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其の三

 渡り廊下にも美樹みきはいなかった。私はいったん校舎に戻り、職員室へ向かおうとした。教諭に事情を説明して、学校の中を探させてもらうつもりだった。

 知らない場所を独りで探検できるような向こうっ気の強い子供ならいいが、美樹はどちらかといえば引っ込み思案で怖がりなのだ。私から離れて単独行動をするはずがないと油断してしまったことを、私は心底後悔した。

 自発的に動いてないとしたら、誰かに連れて行かれたのではないか。


 だが、私は廊下の途中で立ち止まった。突き当たりにあるトイレの前を、赤い色彩が横切ったからである。一瞬だったがはっきり見えた。それは赤いバッグを持った小さな女の子の姿だった。


 あたしはまだここにいるよ――白昼夢で聞いたクラスメイトの声を思い出して、頭で判断する前に、私の足はその子を追いかけた。





「あたしまだ家に帰りたくないよ。ミッちゃん、もうちょっと遊ぼうよ」


 佳代かよだけは私を『ミッちゃん』と呼んだ。みんな矢沢やざわをもじって『ザワちゃん』と呼ぶのに、彼女だけは美弥子みやこの『ミッちゃん』。何度訂正しても、そう呼ぶ。

 プールが終わったら、真っ直ぐ家に帰りなさいと言われていた。他の友達は佳代を私に押しつけてさっさと帰路についている。


「お願い、ちょっとだけ。これあげるから、ね? かくれんぼしよ!」


 掌に押し付けられたのは、セロファンに包まれたキャラメル一個。ずっとポケットに入れていたのか、体温で温まり、ぐにゃりと歪んだ。


「ミッちゃんがオニね!」


 みんなの前ではオドオドして禄に口も利けないくせに、佳代ときたら、私だけには遠慮のない物言いをする。私の返事も聞かずに、校舎の方に向かって駆け出してしまう。

 私はしぶしぶ鉄棒に顔を押しつけて数を数えながら、自分に言い聞かせる。佳代は一人ぼっちなんだ。私が遊んであげなくちゃ。

 夕焼けが真っ赤に校舎と運動場を染めている。早く家に帰って夕方のアニメが観たいのに。お母さんにも叱られちゃう。


 もういいかーい?


「まあだだよー」


 プールのあと、ツッチィやリコちゃんはこっそり駄菓子屋に寄り道する。私も一緒に行きたかった。よく冷えたラムネが買えるくらいのお小遣いは持っている。


 もういいかーい?


「まあだだよー」


 でも佳代は一人ぼっちなんだ。私が遊んであげなくちゃ。佳代のお母さんにも、いつも仲良くしてくれてありがとねってお礼を言われたんだから。


 もういいかーい?


「まあだだよー」


 鉄棒に押し当てて握り締めた手の中で、もらったキャラメルが不格好に歪んでいる。汗ばんだ掌にそれはべたっとくっついて、甘ったるい匂いが不愉快に鼻を掠めて。


 心臓のところで何かが小さく爆発した。


 私はキャラメルを思い切り地面に叩きつけた。黄色い縞模様のセロファンは一度大きく跳ねて、土塗れになりながら転がっていく。


「もういいよー」


 佳代の声が聞こえてきたが、私は少しの躊躇もなくその場を走り去った。自分の赤い水泳バッグを抱えて。

 それが、佳代が行方不明になった日の出来事だった。





 色褪せたTシャツとデニムのキュロットスカートの後ろ姿が、私から一定距離を保って廊下を移動する。

 とても駆け足とは言えないのんびりした走り方なのに、私はなかなかその女の子に追いつけなかった。しかも校舎の中を知り尽くしているらしく、階段を上ったり教室を通り抜けたり、自由自在に走り回る。


「待って! ねえあなた! ちょっと待って!」


 私は必死に追いすがりながら呼びかけた。窓から差し込む日差しはいつの間にか赤みを帯び、緑色の床に窓枠の影が長く伸びていた。私たちはもうどのくらい追いかけっこを続けているのだろう。

