鯨包丁ティアマトー
眼下に雲海の広がる岩山。
その切り立った頂に、ドラゴンがいた。
全身を覆う鱗が燦爛と輝く。その身体が動くたびに、光が鱗を撫でまわす。まるで青い宝石。
不安定な足場で、高低差も激しい場所なのもあって、正確な大きさは掴めない。喩えるものが思いつかないくらいに大きかった。
翼を広げるだけで、視界がばーっと黒く染まる。
「っ! 酷い場面に飛んできたもんだ。お前を守りながら竜を捌くのはさすがにきつい。
もし巻き込まれて死んでも、恨むなよ!」
野太い声が後ろから聞こえてきた。
見れば、おっさんがいた。声と同じくらい、当人も迫力があった。
あれは、割烹着だよな? 隆々たる胸筋で、服がピチピチに伸びている。正直ちょっと怖い。なんだこのおっさん。
でもって馬鹿デカい剣。おっさんの顔より太くて、おっさんの2/3くらいの全長。つまり俺の背丈くらい。
反りが入ってて、厚い刃には彫刻でなんかの絵が書いてあるみたいだが、この距離ではよく見えない。
剣に見入ってると何かが横に見えた。ゲーム染みた、情報ウィンドウ。
だがこの距離では何が書いてあるかよく分からない。
「なにぼーっとしてやがる。早く逃げろ! 死にたいのか馬鹿!」
言われて気付いた。俺を挟んで、おっさんとドラゴンが向かい合っている。
ドラゴンが首を回しながら息を吸い込んでいく。その息で、大気が揺れる。一度だけ強い風が駆け抜けていった。
ドラゴンは天を仰ぎながら立ち上がる。視界の前面がドラゴンによって覆われた。準備は整った、とばかりに俺――の後方のおっさんを睨む。
「逃げろって言っただろうが!」
迂闊だった。トラックが突っ込んできた瞬間に、俺の危機察知能力は一生分の働きを終えてしまったのだろうか。
もっと早く気付くべきだった。俺は全然助かってなんていなかった。
だってあれ、これからブレス攻撃しますよって構えだ。
そして、トラックに跳ねられても運が良ければ生きてられるかもしれないが、あのドラゴンの攻撃を食らったら死ぬと本能的に分かる。
竜の視線が俺を通り抜けて後ろのおっさんを刺している。俺なんてなんとも思われてないだろうに、悪寒が背骨を突き抜けていった。
竜の翼が空を覆い、日の光が遮られてにわかに肌寒い。身体の内と外が冷えていく。竜の口の中に燃えたぎる炎はあんなにも赤いのに、俺の身体はまるで凍ってしまったみたい。
「身体、すくんじゃって。あはは……はは……」
「諦めてんじゃねえよ!」
吐息なんてものじゃない。火炎放射器すら喩えにならない。
全天を覆う炎の壁。今更走っても逃げられないと一目で分かる様な広範囲のブレス。刻一刻と色合いを変える炎の万華鏡。
何重にも獣の声を重ね合わせたみたいな、生々しい咆哮を聞きながら、俺は二度目の諦めをしていた。トラックに跳ねられる前に見る夢にしちゃ、随分と無駄に壮大だった。
「っ! そのまま動くなよ初心者!」
そのとき、おっさんが動いた。
ドラゴンの咆哮が鼓膜を滅茶苦茶にかき乱す中でも、おっさんの太い声ははっきりと轟いた。これ以上の音は入らないと、耳と脳とが悲鳴を上げる中、おっさんの靴音が高らかに響き渡る。
あれだけ距離が開いていたのに、靴音は一度だけ。それでおっさんには十分だった。
「動いたら死ぬぞ」
ドラゴンの放つ灼熱のブレスが俺を炭にする直前、おっさんの剣――鯨包丁ティアマトーが俺の前に突き立てられた。
馬鹿デカい刀身が、炎を阻む壁となって俺を守ってくれている。
だが、割烹着のおっさんの身を守るものはない。
「う、ぐおおおおおおおおおおおおおおおお!」
熱量の壁。空気が歪んで見える。輪郭のぼやけたおっさんが歯を食いしばり、両手を握りしめ、全身の筋肉という筋肉を隆起させて炎に立ち向かう。
「おおおおおおおおおおおおおッ!」
ドラゴンの咆哮とおっさんの雄叫びが混じり合う。やがてそれは大きなうねりとなって、俺を内から揺さぶっていく。実際はおっさんの剣の後ろで突っ立っているだけなのに、ジェットコースターにでも乗っているようだった。
爆熱で真っ赤な世界。何もかもが揺らめく赤に彩られて、右も左も分からなくなっていく中、目の前の鯨包丁ティアマトーだけが頼もしい。
攻撃力19880。解体、大物食い、竜の加護など数々のスキル効果。
数値の基準もスキルの効果も何も知らないが、この剣が強いことだけは分かる。
刀身に描かれた精緻な彫刻が美しい。複雑に絡み合う幻獣たちの紋様を見ていると、周囲を忘れられる。人魚や妖精、グリフォンやオルトロス、有名どころは勿論、俺には名前も分からないものがぞろぞろいる。カエル男とか、触手の塊とか。そしてその中央から、東洋龍がこちらを覗いている。長い身体を目で追っていくと、いつの間にか同じところに戻ってきていて――。
そうしているうちに、竜とおっさんの共鳴が止み、そして炎が消え去った。
岩に突き刺さった鯨包丁ティアマトーは、地震が起きても微動だにしないじゃないかと思うほどだったが、おっさんはそれをあっさり引き抜いて、片手で軽々と持ち上げる。
左手の親指を立て、おっさんが俺に笑いかける。
この人が俺を救ってくれたんだと思うと、涙が込み上げてきた。
おっさんの汗が蒸発しておっさんの周囲は霞んでおり、雨上がりの虹よろしくおっさんが七色に輝いている。おっさん神々しい。
「何でもいいから距離を取れ。逃げることだけ考えろ」
「おっさんは!?」
割烹着には何故か焼け跡がまるで無かったが、あんな攻撃を受けて大丈夫なはずがない。
こっちはおっさんの声を聞いているだけでも、鼓膜が破れるかと思ったほどだ。
「心配するな。料理人には火加減調整というスキルがある。火属性相手は、相性が良いんだ」
「それそういうスキルじゃないだろ!?」
「いいから早く逃げろ。流石に、新参者を守りながら戦うのはきついんだ」
言いたいことはいろいろあったが、俺がいても足手まといになるだけなのは言い返しようの無い事実。言われた通り、早くこの場を離れることが一番おっさんのためになるだろう。
「ドラゴンが出てきたから周りのモンスターは引っ込んでるが、あんまり下り過ぎたらモンスターと会わないとも限らん」
走り出した俺の反対側で、おっさんはドラゴンに向かって突っ込んでいく。
「足元は良く見ろよ! 崩れやすいからな!」
どこまでも良いおっさんだった。
だから振り返って、精一杯の気持ちを込めて「ありがとう」って叫んだら「うるせえ! 早く逃げろ! ドラゴン甘くみんな!」と怒られた。