其の一
ミッちゃんがやっと戻ってきてくれた。
嬉しいな。あたしずっと待ってたんだ。やっぱりミッちゃんは他の子たちと違う。あたしを仲間外れにしたりしない。
そう信じてはいたけれど、あんまり遅いから、もしかしてもう戻ってこないのかなって疑ってたの。ごめんね、ミッちゃん。
小学校の正門へと続く坂道の桜並木は、この時期、空が見えないほど幾重にも葉を茂らせ夏の日差しを遮っていた。
午後の空気はたっぷりと湿度を含んでいるため、木陰でもさほど涼しくはない。むしろジャージャーというセミの大合唱がさらに気温を上げているような気がした。東京には生息していない大型のクマゼミの鳴き声は、風流には程遠く騒音に近い。
それなりの格好で、と思って夏物のスーツを着てきたけれど、ジャケットはずっと左手に抱えたままだ。汗で背中に貼りつくブラウスの感触が不快だった。まるで誰かの掌でべたべたと触られているようだ。
「ママ、早く!」
白い帽子を被った美樹は、私よりも速足なのにケロリとしていた。水色のワンピースがひらひらと揺れている。
私はふうと息をついて日傘を持ち直した。かつて毎日通った通学路だというのに、三十三歳の大人になるとやけに長く感じる。パンプスのヒールが高すぎるせいかもしれない。体力の衰えが少し情けなかった。
「美樹は元気ね。前のおうちにいた時よりもちょっと遠くなるけど、大丈夫?」
「うん、余裕」
「よし、安心した。ママを引っ張って」
私が右手を差し出すと、美樹はにっこりしてそれを握った。私の歩幅に合わせて元気よく歩き出す。
小学校二年生の娘が精一杯気丈に振る舞っているのが分かって、胸が痛んだ。大人の都合で、娘は学校の友達とも近所の遊び友達とも別れることになってしまった。傷ついていないはずはないのに、彼女がそれに関して文句を言ったことは一度もなかった。
頑張ろう――私はもう一度自分に言い聞かせた。自分の生まれ育ったこの土地で、美樹と一緒にやりなおすのだ。
子供たちが十数人、並木道の先から走ってきた。手に手にカラフルなビニールバッグを持っているので、プールの帰りらしい。後ろから付き添いの父兄らしき大人たちが歩いてきている。
今でも夏休み中は学校のプールを解放しているんだな、と懐かしくなった。私の頃は女子は赤いビニールバッグが学校指定で、大きく名前を書かなければならない決まりだったが、今は自由なのだろうか。
――やざわみやこちゃん。
私の名前を読み上げる声が、ふと、耳の奥に響いた。
どこかで聞いた声だ。その響きは決して心地よいものではなかった。
子供たちと擦れ違う時、美樹は恥ずかしそうに私の後ろに隠れた。私は我に返り、控えめな好奇心の眼差しでこちらを眺める父兄に会釈をして、正門へと向かった。
私が娘を連れて帰郷したのは、夫との離婚が成立したからだった。
原因はいろいろある。どちらか一方だけが悪いわけではなく、私にも彼にも落ち度はあった。お互いそれは十分分かっていたのに、私たちは歩み寄ることができなかった。
美樹には小さい頃から両親の喧嘩ばかり見せてしまった。娘が小学校に就学したのを機に私は夫と別居し、離婚調停を始めた。
親権の取り合いで調停は揉めに揉め、ようやく決着がついたのが今年の春。旧姓に戻った私は、美樹を連れて実家に帰って来た。私たちの争いに翻弄された娘は、二年生に進級した小学校を一学期で転校して、九月からは私の母校であるこの小学校に通うことになったのである。
二十一年ぶりに訪れる母校は、どこかよそよそしく見えた。
正門の脇に、昔はなかったはずの守衛室が設置されている。学校のセキュリティが厳格になっているのは都会も地方も同じだ。
プレハブの建物から制服の警備員が出てきて、私が用件を告げると職員室に電話確認した。
「東側は工事中で閉鎖されてますから、こっちを回って下さいね」
警備員は入校証を渡しながら迂回路を指示してくれた。確かに校舎の一角がすっぽりとシートで覆われているのが見える。内側には足場が組まれているようだ。
「何の工事をしているんですか?」
私が訊くと、彼は汗を拭き拭き苦笑して答える。
「耐震補強。今年の初めに大きめの地震があったでしょ? 壁にヒビが見つかって、これを機会に校舎全体を改修することになったんですよ。今はちょうど盆休みで作業が止まってますがね。再開すると結構な騒音で」
職員室は入って左です、と付け足して、彼はエアコンの効いた守衛室に引っ込んだ。
私はしげしげと色褪せたコンクリートの壁を眺めた。
今の娘と同じ二年生の時に新築した建物だから、まだ築二十五年。劣化するには早すぎるが、当時の耐震基準が甘かったのかもしれない。確か一学期に工事が始まって、落成したのは三学期だった。私たちはその間狭い旧校舎に押し込められて窮屈だった覚えがある。
「行こっか、美樹」
記憶を辿りながら正面玄関へ向かう私をよそに、美樹は帽子を押さえて校舎を見上げていた。
「どうしたの、いらっしゃい」
「あ、うん」
彼女は胸の前で小さく手を振る仕草をして、私の方へ駆け寄って来た。
「中に女の子がいたよ」
「へえ?」
「二階の窓からこっち見てた。あたしと同じくらいの子」
