第三章 ①
……倒れてから、一体どのくらいの時間が経過したのだろう。気付けば頭を叩き割るような頭痛は、すっかり治まっていた。あれだけガンガンと痛かったはずなのに、人間の治癒力とは不思議なもので、最早僕はさっきまでの痛みを忘れていた。
ただ、目の前が暗いのはどうしたことだろう。ここはトンネルか、と思わせるほどだった。まあ大抵のトンネルにはいくつか電球が備わっているから、それよりも暗いか。
確かめたい。
僕はその一心で瞼を開けようとしたが、瞼が重く、動かない。いや正確には動かせない、だ。目を覆っている皮膚の辺り全体に重たい石がのっているような感覚を憶えた。
これが金縛りというものだろうか。生まれてから今に至るまで金縛りを体験したことはなかったが、おそらくこんな状態を指すのだろう。
そういえば、意識も決してはっきりしている訳ではなく、まるで夢の中にいるみたいなのだ。倒れているうちに、夢の世界(というと愉快なものにも感じられてしまいそうだが実際はそんな楽しいものではない)にでも迷い込んでしまったか。
でもそれは違うだろう。それだけは確信していた。
なぜなら、右頬にはっきりと冷たさを感じるからだ。夢なら温度など感じないはず。心地よい程度に冷たく、体をペタリと吸い付けるような場所に、僕は横たわっているようだった。
そこまで分かったところで、僕の推測は明確になった。
ここはリビングではない。ましてや、僕の家でもない。
まず僕達の家に、フローリングが越してきた当時のままになっている部屋はないのだ。絨毯が敷いてあるか、畳であるかのどちらかだった。強いて言えば洗面所は唯一何も敷いていないのだが、まずそんな多湿な場でアルバムを見ようなんて気にはならない。それにアルバムを見つけて開いたのは、確かに寝室だった。加えて、ひどい頭痛もしていたのにそこまで行く理由もない。という訳で、ここが洗面所であることも有り得ないのだ。
じゃあ、ここは何処だ?なぜ僕は自分の家にいない。白昼夢でも見ているのだろうか。
右頬に神経を集中させる。目を開けない分、身体でここはどこなのか知ることを試みたのだ。頬に伝わる温度は、現実のものに違いなかった。目を開かないことにはどうしようもできない。どうにかできないか。
するとだ。
瞼越しに、明るい光が射し込んできたのが分かった。途端に瞼から重量感が溶けるように消え去っていったみたいだ。
これなら目を開けられそうだ。少し力んで目の周りに力を入れる。先程までの瞼の重さはなくなり、意外にすんなりと視界は開けた。
そして、今いる場所が自宅ではないことを再認識させられた。
まず一番最初に目に写ったのは、白く一直線に続く空間だったのだ。こんな場所が狭い僕の住居にある訳がない。
どうやら、僕は本当夢でも見ているらしい。
思い返せばさっき頭痛が起こる直前、突然強い光が目に入ってきた。あれが何かは検討もつかないが、多分原因はあれだ。
そのせいで僕は倒れて、おまけにおかしな夢に迷い込んでしまったのだろう。
だがなぜか、僕がこの空間にいることに対して全く違和感を覚えないのだ。
それどころか、しっくりとさえきていた。
この場面には見憶えがあるのだ。
しばらく考える。そして沢山の記憶の中から、ひとつの光景を見つけ出した。
そうか、これは廊下だ。それも僕が通っていた中学校の廊下。
ああ、納得だ。僕は謎が解けたような満足感に包まれた。
だが、それはそう長くは続かなかった。ここが中学校だと気付いたところで既に、僕は無意識的に腹の底から不快なものが込み上げて来るのを感じていたのだ。なぜなら、中学校は僕にとって……
ぼすっ。
「っ、ガホッ!」
