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其の二

 プールの位置は昔と同じで、校舎の北側にあった。

 私の通っていた頃は素っ気ないコンクリート製だったが、最近作り直したらしく、薄いクリーム色の強化プラスチックになっていた。高学年用の二十五メートルプールと低学年用の十五メートルプールがあって、そのどちらでもたくさんの子供たちが遊んでいた。


 水飛沫と歓声の跳ねるプールサイドで、私は引率の親たちに挨拶をした。わざわざバツイチですとは自己紹介しなかったが、いずれ広まることだろう。

 子供たちは水遊びに夢中なので、美樹みきは仲間に入って行けずつまらなさそうにしていた。


「ママ、あたし下で遊んでるね」


 彼女は校舎からの渡り廊下に続く階段を下りていく。私も早々に退散しようと思っていたのだが、ゆかりのお喋りに引き止められてしまった。


「プールが終わったら、子供たちをみんな家まで送って行かなくちゃいけないのよ」


 ひさしのあるフェンスの所で、ゆかりはそう愚痴を言った。


「最近はほら、物騒でしょう? こんな田舎でも外で子供を独りにさせられないもの。東京じゃもっと大変だったんじゃない?」

「そうね……美樹の同級生でもGPS携帯を持たされてる子がいたわ」

「私たちの頃なんて、もっとほったらかしだったわよね。暗くなるまで遊んでても別に危ないことなんてなかったし……あ、でも」


 ゆかりは言葉を切って、一瞬宙を見詰めた。

 彼女が何を思い出したか、私には分かっていた。子供たちの楽しげな笑い声が、どこか遠い世界のもののように遠くに聞こえる。


「行方不明になっちゃったクラスメイトがいたよね……あれ、何年生の頃?」

「そういえばいたかもね。よく覚えてない」


 二年生の時だ。二年生の夏休み。


「ほら、大騒ぎになったじゃない。先生や父兄が駅前でビラ配ったりしてさ。神隠しだって噂になって……そう、遠藤えんどうさん!」


 ゆかりはポンと手を打った。その名前に辿り着いたことを誇るように微笑んで、


「ザワちゃんはわりと仲よかったよね? 下の名前はなんていったっけ?」


 わりと仲がいい――そんなふうに記憶されていたのか。


「……ああ……ごめん、覚えてないわ」


 佳代かよ。同級生の遠藤さんは佳代という名前だった。

 頭でっかちでひょろひょろで、何をやらせても要領の悪い子供。勉強も運動も苦手な彼女は、クラスメイトたちから『グズカヨ』と呼ばれていた。しかも身なりがどことなく薄汚れていて、頭はパサついたおさげ髪、いつも似たようなトレーナーとジーパン姿だった印象しかない。 

 そんなだから、みんなが佳代を馬鹿にしていた。子供は異質なものに敏感で残酷である。直接的な暴力こそなかったものの、佳代はクラスで仲間外れにされていた。誰も彼女を相手にせず、彼女の持ち物を触らなかった。


 もちろん佳代の置かれた状況は担任教諭の目にも留まっていて、休み時間にぽつんと教室に残っている彼女を仲間に入れてやるよう何度も指導された。クラスメイトたちは表面上は従うが、ドッジボールでわざと佳代にだけぶつけなかったり、かくれんぼで隠れた佳代を放置して教室に引き上げたり、露骨に酷い仕打ちをした。

 当時、クラスで佳代と普通に接していたのは私ひとりだったと思う。私はいわゆる優等生で、一年生の頃からクラス委員を務めていた。

 佳代が孤立した状態は芳しくないと判断した私は、幼い正義感から彼女を助けようと腐心した。毎日積極的に話しかけ、班分けのときは自分の班に呼んであげて、彼女がクラスで浮かないように気を配った。同じ地区に住んでいたので、登下校も一緒にすることが多かった。

