08:天は野口の上に野口を作らず1
遅くなりました。
天は野口の上に野口を作らず。
そこまで書いた加藤は、それが「天野」と「上野」に見えるなあとぼんやり眺めていた。
「どうかしましたか?」
「ん? ああ、いや……」
ルルア嬢の言葉で我にかえった加藤は、先ほど自分が書き込みをしていた書類をしげしげと眺め直す。
「この書類作成したの、ギルド長なんだなあ、って」
「あ、読めるようになったんですか?」
「少しだけね」
「やっぱりクラインバウムさんは元教師だけあって、教えるのが上手ですね」
「いや、俺の覚えるのが早いとかじゃね?」
「冗談も休み休みにして下さいね」
「あ、はい」
加藤が異世界にやって来てから数日。クエストを受けた冒険者たちのおかげで、加藤は随分とこの世界のことを知ることが出来ていた。元教師などの、知識や教えることの経験に富んだ者が思いのほか多く居たのも、加藤にとって幸運だったと言えるのかも知れない。
そしてもうひとつ幸運なことに、あの日加藤は無一文にならなかった。
最後に食堂へやって来たギルドの有能なる職員、ルルア嬢の説得という名のお説教により、所持金の一部をギルドへ預けさせられたからだ。
ただそれでも、その場にいた全員の腹を満たすには充分だったのだが。
ギルドは所属冒険者のための銀行のような業務も行っていて、預金額は特殊な魔導具でプレートに灼き付けるため偽装偽造の類は出来ないだの、他の街にあるギルドでも引き落としが可能で重い硬貨を大量に持ち運ぶ必要が無いなど色々あるが、加藤にとってそこはあまり重要ではなかった。
「いや、あのギルド長直々に書類を作成するなんて流石は野口だな……と思ってさ」
「寝言は寝てから言って下さいね」
「あ、はい」
ギルドのフロアではなくとある一室。ニコリと微笑むルルア嬢の瞳には笑みなど無かった。
加藤は返事ひとつで再び書類に向かい、次に「野口の下に野口を作らず」と書いてみた。今度は別に何かに見えたりはしなかった。
手に取り、二文書かれた書類を改めて眺める加藤。
そしてしみじみ思った。
もう使えないなこれ。
「書けました?」
そんな加藤の仕草に、書き上がったのだと思ったルルア嬢が声を掛ける。
「ノグチさんの遊興癖とギルド長の書類嫌い。両方封じられるんですから」
お得なものですよね。そう笑みながら受け取ろうと手を伸ばすルルア嬢。
だが加藤は渡そうとせず、かわりに口を開いた。
「やっぱり、そういう意図があったんですね」
「そうですよ」
書類を渡そうとしない加藤に、怪訝な顔をしながらも答えるルルア嬢。さらに手を伸ばすが、依然加藤は書類を渡そうとしない。
「えっと……ノグチさん?」
「いやあ、書類の作成者にギルド長の名前がある時点でもしかしてと思ったんだよね」
「……はあ」
「まあそうでなくても結果は同じだったろうけど」
「はあ?」
そして疑問顔のルルア嬢へ、加藤は静かに書類を向けた。
「作成者がギルド長だとわかった瞬間、関係ないことを書き込んでいた。後悔はしていないが反省もしていない」
「あ〜……これは書き直しですね……書類を」
「何してんだコラァッ!」
向けられた書類を覗き込み、読めないながらも明らかに名前ではない文があるのを認めたルルア嬢は、怒るでもなくニッコリとそう結論づけ、その結論に今まで黙って仕事をしていたガースニクスが吠えた。
とある一室……というかギルド長室。
そこに居る3人……加藤、ルルア嬢、そしてガースニクスは、それぞれの席でそれぞれの書類に対峙していた。
ガースニクスは数枚を嫌そうに。
ルルア嬢は結構な量を難なくきびきびと。
そして加藤はたった一枚をぼんやりと。
ガースニクスの前にある数枚は加藤が持ち込んだ胡椒関連、具体的に言えば商業ギルドとの売買契約書だ。
通常なら、冒険者たちが持ち込んだ素材の類をまとめて商業ギルドへ卸すやり取りも職員まかせにしている。だが、まとめると言っても傷みやすいものもある関係からだいたい1日ないし2日に1回、価格的にもさほど高額な取引というわけでもない。今回のような一定以上の高額取引には、やはりギルド長による契約書の作成が必須だった。
「こんなちまちましたもんを、もう一回とかテメエ……!」
ペンを置き、加藤を睨むガースニクス。そのペンが帯びていた淡い光が徐々に失われていく。
その様を見て、ホント、ファンタジーだなと加藤はこちらに来て何度目になるかわからないことを改めて思った。
この世界は魔力に満ちている。
正確には、満ちているのは魔素と呼ばれるもので、その魔素を呼吸などで取り込み、体内で蓄積されたものが魔力だ。
問題なく呼吸が出来ているので、地球世界と同じ空気プラスアルファとして魔素というものがあるのだろう、と加藤は推測している。
ともあれ、そうしたものである故、魔力とは無縁な異世界人だった加藤の身にも日々魔力が蓄積されるようになっていた。
ただし加藤の場合、瞬間的とはいえ転移時に膨大な量の魔素に晒されたため、既に少なくない魔力を有しており、そのおかげでこの世界の人間として疑われずに済んでいたりするのだが。
体内に取り込まれた魔素は、その身体に馴染むよう変質する。それは魔力紋と呼ばれ、ふたつとして同じものが無い。たとえ双子であっても微妙な、けれど明らかな差異の出るものであり、そうした魔力を個人認証へ利用した技術がこの世界には存在していた。
ガースニクスが今置いたペンもそのひとつだ。ペンを通じて魔力を付与したインクで書くことにより、魔力紋の入った文書を作成するというもので、重要度が高くその権限を有した者しか作ってはならない文書を作成する際に使われる。
サインだけでいいんじゃねえか面倒くせえと加藤などは思ったりもしたが、その文書の存在から制限を掛けることで、偽造を元から絶つことになるのだとか。
ちなみに、ルルア嬢が処理しているものは通常のクエスト書類なので、使っているのは普通のペンだ。彼女がここに居るのは別の理由からだった。
「ギルド長、怒っても書き直しは無くなりませんよ」
「ぐッ……!」
「あとさっさと仕事して下さい。今日ですよね? 何で契約書がまだ用意出来てないんですか? 早くしないとハンナさん来ちゃいますよ」
「ぐぬぬっ……!」
書類から顔を上げもせずにガースニクスへ苦言を呈するルルア嬢。
ざまあみろという表情をする加藤に睨みを飛ばすが、それ以上は何も言わずに自分の席へと座り直し、書類との格闘を再開する。
「あ、ノグチさんの書類書き直しは一番最後、もう何だったら明日でもいいので」
「なっ!?」
だがルルア嬢の刃は、加藤にも容赦なく向けられたのだった。