其の四
あの時、私は佳代の死を目撃した。
彼女の頭蓋が割れる音を聞き、彼女の血の色を見た。彼女をそんな目に遭わせた人物の存在も知っていた。
それなのに、私は恐ろしくて。
大人の男に殺すと言われたことも、目の前で佳代が殴られ死んでしまったことも、人形のように頽れたあの子の体も、全部恐ろしくて。
忘れてしまった。
あの場所で見たもの聞いたものを全部記憶の底に押し込め、恐怖心で蓋をして、なかったことにした。佳代とはかくれんぼの途中で別れてそれっきり――そう、感情が理性を騙した。
翌日、佳代が行方不明になっていると聞いた時、私は完全に事実を忘却していた。
親や教師に一緒に遊んでいたと言い出せなかったのは、単に置き去りにして帰ってしまった罪悪感からだった。その程度の傷なら時間が癒してくれると、私は無意識に分かっていたのだ。
自覚していた以上に、私は狡猾な人間だったらしい。ではこれがその罰なのだろうか。
ずる、ずる、と重いものを引き摺るような音が聞こえてくる。私は薄いベニヤの壁に身を寄せて、息を潜めてそいつの様子を窺っていた。
あの影男に追い立てられてやってきたのは、校舎の東側だった。工事中でシートに覆われているせいか、不気味に薄暗い。身を隠した女子トイレには照明も点いていなかったが、私は暗い個室のひとつに隠れ、影男が廊下を通り過ぎるのを待っている。
ずる、ずる――あいつが引き摺っているのは、きっと佳代の体。あの日、頭から血を流して息絶えたあの子の亡骸だ。あいつはあの後佳代をどこに連れて行ったのだろう。
二階の窓から見える女の子の姿、廊下に落ちてきたキャラメル、校舎の中を自在に駆け回るあの子――あたしはまだここにいるよ。
「ここに……いるのね……」
その言葉の意味が初めて分かって、私は小さく呟いた。
「いるよ」
声は上から聞こえた。
灰色の天井から、佳代の首が逆さまに生えていた。長いおさげが垂れ下がっている。感情の籠らない黒々とした目は、あの時と同じだった。
「ここでずうっと待ってたの。誰も気づいてくれなくて、でもミッちゃんならきっと探しに来てくれると思って、待ってたの」
個室の壁の一部がぐっとせり出して、細い腕になった。冷たい掌が私の首筋を掴む。
「戻ってきてくれてありがとう――もう帰さない」
その華奢な手は私の喉元を締め上げ、恐ろしい力で引き寄せた。私は踏み留まる余裕もなく引っ張られて、勢いよく壁にぶつかった。めり込むほどに顔が押しつけられても、手の力は緩む気配がない。私は息ができず、ピンで留められた昆虫のように動けなかった。
ここにいる、佳代はここにいるのだ。
「……ごめんね……忘れててごめんね……でももうとっくに遊びは終わってるの……」
私は喘ぎながら必死で声を出した。天井の顔は凝視を続けている。
ずるずるずる――ドアの向こうの足音が近づいてくる。あいつに気づかれたのだ。
「か、佳代……一緒に帰ろう……!」
個室のドアが開いて影が割り込んできたのと、凄まじい轟音が響いたのは同時だった。
足元が揺れ、壁が迫り、天井が落ちてきて――何かに激しく頭を打ちつけて、私の意識はそこで途切れた。
ミッちゃんが帰りたがってるの、あたし知ってた。
あたしのことあんまり好きじゃないのも知ってたよ。他のみんながいる所でしか、ミッちゃんあたしに笑ってくれなかったもん。
だからちょっとワガママ言って怒らせたくなったんだ。ごめんね。好きじゃないあたしのことをいつも庇ってくれて守ってくれて、ほんとは嬉しかったんだよ。
一緒に帰ろうね。
写真の中で微笑む彼女は、記憶にあるよりもずっと可愛らしかった。生き生きした表情の、ごく普通の女の子だ。こんなに自然に、彼女は笑っていたのだ。