 息が上がる、足がもつれる。ジャケットと日傘を詰め込んだバッグは肩に食い込み、細いハイヒールは容赦なく爪先を傷めつけた。


「待ってってば……! か、佳代!」


 私は彼女の名前を呼んだ。

 すると、五メートルほど先で音楽室に入ろうとしていた女の子が、立ち止まった。

 ゆっくり振り返った顔は、二十五年前の記憶にあるのと同じだった。パサパサしたおさげ髪と垂れた目――彼女はきょとんとしてこちらを見た。


「おばちゃん……だあれ?」

「わ……私……矢沢美弥子……」


 私も立ち止まって、両膝に手を当ててゼイゼイと息を吐いた。そうしないと倒れてしまいそうだった。


「あなたのクラスメイトの……ミッちゃんよ……覚えてないの?」

「うーそだあ」


 佳代は唇を尖らせた。明らかに猜疑の籠った視線を私にぶつけ、


「ミッちゃんはあたしと同じ二年生だもん。今かくれんぼしてて、隠れてるんだもん」

「そ、それは……私の娘なの。美樹っていうのよ。あなたが連れて行ったんでしょ? どこにいるの?」

「ないしょー」


 彼女が首を振ると、たすき掛けにした水泳バッグがぶらんぶらんと揺れた。大きな名札には『えんどうかよ』と書かれている。

 ここにいる佳代は何なのか、自分がいるのはどこなのか、この真っ赤な夕映えは現実のものなのか、私にはどうでもよかった。ただ美樹を、私の一人娘を隠したのは目の前の同級生だ。それしか頭になかった。


「仕返しをしたいなら、私にすればいいじゃないの!」


 私は激高して叫んだ。佳代はびくりと身を竦ませる。


 本当は佳代なんか大嫌いだった。グズで汚くて図々しい佳代を軽蔑していた。 


 仲良くしていたのは、そうすれば大人に評価されると知っていたからだ。先生からも親からも、いい子だねさすがクラス委員だねって褒められる。私は狡猾で冷酷な子供だった。

 したくもないかくれんぼで足止めされるうち、私は佳代のことが憎らしくなった。普段我慢をしていたのがぷっつり切れてしまって、それで、隠れたままの彼女を放って帰ってしまった。

 いつも他のクラスメイトがしていたのと同じ意地悪を、私も彼女にやってしまった。


「私が黙って帰ったから恨んでるんでしょ? だったら私を責めなさい! 美樹は私じゃないのよ!」


 こう捲し立てる私は、大人になっても冷酷なままだ。佳代の境遇を慮るでも、罪悪感に苛まれるでもなく、娘が無事戻ることだけを考えている。構うものか、と思った。私はもう子供じゃない、美樹の母親だ。


