第三章 ④
これまでの行動を思い返してみる。
大胆な行動、足の速さ、髪を耳に掛ける仕草、そして怒った時に頬をぷくっと膨らませる癖。
すべて奈生のものじゃないか。
そうだ、彼女はいじめられていた僕を助けてくれた、唯一の存在。
彼女がいなかったら僕は実際、不登校、もしくは最悪自殺でもしていたかもしれない。
本当に、どうして忘れていたのだろう。
「ねえ、何なの?」
そういえば話しかけてたんだ。話しかけたはいいが特段用がある訳ではなかったから、暫し沈黙が続く。
ふと彼女をみると、気のせいか彼女の頬がほんのり色付いている。どうしたんだろう。
「あぁ、いや、なんでもないよ。」
「えー、なんなのさぁ。」
怒ったかと思ったが、案外声が笑っていて安心する。
「んー、ま、いっか。そろそろ帰らない?多分あいつらもあれだけ痛い目にあったら、今頃半べそかきながら帰ってるよ。もう校内にはいないと思う。」
「う、うん……」
一応返事したが、帰るってどこに。
「カバンは?教室?」
そんなことわからない。とりあえず、うんと言う。なかったら……その時考えよう。
校内には、僕がみた限り誰もいなかった。教室へ向かう途中グラウンドが見える窓から外を覗き見たが、部活生は見当たらない。
「奈生、今日って部活動はないんだっけ?」
野球部とかサッカー部だとかがあったような、なかったような。いや中学校にないはずがない。
前を歩く彼女が振り返る。ふわりと髪が揺れる。
「え、何言ってるの? 今日からテスト期間なんだから、部活なんてある訳ないでしょ。」
「あ。」
腑抜けた声が出た。
あ、そうだった。だからあいつらはカンニングだの何だのと怒りを撒き散らしていたんだった。
「今日どうしたの?用もないのに人のこと呼んでからかうし、テストのこと忘れてるし。」
「そうかなあ。いつも通りだよ。」
「変。君らしくない。」
ばっさり切り捨てられた。相変わらず、
「上から目線だよな。」
ふふ、っと彼女が無邪気な笑みをこぼす。
でもこれでいい。これがいいんだ。彼女の上から目線は、気の許した相手だけに見せるものだから。
年齢こそ違うが久々にそんな彼女を見て、思わず口元が緩む。
今日は、いい日だ。
教室に戻ると、僕と彼女のものらしき学生カバンだけがひっそり教室の一部みたいに置かれていた。
あって良かった。
僕の席は、教室の一番うしろの左角のようだ。
近付いて気がついた。目立たない、人目につきにくい席。僕らしい席だな。
懐かしいカバンの持ち手を肩に掛け、教室を見回した。今見ると、昔不安定にしか見えなかった教室全体をしっかりと見据えることができる。こういうものか。
最前列の右角の机が彼女の席だ。荷物をしまい終えたらしく、僕の席にパタパタと歩いてきた。
「かえろっ」
おう、と返事して教室を後にする。
僕はすっかり中学生時代に戻っていた。
玄関に着いてなんとか自分の下駄箱を見つけて履く。履きこまれた靴。
他人の靴に足を通すみたいで、妙な感覚だ。
玄関からみた外は、白く、もわりと暑そうだった。
白、か。
ーーーーあの白くて冷たい場所にいた彼女を思い出す。今にもその存在が消えてなくなってしまうかのようにゆらゆらと存在している彼女は、今どうしているだろう。やっぱり、まだ記憶は戻っていないのだろう。
でもここの世界には彼女がいるんだ。違う部分もあるが、間違いなく奈生に変わりない。
それなら、僕はそれで十分な気がしていた。
奈生が玄関から出る。
僕も後を追って校舎から出ようとした時。その一歩は踏み出せなかった。
地面を踏もうと思っていた右足の置き場がなくなった。透かしを食らう。
僕の目の前にいる奈生の身体が歪んでみえる。音が聞こえない。
眼下に広がる世界は、白い昼間に溶け落ちていった。