第三章 ③
タイムスリップ。
現在の時間・空間を越えて過去や未来の世界に移動すること。
ーーーそして、今僕が体験していること。
僕はなぜか突然、過去へとタイムスリップしてしまったのだ。
2001年……12年前だな。ということは、僕は中学2年生か。
タイムスリップした時点で最早訳がわからないが、ここが中学校で僕が中学生なら、見憶えがある白い廊下も、田中先生のことも、全部説明がつく。
……そうだ、身体。
もしかすると、中学二年生の身体に戻っているのかもしれない。
こういう時は大抵身体も戻ってしまった、というのがお決まりのパターンだろう。
……できれば戻っていてほしくはないのだが。
それを確かめる一番手っ取り早い方法。
少し躊躇いながらも、斜め下に目をやる。
黒い厚手の生地が所々解れているスラックスのようだった。
さすがに普段全く服に興味がない僕だって、出勤時にこんなスーツを着ていくことはない。
となればやはり制服?
いやいやいや。まだ認める訳にはいかない。
僕は自分が見たものしか信じないと決めているんだ。
そうだ、ここが中学校なら、さっき昇ってきた階段に姿見があったはず。
黙って来た道へと引き返す。さっき僕を蹴ってきたあの子達も、彼女の一撃で今はまだ追いかけてくる気力なんて残ってないだろう。
「ちょっと、どこ行くの?!」
僕は彼女を一人残し、走った。
12、3段もない階段に差し掛かるところから下の階を見下ろすと、踊り場の壁にシンプルな縦160センチくらいの姿見があった。
あの頃はろくに見たこともなかったのに、よく憶えてたものだ。
よし。心を決め階段を駆け降りようとして、足が動かしにくくなった気がした。
現実を見てはいけないような直感と、受け入れなければならないと思う冷静な思考。相反する二つの思いが僕の行動を阻止している。
だがそんな訳にはいかない。ゆっくりと階段を降り、鏡へと近づく。
壁と平行に寄り添い歩くような形で僕は鏡の真横に近寄った。その端に白い靴を履いた右足が映った時には、もうなんとなく事態を受け入れていた。
思い切って進むと、全身が鏡に映った。
鏡を少し越えたくらいの背丈。半袖のワイシャツ、黒い標準学生服のスラックス。そのどれもが以前毎日着ていた、どことなく懐かしさの漂うものだ。ふと目に映った手の甲は、まだ幼さが残っていて、ぷっくりとしている。
言うまでもないが、普段鏡を見ることのない僕が久々に鏡をみて目にしたのは、26歳の僕ではなく、14歳の僕だった。
つまり。身体や顔もあの頃に戻ってしまっていたのだ。
これは僕か?そんな疑問が唐突に浮かぶ。
……この状況を、なんと理解すればいい。
自分だと思っていた身体を失うのは、予想外にも不安定なものだ。
いかん、前向きに捉えよう。
そうだ、これで全てのことに説明がつくのだ。
例えば、いきなり蹴られたこと。
あの子達は僕のことを中学生だと思って蹴っていたのだ。多分中学校の時の同期生だろう。僕を中学生の"千葉"だと思っていたから暴力を振るってきたのだ。
おそらくだが、あの子達はもうすぐ行われるであろうテストの解答を盗んだのだろう。
テスト一週間前にはよくあったことだ。
大体毎度、夜の学校に忍び込んで、職員室にある解答をコピーする。そして後日柄の悪い生徒の間だけでそれが出回るのだ。
それの首謀者がいじめの中心核だったのも記憶している。
立場の低い僕には、到底無縁の話だった。
そして今回それが教師にばれたんじゃないか。(むしろ今までばれずにやり過ごしてきたことのほうがおかしいとは思うのだが。)
それが原因で僕がそのことをばらしたと、ありもしない濡れ衣を着せられたのだ。
全くアホらしい。そんなことをしてどうなるのか。 もしかしたら教師からの評価は上がるかもしれないが、生徒には然程関係ない。授業さえ真面目に受けていれば、馬鹿みたいな成績にはならないことぐらい知っている。だったら自分の身を滅ぼすような真似はしない。
……我ながら酷い生徒だ。
でもそうか。あの子ら……いや、あいつらは僕の同級生だったのか。あんなのいたっけ?
でも思い出せない。思い出したくもない。
……うっ……考えたくないことばかり思い出して、吐き気が込み上げてきた。鋭くキリキリとした成分が喉のすぐそこまで上がっている。気持ち悪い。
もういい。忘れよう。
もともと考えてたことから外れてしまった。
何を考えていたっけ。
あ、そうだ。身体が戻って、もうひとつ明確になったもの。
もしかすると彼女も、僕の同期生、いや助けてくれたぐらいだから、同級生かもしれないということ。
それにさっき彼女、確かに「いっつも」と言ったよな?いつもいじめを見て、その都度助けてくれていたのか。なんてありがたい子なんだ。
同じクラスで助けてくれた子……誰だっけ。
最悪だ。中学生の時僕を助けてくれていた子をこうも簡単に忘れるなんて。
しかしよく考えなくとも、あの頃僕はクラスの中で相当浮いていた。そんな人間を助ける人間、いるか?
いやでも、いたはずなんだ。
なぜ重要な人間を忘れる?思い出せ、思い出せ……駄目だ。頭を擦りもしない。
こんなことすら思い出せない自分に失望した。今僕をいじめていた奴らの気持ちがわかった気がした。
タッタッタッ。遠くのほうから軽やかな足音が聞こえる。音は一定の速さでこちらに近づいてきているようだ。
一瞬あいつらかと身構えたが、複数人いる感じではない。
すると、鏡越しに彼女が走ってくるのが見えた。
「あ、いたっ!」
あれだけ走っても軽快なステップでスカートをふわふわ揺らしながら階段を駆け降りてくる姿には、なんというか、風情がある。
きれいだ。
ほんの束の間その姿に見とれていると、彼女は目の前で僕を見上げていた。
男子を蹴り上げたあまりに頼もしい姿の印象が強すぎて今気付いたが、彼女はそこそこに小柄で、身長もそんなに高くなかった。意外。
「どこ行ったかと思ったじゃん!」
女子らしい高い声が、破裂したみたいに廊下に響く。怒ってる。
「すみま……あっ、ご、ごめん。」
普段敬語しか話してないせいで自然に敬語が出てしまう。職場なら常識だが、さすがに同年代の子には使わない。僕は今中学生なんだ。
「またあいつらに見つかったらどうすんのよ!まだ校内にいるかもしれないでしょ?!せっかく助けたのに……千葉くんには危機感、ってものが足りない!」
ごもっともな。
「ごめん、なさい。」
謝るしかない。恩人に何も言わずに立ち去った僕に非はあるのだ。彼女は頬をぷくっと少し膨らませてそっぽを向いてしまった。これは当分許してくれそうにない。こんな大げさな表情をしてても許されるのは、その顔故だと思った。
昔から思うことだが、年齢に関係なく、女子は怒ると怖い。母さんも、元同級生も、奈生も。
あれ、奈生と出会ったのはいつだっけ。こればかりはさすがに思い出した。そうだ、あれは中学生の時だ。
そして、僕は聞いた。
「なあ、奈生?」
彼女はくるりと振り返ってこちらに目を向けて言った。
「何?」
その顔は、見れば見るほど彼女だった。
何故気付かなかった。
---奈生。