夏休みなのに児童がいるのかしら、と私は怪訝に思った。でもプールが解放されているくらいだし、教室の方まで入ってくる子供がいたっておかしくないのかもしれない。
私は気にも留めずに中へ入った。
校舎の中に人気はなく、外界とは対照的に薄暗かった。一階は保健室や図書室、給食室などのいわばパブリックスペースで、個々の教室は二階と三階に配置されている。
中央に白線の引かれた廊下や、標語の貼られた壁にしみじみとした懐かしさが込み上げた。この掲示板に描いた絵を貼り出されたことがあったな、あの窓から登校してくる友達に手を振ったっけ、などと思い出が次々と脳裏をよぎった。
自分が子供時代を過ごした空間が、今度は娘にとっての日常になると思うと、何やら奇妙な感じがした。すでに思い出になってしまった場所が息を吹き返し、現在の姿で上書きされる。色褪せたフィルム写真がデジタル加工されて鮮やかに発色するように、今まで曖昧だった細部までいきなり鮮明に甦ってくる。
こつん、と床で小さな音が鳴った。
硬いものが落ちてきたような音に、私は何気なく視線を下げた――二メートルほど先の廊下で、妙に場違いなものが跳ねた。
黄色い縞模様のセロファンで包まれた、それはキャラメルだった。まさに今落下してきたことを示すように、床で転がって、止まる。
不思議に思うより先に、背筋がぞわりとした。
――まあだだよー。
――やざわみやこちゃん、っていうんだね。
――まあだだよー。
――他の人に喋ったら……。
見てはいけない。上を見てはいけない。
「キャラメルだ! 誰かが落としたのかな?」
動けない私をよそに、美樹は躊躇なくそれに近づき、摘み上げた。不思議そうに天井を見上げる。
美樹が拾った小さな砂糖の塊は、暑さのせいか溶けかけて歪み、おまけに泥だらけだった。強烈な嫌悪感が湧いた。
「捨てなさい、そんなもの。汚いでしょ」
私が少しきつい口調で言ったから、美樹はびっくりしたように瞬きをして、それから廊下の隅のゴミ箱へ走った。甘ったるい匂いが鼻先を掠めた気がした。
何を神経質になっているんだろう私は。もう二十五年も前の出来事じゃないか。
ミッちゃんがあたしを見てた。気づいてくれた。
きっとまた一緒に遊べるよ。あの時の続きをしようね。
今度はミッちゃんが隠れる番だよ。
美樹のクラス担任は優しい感じの若い女性教諭で、私はホッとした。前の小学校の担任に少し雰囲気が似ており、緊張していた美樹もいくぶん打ち解けたようだった。若いだけに少々頼りなげだが、仕事には熱心そうだ。
必要書類を提出した後、始業式の日の登校時間などを確認して、手続きはあっさりと終わった。
「ザワちゃん?」
靴箱の所で来客用のスリッパを脱いでいると、懐かしいニックネームで声を掛けられた。
グランドの方から顔を覗かせているのは、鍔の広い帽子を被った女性。細長い顔と丸い小鼻と、それからその呼び名で、私は彼女が誰だかピンときた。
「もしかしてツッチィ……辻さん?」
「あー、やっぱりザワちゃんだ! そう、私ツッチィよ。今は中島だけどね」
彼女は胸の前でぱちぱち手を叩いて駆け寄ってきた。その仕草でいっきに記憶が甦ってくる。低学年の時に同じクラスで、よく一緒に遊んでいた辻ゆかりだ。確か駆けっこが速くて、毎年リレーの選手に選ばれてたっけ。四年生の時にクラスが分かれて、それ以来疎遠になってしまったのだけれど。
「久しぶり! 中学卒業して以来じゃない?」
「そうねえ……私、同窓会も出てなかったから」
「大学で東京に出たって聞いてたけど、帰省中? この子、お嬢さん?」
ゆかりは首に巻いたタオルで頬を拭いながら、興味深げに尋ねた。Tシャツとアンクルパンツというラフな格好ながら、腕はしっかりと日焼け防止の黒いカバーで覆っている。
私は少しためらったが、離婚して戻って来たこと、娘の転校手続きをしてきたことを告げた。彼女は驚いてくれたが、細い目はキラキラと輝いている。ほどなく私の噂が同級生たちに知れ渡るのは確実だった。
「二年一組になったの。美樹、ママのお友達よ、ご挨拶して」
ぎこちなくお辞儀をする美樹に、ゆかりは親しげに笑いかけた。
「こんにちは。わ、ザワちゃんそっくり」
「ツッチィは何してるの?」
「子供のプールの引率。地区ごとに順繰りで当番が回ってくるの。暑いし面倒臭いけどPTAの決まりごとだからさ。来年からザワちゃんもお願いね」
ゆかりは矢継ぎ早に説明した。同郷の男性と結婚した彼女は、実家の近くに住んでいて、美樹と同い年の子供がいるという。すっかり田舎のオバちゃんよーと笑う彼女に屈託はなかった。
「よかったら見に来る? 他のお母さんたちにも紹介したいし、美樹ちゃんも早く友達ができた方がいいでしょ?」
「行ってみる、美樹?」
正直面倒だと思ったけれど、私は美樹に確認した。校区のコミュニティに馴染んでおかなければ苦労するのは親も子も同じだ。特に私たちのような家庭環境の人間は、初動を間違えると、田舎ではひどく浮いた存在になってしまう。
そんな実例を、私は生々しく知っていた。あの子ももう少しうまく立ち回れていたら、あんな目には遭わなかったのに――。
もじもじと肯く美樹を連れ、私は笑顔を貼り付けて、プールへと向かった。