 他の友達はそんな私に当惑していたようだが、「ザワちゃんはクラス委員だから仕方がない」と諦めたらしく、積極的に拘わりを持とうとはしなくなった。佳代がいない時は私と仲良くし、彼女がいれば遠巻きにする。彼らの反応は単純で、悪気がなかった。


 今振り返れば、私は運がよかった。あの状態がもう数年続いて、小学校高学年にもなれば、間違いなく私もまとめてイジメのターゲットにされたのだろう。

 しかし実際は状況がそこまで屈折する前に、私と佳代の付き合いは終わってしまったのだ。


「あの子たちと同い年だったのよねえ、遠藤さん、気の毒に」


 ゆかりはプールではしゃぎ回る子供たちを眺めて、しみじみと言う。自分が佳代を仲間外れにしていたことなど、もう忘れてしまったようだ。


 遠藤佳代は、二年生の夏休み、学校のプールから帰る途中に忽然と姿を消した。二十五年経った今でも行方不明のままだ。


「家に帰っても誰もいないから、きっと一人で遅くまで外で遊んでたのね。片親家庭だと子供はかわいそう……あっ」


 ゆかりは慌てて口をつぐんだ。私に対して失言だったと思い至ったのだろう。まあ世間の目はそんなものだと思ったので、反論する気にはならなかった。

 佳代の家も母子家庭だった。シングルマザーなんて言葉が定着する前だったから、こんな田舎のコミュニティでは奇異の目で見られていたはずだ。佳代が集団から弾かれたのも、親たちの偏見が子供たちに伝染してしまったからかもしれない。


「グズカヨのうちにはお父さんがいないんだって」

「だから貧乏で服が買えないんだね」


 クラスメイトたちはそんなふうに囁き合って笑っていた。


 幼い少女の失踪は小さな田舎町では大事件だった。

 誘拐か事故か様々な憶測が囁かれ、変質者を恐れた親たちは私たちを単独で外出させなくなった。登下校もあの時期は集団で行われていた。通学路には警察官の姿が増え、用水路や溜め池の底が残らずさらわれた。

 しかし、人間というものはそう長い間緊張していられないのだと思う。何ヶ月も経つうちに、町に蔓延した警戒心は薄れていった。

 特に子供たちは切り替えが早く、クラスの空気は事件直後こそ重苦しく沈んでいたが、徐々に日常を取り戻し、年が明ける頃には佳代の話題すら出なくなっていた。

 私も、そうしようと努めた。忘れたわけではない。だが忘れたことにしようと、彼女との思い出は他人に気取られないように心に沈めて生きていこうと思った。

 警察の捜査規模が縮小され、ビラ配りに協力するボランティアがいなくなり、最後まで佳代を探していたのは彼女の母親ひとりになった。たぶん今でも娘の帰りを待っているのだろう。


「……それにしても暑いわね。あっこら、そこ! プールサイドを走らないの!」


 気まずげに話題を変えたゆかりは、ふざける子供たちを大きな声で叱り飛ばした。


 私はフェンスに凭れて、階段の下にいる美樹の姿を見た。待ちくたびれているかと思いきや、娘は数人の子供たちと楽しげに話している。プール遊びが終わった子たちだろうか。

 転校生なの? 何年生? などという声が聞こえてきて、私はちょっと安心した。

 私も九月からは働きに出る。実家には両親がいるから美樹が一人きりになることはないが、友達はたくさん作ってほしかった。

 佳代のような思いは、絶対にさせたくない。あんな惨めで憐れな――。





 ――まあだだよー。

 ――まあだだよー。


 耳の奥で幼い声が響く。

 焦る気持ちが足先をムズムズさせる。あんなに夕日が赤い。早く帰らないと。


 ――まあだだよー。


 帰ろうよ。もう十分遊んだでしょ? どうしてあたしを帰してくれないの。あたしばっかり何で?


 ――やざわみやこちゃん、って言うんだね。佳代と仲良くしてくれてありがとう。


 あの人は誰? 私の水泳バッグを見て名前を読み上げたのは誰?


