妹をそそのかしたクレイを懲らしめ、私に謝るつもりで来たの?」
「あ、まぁ……」
「クレイだけを悪者にするの?」
「え、えぇーと……」
困惑して言葉を濁すサーガを一瞥し、ティティーヌの視線はリュシアンへ、そしてヴィドックへと移っていく。
「心配をかけてごめんなさい。でも私は、もう戻らないわ」
謝罪を告げると共に、毅然とした態度で彼女は言った。
「クレイのやり方は確かに間違ってた。それは責められても仕方のないことだわ。でも彼は、決して悪気があったわけじゃない。私にも、こうして親切に接してくれてる。クレイはとても優しい人よ」
三人の男が、揃って言葉を失った。
「彼の傍に……、いてあげたいの」
申し訳なさそうに、それでいて切なそうな眼差しを見せ、ティティーヌは言った。
「あなた達の誤解を解けたら嬉しいけど、そう簡単にはできないでしょうね……」
肩を落とす彼女の手を、クレイがそっと掴み取る。
「ティティーヌ……。私のことは気にしなくていいんだ。その気持ちだけで十分嬉しいよ」
「でもあなたを誤解されるのは嫌だわ」
「ありがとう。君は本当に優しいね」
愛おしそうに見つめ合う二人を前にして、誰も口をはさむことができなかった。