床の間に祭壇を設えた六畳の和室は狭苦しく見えた。隅で扇風機が首を振っている。急ごしらえの祭壇には花飾りと、遺影と位牌と、白い布で包まれた骨箱。その手前には線香立てがあって、今しがた私の上げた線香が細い煙を立ち上らせていた。
遺影に向かって長く手を合わせた私は、数珠をしまって祭壇の前から退いた。遠藤さんは深々とお辞儀をしてくれる。
「来てくれてありがとうね、美弥子ちゃん」
「おばさん……申し訳ありませんでした」
私もまた、畳に手をついて頭を下げた。扇風機の風が首筋を撫で、線香の香りが吹き散らかされた。
「怪我はもう大丈夫なの?」
遠藤さん――佳代の母親は、逆に私を気遣ってくれた。佳代によく似た面差しは穏やかな笑みを浮かべている。私の母親と同世代のはずだが、頭髪の半分が白くなっているからか、ずいぶん老けて見えた。
私は喪服の裾から出た足先を摩る。擦過傷や痣はほぼ完治したが、膝の骨にヒビが入った右脚だけは一ヶ月経った今でも痛みが残っていて、正座ができない。
しかし、あの事故を考えればこの程度の負傷で済んだのが奇跡だった。
あの日、改修工事をしていた校舎の一部が突如崩壊し、トイレに追い詰められていた私は、数時間後にその瓦礫の中から救出された。
建物の東端は三階まで壁が崩れ、鉄骨が剥き出しになり、酷い有様だった。地震での破損が予想以上に深く大きかったのだと、後になって判明した。夏休み中で児童がおらず、教員はみな職員室で仕事をしていたため、他に負傷者が出なかったのが不幸中の幸いだろう。
私が目覚めた時、病院のベッドの脇には両親と、泣きそうな顔の美樹が付き添ってくれていた。美樹は無事だったのだ。
訊けば、赤いバッグを持った『かよちゃん』という女の子と遊んでいたのだと言う。かよちゃんは学校のことをとてもよく知っていて、校舎の中を案内してくれた。かくれんぼをして遊んでいたが、美樹はそのうちになぜか眠くなってしまい、事故の轟音で目が覚めるまで教室のひとつで眠っていたらしい。
佳代は美樹を私だと思って遊んでいたが、決して傷つけるつもりはなかったのだと思う。娘が消えて動揺していたとはいえ、あの子を泣かせてしまった自分の酷い言葉を、私は深く後悔した。
もちろん、発端となった小学校二年生の夏の出来事も。
「本当に申し訳ありませんでした……私が昔ちゃんと事実を話していれば……」
「謝らなくていいのよ、美弥子ちゃん。あの子がこうして帰ってきてくれただけで、私は十分です」
遠藤さんは目を細めて祭壇の骨箱を眺めた。
彼女の一人娘は、崩落した校舎の床下にいた。
瓦礫の撤去作業中に、壊れた基礎部分のコンクリートの中から出てきたのだ。Tシャツとキュロットスカート姿の小さな白骨死体は、赤い水着バッグを抱えていたという。二十五年前のあの夏、今の校舎は新築工事が始まったばかりだった。あいつは佳代の遺体の処理に困って、そこへ隠したのだろう。
佳代はずっとあそこにいた。真新しい校舎の下で、誰かが気づいてくれるのを待っていた。
あの時見たこと、少なくとも覚えていたことを私が話していれば、佳代はもっと早く見つかっただろう。いや、私がかくれんぼを放棄せずに彼女を探し出して一緒に帰っていれば、彼女はそもそも死なずにすんだかもしれない。
「あなたも怖い目に遭ったんでしょう? 頭に血が上ると見境のない人だったから」
諦めの滲む声で紡がれた遠藤さんの言葉が誰を指すのか、分かっていた。
――おまえは何で父さんの気持ちが分からないんだ! おまえもあいつも、何で父さんから逃げるんだ! ええ!?
