死神と契約書 番外編③-ヴァイオリニスト-
温かな光で照らすシャンデリア、重厚な絨毯にカーテンで飾りつけられた店内、こういう場所へ来るのは久しぶりだった。
「本当におめでとう」
「先生のおかげです。ありがとうございます」
「私は何もしていないよ。それに私が君に教えていたのはもう5年以上前のことだ」
「いえ、先生に出会えていなかったら今の僕はありませんでした。先生の教えを忘れたことはありません」
「おいおい、老いぼれを担ぎすぎだぞ」
私は小さなヴァイオリン教室で指導を行っている。年はもうすぐ65を迎える。今、私とテーブルの対面に座って話している青年は、昔の私の教え子だった子だ。今年の春にイギリスで行われた国際大会のシニア部門で第一位という名誉ある賞を受賞した未来ある青年だ。私のことを覚えていてくれたようで、こうやって食事に招待してくれたのだ。
「ところで先生」
「先生はよしたまえ。もう私は君の先生じゃない」
「いえ、僕にとってはずっと先生ですよ」
国際大会一位の青年に先生と呼ばれるのは、少し気恥ずかしい気持ちになったが、この子が呼びたいように呼べばいいと思ったのでそれ以上は何も言わないことにした。
「で、なんだね?」
「先生はどうしてヴァイオリン教室をやろうと思ったんですか?」
「うん、そうだね…」
私は少し考えて、彼に少し昔話を話してあげることにした。
「私が右手を思うように動かせないのは知ってるね?」
「はい、事故で不自由になったとお聞きしています」
「自分でこういうのは恥ずかしいのだが、私も昔は、天才ヴァイオリン少年ともてはやされたことがあったのだよ」
私は目を閉じてその当時のことを思い出していた。
私はその頃、この子と同じように先生と呼ぶ人がいた。私は先生に絶対の信頼をおいており、父親のいなかった私は本当の父のように慕っていた人だった。傍から見れば祖父と孫という関係に見えたかも知れないが年の差だったかも知れないが。
そして忘れもしない15歳の夏のことだった。先生のところへ向かう途中のことだった。道路に飛びだしたネコを避けたバイクがバランスを崩し私の方へ突っ込んできた。命が助かったことすら奇跡だったらしいが、その時に私はヴァイオリニストとしての命は絶たれてしまった。右手の数か所の骨折と3本の指の腱断裂。特に指が致命的だった。もう前のようにヴァイオリンを弾くことはできなくなっていた。当時ヴァイオリンが全てだった私はいっそ命が助からないほうがよかったという思いで入院生活を送っていた。
先生にもひどく心配し、最初のうちは毎日様子を見に来てくれていたらしいが、一時を境に来なくなってしまったという。昏睡状態から目が覚めた私に母がそう教えてくれた。もうヴァイオリンが弾けなくなってしまった私に失望してしまったのだろうと思った。それからしばらくしてだった。先生が亡くなっていたことを聞かされた。私は、大切なものを二つも失ってしまった。未来を支えるものも、今を支えてくれるものもなくして、私はどう生きていけばいいかわからなくなっていた。
そして数か月が経ち退院が決まった。指はうまく動かすことはできないが、その他の部分は普通に生活をするには支障がないところまで回復していた。
入院中、自由に動ける時間は病院の屋上へ行って空を眺めていた。ただ、それだけに時間を費やしていた。先生のことを考えては涙が流れた。うまく動かせない右手を見ては涙が流れた。
今日もいつもと同じように屋上に来ていた。その時の自分が普通ではなかったのだろう。
先生のところに行けばまたヴァイオリンが弾けるし、教えてもらえるかも知れない。そんな考えが私を支配していた。
屋上の柵を乗り越えようとした時、女性の声が私を制止した。
振り向くと夏には似つかわしくない黒い服を着た女性が立っていた。その女性はこう言った。
「あなたは助けてもらった命を無駄にするつもり」
「…どういうこと…ですか?」
「あなたの先生は自分の命と引き換えにあなたを助けた。その命をあなたがどう使うかは勝手だけど、それだけはちゃんと伝えておくわ」
「…」
私はこの女性が言っていることがとても嘘には思えなかった。すごく非現実なことを言っているのになぜか信じてしまう雰囲気がそこにはあった。
―あの子のヴァイオリニストとしての将来を守ってやってください?―
「あなたの寿命では足りない。あの手を治すことは命を助ける以上に難しい」
「…では、命は助かりますか?」
「それならば可能だ…がその願いでいいのか?」
「目を覚ました時、ヴァイオリンが弾けないことに納得しないでしょう。あの子は演奏することが本当に好きで、その演奏も天才的です。しかし、それ以上に指導者としての才能もあると私は感じています。だから弾けなくてもヴァイオリンに対する全てが消えるわけじゃない。だから…命だけでも助けてやってください」
「わかった」
「それに私はこのまま生き続けてもそんなに長くない。自分の身体は自分がよくわかるんですよ。…だからあなたも私の前に現れてたんでしょう。このおいぼれの命であの子が助かるなら安いもんさ」
「契約成立だ」
「それと…あとひとつ」
「何だ?」
「もし…あの子が間違った方向に進もうとしたら…正してやってはくれませんか?」
「それは…契約の範囲外だ」
「そうですか…、でもあなたならやってくれそうな気がする」
「…勝手に期待されては困る」
私はその場に崩れ落ちて泣いていた。先生が死んだと聞いてから一番涙を流した。気がつくと青かった空は茜色に染まっていた。気が付くと目の前に黒い服の女性はもうなかった。
「それからだよ。指導者を目指そうと思ったのは」
「不思議な話ですね」
「まあ信じられん話だろうな」
「いえ、そんなことないです。先生は嘘は言わない人ですから」
「ありがとう」
「え?」
「この話を誰かにしたのは初めてなんだよ」
「その黒い服の女性は誰だったんでしょうか?」
「さあな。しかし、私は先生の言葉を信じて今日まで生きてきた」
「先生の先生の目は間違ってなかったってことですね。僕には一番の先生です」
「そうか。ありがとう。君は私の誇りだよ」
彼と軽くグラスを合わせた。そして窓から見える空の方にもグラスを軽く傾けた。
ありがとう先生。ありがとう死神さん。