 ――だけど、他の人に喋ったら殺すよ。


 胃の腑を鷲掴みにされる気がして、嘔吐感が込み上げた。あの子は何か言っていたけれど、私は耳を塞いでその場を逃げ出したのだ。


「……あたシハまダココにイるよ」


 にい、と笑ったあの子の顔は、半分が赤く染まっていた。





「ザワちゃん! ちょ、ザワちゃん! 大丈夫!?」


 頬を軽く叩かれて、私は我に返った。

 強張っていたゆかりの顔が安堵したように緩む。他にも何人か引率の母親たちが私を覗き込んでいた。私は一瞬意識を失って、その場に尻餅をついていたようだ。


「いきなり倒れるからびっくりしたよ!」

「熱中症ですよきっと。ほらこれ、飲んで下さい」

「服を緩めた方がいいですよ。首を冷やして」


 みんな心配してくれて、ペットボトルを差し出したり、濡らしたタオルを持ってきてくれたりする。プールサイドはちょっとした騒ぎになってしまった。遊んでいた子供たちも驚いてこちらを眺めている。

 お礼を言ってスポーツドリンクを喉に流し込みながら、私はぼうっと霞む頭を押さえた。


 今のあれは、猛暑の見せた白昼夢だったのだろうか。

 過去の罪悪感、忘れたはずの記憶。私が逃げ出したせいで、佳代は()()()()()()()。 


 死んでしまった? 

 なぜ私はそれを知っている? あの子は行方不明のはずじゃないか。


 彼女の血の色が瞼に浮かんできて、私の動悸が高まった。これは私が想像で作り上げた偽の記憶だ。私は見てない。そんなもの見ていない。


「ザワちゃん、顔が真っ青だよ。職員室ならエアコン効いてると思うから、ちょっと休ませてもらったら?」

「あ……ありがとう……でも大丈夫だから……美樹も待ってるし、帰るわ」


 私は立ち上がった。とにかくここに、この学校にいるのがよくないのだと思った。曖昧なままにしていた記憶が、揺ぎない事実として掘り起こされるのが恐ろしかった。

 もう少し休んでた方がいいですよと気を遣ってくれる大人たちに会釈をして、私はフェンスに掴まりながら階段に向かった。その下で美樹が待っているはずだった。

 私が緩慢な足取りで降りていくと、お喋りをしていた子供たちが好奇の眼差しを向ける。その中に美樹の姿はなかった。


「……みんな、水色のワンピースの女の子知らない? さっきまでここにいたと思うんだけど」

「知ってるよー、やざわみきちゃんでしょ? おばさん、みきちゃんのお母さん?」

「そうよ。どこにいるか教えてくれる?」


 子供たちはきょろきょろと辺りを見回した。お互いに首を傾げながら、


「あれ? どっか行っちゃったね」

「あの子もいないね。みきちゃんと一緒に遊んでるのかな」


 プールの陰から校庭まで見渡せたが、どこにも美樹の姿はなかった。私は急に不安になった。


「あの子って誰? 美樹と一緒にいるの?」

「ええと、名前は知らないの。初めて見る女の子」

「みきちゃんのこと『ミッちゃん』って呼んで仲良く喋ってたよ。赤い水泳バッグ持ってた」

「でっかい名札がついてたよね。何だかだっさいの。きっと別の学校の子だよ」


 名札のついた赤い水泳バッグ――私の通っていた頃は、みんなそれだった。男の子は紺、女の子は赤。

 次々と想起される記憶と暑さに混乱する。とにかく美樹を探さなければと、私は足早にその場を去った。





 今度はミッちゃんが隠れる番だよ。ここでじっとしてれば絶対に見つからないから安心して。

 違うよ、オニはあたしじゃない。もっと怖いモノが探しに来るの。見つかったら連れて行かれちゃうんだよ。だからここでじっとして、耳を塞いで目を閉じていてね。

 じゃないと見つかっちゃうよ、あたしみたいに。

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