激高したあいつはそう叫んだ。遠藤さんの別れた夫、佳代の父親――妻や子に暴力を振るっていたというその男は、子供を取り戻しにきたのだろうか。
実は当時から佳代の父親に誘拐の嫌疑が掛かっていたのだが、確たる証拠がなかった。今回DNA鑑定で遺体が佳代だと判明し、私の証言もあってその容疑はほぼ確定した。しかし、今となっては彼を逮捕することはできなかった。二十年も前に、彼は山中で首を吊って死んでいたからだ。
事件も関係者も、もう全部が過去になっていた。
「私がきちんと戦わずに、あの人から中途半端に逃げてしまったのが悪いのよ。何の罪もない娘を巻き込んでしまった。こんなことならあの人を殺しておけばよかった。本当に……佳代にはかわいそうなことを……」
遠藤さんは何度もハンカチで目を拭った。私は何も言えなくなる。口先だけの慰めなんてあまりにも非礼だし、自分と美樹の境遇を思うと身につまされた。
ああごめんなさいねと、彼女は鼻を啜り上げた。
「美弥子ちゃん、あなたも気をつけなさい。あなたのご主人はあんなクズじゃないと思うけど、お子さんを大人の都合の犠牲にしては駄目よ」
「はい……おばさん、どうか佳代ちゃんをゆっくり休ませてあげて下さい」
「ええ、ありがとうね……あの子と仲良くしてくれて。あの子、あなたの話ばっかりしてたのよ」
心からの感謝を向けられて、私はいたたまれなくなった。私はそんなに立派な人間じゃない――そう叫びたかったが、もしも『娘のたった一人の友達』の存在が遠藤さんにとって救いになるのなら、これからも友達でいてあげようと思った。
自己満足かもしれない。けれどそれが私にできるたった一つの償いだった。
遠藤家を出て空を見上げると、九月の青空は高かった。気温はまだ高く日差しもきついが、夏中居座った不快な湿度はすっかり鳴りを潜めた。
私は日傘を広げて、少しだけ右脚を引き摺りながら歩き出す。
明日からようやく新しい職場に出勤できる。怪我のせいで入社が大幅に遅れてしまい、ずいぶん迷惑をかけてしまった。内定取り消しになっても文句が言えないところ、辛抱強く待ってくれた会社には感謝の気持ちしかなかった。
小学校へ続く並木道を横切ろうとした時だった。
通学路の坂道を駆け下りる賑やかな足音がして、顔を上げると、ランドセルを背負った学校帰りの女の子たちが走ってきていた。先頭はすっかり日焼けをした美樹である。
美樹は私に気づいてバツが悪そうに立ち止まる。
「美樹! お家に帰らないの?」
「今からルミちゃんちに行くの。一緒に宿題をしてから、公園で遊んでもいい?」
学校の工事は規模を拡大して続いていて、校庭に残って遊ぶわけにもいかないのだろう。
美樹ちゃんのおばちゃんこんにちはー、と周りの子たちは口々に挨拶した。全部で五人いる。二学期が始まって二週間足らずだが、娘はうまくクラスの友達に溶け込めたようだ。
「五時までには帰るのよ。ルミちゃん? 美樹がお世話になります」
私が許すと美樹はやったあと言って、ルミちゃんと呼ばれた子ははにかむように笑う。連れ立って駆けていく子供たちを微笑ましく見送り、私は再び歩き出した。
だが、また立ち止まる――何か違和感を覚えて振り返った。
きゃっきゃと話しながら小走りに去ってゆく子供たち。
カラフルなランドセルの後ろ姿に混じって、異質な色合いが視界に残った。弾むような足取りに合わせて踊っているのは、赤いビニールバッグだ。
子供たちの後ろ姿は美樹を入れて七人。遠ざかっていく彼らの中に、長いおさげ髪の子が見えたような気がした。
あの年頃の子供は、大人には決して立ち入れない放課後を共有する。ひどく危ういその場所では、どれだけ遊んでも遊び足りるということがないらしい。
私はもう仲間外れだった。
子供たちはまるで昔からの仲良しのように楽しげに笑いながら、彼らだけの世界へと消えて行った。
-了ー