頭に浮かんでいた回想と思考とが、一挙に消え失せる。腹に吸収されて染み込んでいくような音と同時に、腹に激痛が走ったためだった。反射的に腹を抱えて踞るが、間も無く背中にも痛みが走った。
訳がわからない。
そんな中で痛みに耐えながら薄く目を開けて見えたのは、学ランをだらしなく着こなした男子学生だった。四、五人はいる。どうやら、僕はこいつらに足蹴を喰らわせられたらしい。痛みがなかなか治まらない。なんの運動もしていないのに、無意識に肩で呼吸をしていた。学生の一人が馬鹿みたいな声を荒げる。狂気だ。
「千葉あ、お前よくも田中にチクりやがったなあ?優等生気取ってんじゃねえ、よっ」ぼすっ。
もう一度腹に蹴りが入る。
痛っ……
「…田中……?」
痛さに我慢して、必死に記憶を辿る。そう考えずに、答えは出た。
そうか、思い出した。田中、というのは、中学校時代の数学の教師だ。中学に入学してから三年になるまで僕の担任だった。
他の教師に比べるとずば抜けて体格がよく、彼がそこにいるだけで、周囲の人間が小人のように思えてくるほどの威圧感を持ち合わせていた人物だった。そのせいか生徒の中ではあまり人気がなかったのだが、僕は不思議と好感を抱いていた。
いや待て、そんなことはどうでもいい。
なぜ今その頃の担任の名前が出てくる。もう成人した大人には関係のない話だ。そしてなぜ、足蹴を喰らわされなければならない。そもそもこいつらは誰だ。無駄な騒ぎは起こしたくない。なるべく穏便にことを進めよう。そう思い、僕は出来る限り優しい声を出した。
「ちょっと、待って。僕は何もしてな…」
「うるせえ!黙れ!」
靴が腹に食い込む。なんだ、こいつらには日本語が通じないのか?
「かはっ」
思わず唾を吐いてしまったかと思っていたのだが、よくみるとそれは鮮紅色をしている。唾ではなく、血だ。
やばい、早くこの状況から逃げ出さなければ。こいつらは蹴る位置なんて考えてない。流石にこれ以上蹴り続けられると、命に危険が及ぶ。隙をみて逃げよう。
僕は相手が話し始める瞬間を待ち構えた。
「黙ってんじゃねえよ!!」
よし、今だ。
そう思い全身に力を入れかけた時、僕を蹴っている一人が思わぬことを叫んだ。
「カンニングばらしたの、お前だろうが!!」
――は?
あまりにも予想外なことを言われたせいで、完全に逃げるタイミングを失った。その挙げ句、見事に腹蹴りが決まる。逃げようとしていた心中が相手に伝わったのかさっきよりも蹴る力は強くなっていて、僕は持ち直そうとしていた体勢をまた崩した。
やってしまった。完全に意識を逃げることに集中していれば、今頃はここにいなかったのではないかと、自分の小心者さ加減に腹が立つ。
身体が限界まで追い詰められた時、遠くの方からパタパタと軽い足音が聞こえてきた。どうやらうしろから響いているようだ。その足音は段々とこちらに近付いてきて、僕のちょうど真後ろで止まった。
バタンッ。突然、目の前で僕を蹴っていた学生の一人が、盛大に倒れた。というより、倒された。
「千葉君をいじめるな!」
後ろから聞こえてきた可愛らしくも威勢のいい声と共に、一人、また一人と倒されていく。
倒れた状態から横目にちらり目をやると、誰かの脚が僕の真上で綺麗に伸びているのが見えた。そしてその脚が、華麗に学生の顔面を蹴り上げる。
そうか、後ろの人だ。僕はようやく自分の目の前で起きている事態を呑み込んだ。一方的な暴力に見兼ねて、助けに来てくれたのだろう。誰だかはわからないが、とりあえず助かった。
「千葉君!早く立って!!行くよ!!」
さっきの可愛らしい声が、僕を呼んだ。天使だ……
よくわからないが、これは逃げるチャンス。考えるよりも少し前に身体が動いた。男子学生を蹴り倒した天使は、前に向かって駆け出している。
行こう。僕もその後に続いて、真っ白な廊下を走った。