「そんなだからいっつも苛められるのよ! このグズカヨ!」


 私が怒りと焦りに任せて罵倒すると、佳代は黒い瞳にみるみる涙を溜め、鼻の頭を真っ赤にした。


「ち……違うもん……ミッちゃんはあたしを放って逃げたりしないよぉ……ちゃんと帰ってきてくれたの……」


 くしゃくしゃに歪んだ顔を何度も手で拭う。嗚咽に背中を震わせながら、


「ミッちゃんはずっとあたしと遊ぶんだ。おばさんの意地悪っ……!」

「だからあの子はあなたの知ってるミッちゃんじゃなくて……」

「おばさんなんか、あいツニ掴まッチャえ」


 語尾は奇妙にしわがれていた。佳代の頭から、どっと血が噴き出す。

 顔を上げた彼女は笑っていた。涙と血が一緒くたになって頬を伝い、Tシャツを染めている。

 ひっ、と声を上げて思わず後ずさった私の前で、佳代の小さな体が沈んだ。足からプールに飛び込んだみたいに、床の中にすうっと消えてゆく。


「怖イノが、来ルよ」


 床から首から上だけが出ていた。朱に染まった唇がそう告げて、うふふふと笑いながら頭頂まで沈んでしまった。


「か……佳代っ!」


 私は我に返って床に膝を着いた。その時。


 ――やざわみやこちゃん、って言うんだね。


 聞き覚えのある声が、背後から響いた。

 私の水泳バッグの名札を読み上げた、あの声。平坦で感情の籠らない、あの声。

 何で忘れていたのだろう。


 ――他の人に喋ったら、殺すよ。


 私はゆっくり立ち上がり、振り返った。目と鼻の先に黒い顔があった。

 目鼻立ちは認識できない。黒いお面を被っているように見える。赤い赤い夕映えの中で、それはのっぺりとした影法師に見えた。


 ――やざわみやこちゃん。


 黒い手が、私に伸びた。





 正門を出て桜並木の坂道を駆け下りたものの、帰路を半ばまで過ぎたところで、私は立ち止まった。


 佳代は今頃、私が探しに来るのをじっと待っているのだろう。待って待って、日が暮れて、それでも私が戻らなかったら、私に裏切られたと知るのだろう。

 佳代のことは嫌いだったし、友達だとは思っていなかった。けれど自分を信頼している相手からこんな形で逃げ出すことが、どうにも気持ちが悪かった。

 矜持、なんて言葉はその時知らなかった。ただ、佳代が気に食わないならはっきり本人にそれを告げて喧嘩をするべきだと思ったのだ。あっちだって、私に言いたいことはたぶんあるはず。


 私はしばし逡巡したが、学校への道のりを再び取って帰した。

 並木道のセミはすっかり静まり返っていた。空はますます赤く、東の方には夕闇が迫っている。坂道には誰もいない。私は汗だくになりながら走った。

 門はまだ開いていた。そろそろ先生方も帰る時刻だろう。彼らに見つからないことを祈りながら私は校庭に入って、佳代の姿を探した。


 彼女は運動場の鉄棒の所にいた。私があんまり遅いから、痺れを切らせて出て来たのかもしれない。私は言い訳を考えながら彼女に近づいた。

 しかしすぐに異変に気づいた。佳代の傍らには別の人影があって、彼女の腕を掴んでいたのだ。低く差し込む西日が逆光になって顔は見えない。大人だということは分かった。

 そいつも私に気づいた。数メートルの距離で立ち竦む私をまじまじと見詰める。

 佳代はひどく嫌がった様子でそいつの手を振り払おうとしていたが、黒い腕はびくともしなかった。


「やざわみやこちゃん、っていうんだね。佳代と仲良くしてくれてありがとう」


 そいつはゆっくりと言った。男の人の声だった。


「でも、他の人に喋ったら、殺すよ」


 殺す、という言葉が、私の体を鉛にした。そんな言葉をぶつけられるのは初めてで、しかもその声はあまりにも平坦だった。脅すような抑揚がないのが逆に恐ろしかった。


 佳代が何か叫んだ。腕を掴まれたまま、反対の手に持っていた水着バッグでそいつの顔を殴る。

 そいつの表情は見えなかったが、怒りの気配が伝わってきた。


「おまえは何で……の気持ちが分からないんだ! おまえもあいつも、何で……から逃げるんだ! ええ!?」


 そいつはバッグを払いのけ、空いている手で佳代の頬を張り飛ばした。反動で手が離れ、ひょろひょろの体は吹き飛ばされるように後ずさった。


 ゴツン、と低く鈍い音がした。

 鉄棒に後頭部を打ちつけた佳代は、大きく目を見開いたまま、仰向けに倒れた。乾いた土の上に赤い色が広がってゆく。


「佳代……佳代!?」


 自分のしたことなのに、そいつはなぜそうなったか分からないようだった。ぴくりとも動かない佳代の傍らに膝を着き、体を揺さぶる。痩せた首がぐらぐらと揺れた。彼女の真っ黒い目は煤に汚れたガラス玉のようで、じいっと宙を眺めていた。


 そこまでが、限界だった。

 私は耳を押さえ、歯を食いしばり、全力で逃げた。

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