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第二章 ①

 奈生は生きているのに、生きていない。

奈生はあの事故の日以来、僕を一度も"夫"と認識してくれることはなかった。


たとえ抱き締めたとしても、空気のように腕の中に収まらない存在。

何度会っても何度話しかけても、彼女は僕を単なる他人としか思っていないようだった。


でもおかしいじゃないか。確かにあの日、看護師は「手術は成功した」と言ったはずだ。

それなのになぜ奈生はこんな目に遭っているのだ。

なぜ記憶がないのだ。


それも、僕の記憶だけ。





初めて彼女と面会した後、僕は彼女の両親に事故の状況を連絡しようと病室を出た。携帯を握る手が震えている。

考え事をしながら歩いていると、突然横腹辺りに軽く何か当たった。前から来た女性と、すれ違い様にぶつかってしまったのだ。僕の前で座りこんでしまっている。反射的に「すみません」と口にした。

「大丈夫ですか…?」

屈んで手を伸ばすと、目の前にその人の頭があった。

白髪混じりの黒髪。五十過ぎくらいだろうか。奈生の母親と同じくらいだ。その人は「大丈夫です」と言った。

あれ、この声知ってる。

相手が顔を上げた。


「…お義母さん…」

まだ心の準備ができていないのに。すぐさまこの場から逃げ出したくなった。

何て話そう。言うべきことは分かりきっているのに、沈黙が続く。

いい言葉が咄嗟に思い浮かばなくて、ゆっくりとお義母さんの前にしゃがみこんだ。いつの間にか握っていた手に汗が滲んでいる。


気が付けば目に涙が溜まっていた。頭が混乱しているせいだろうか。

「…翔さん。」

お義母さんが口を開いた。

「奈生は?」

声が震えている。心配させてしまった。

今一番泣きたいのは、この人じゃないか。この人は何年間もかけて奈生を育てた人なのだ。僕の何百倍も彼女を見てきている。

だから、泣くな。僕は涙を眼の表面辺りで必死に堪えた。

ついでに思考を正常に戻そうとする。

事故についてはもう伝わっているのか。記憶のことは聞いているだろうか。

どうしよう、何と説明すればいい。駄目だ。混乱する前に、自分で感情を制御する。

「……奈生は、病室です」

僕も声が震えた。

でもそんなことは分かりきっているのだ。彼女が求めている答えは、こんなんじゃないのだろう。

そう、と彼女が答えて、会話が止まった。また沈黙が続く。


何か思い付いたように、突然お義母さんが立ち上がった。それに釣られて、僕も立ち上がる。そして、歩きだした。その足は奈生の病室のある方向に向いている。僕は彼女の数歩後ろについて歩き出した。


病室に入ると、奈生がベッドの上に座っていた。

窓から射し込む夏の光が、彼女の肌に当たっていた。光でその肌の白さが際立つ。奇跡的に目立つような外傷はなかったのだ。

奈生の方へちらりと目をやると彼女の目は一心にこちらを見つめている。視線の先には、お義母さんがいた。


そして次の瞬間、僕は変な光景をみた。


奈生が泣いているのだ。


訳がわからない。

彼女はこの一週間、一度も怒りや涙や、笑顔さえも見せなかった。それなのに、大粒の涙を溢してる。不思議だった。


だが次に彼女が発した言葉は、それ以上に不可解だった。


「お母さん……!」


―――オカアサン…?


一瞬、その言葉の意味が思い出せなかった。

その単語は自分の家族に向けられるものだと再認識して思った。


彼女は、なぜ母親のことを覚えているんだ?

僕も彼女の"家族"のはずだが、彼女の頭から僕という存在は抜けている。


それはつまり、僕のことだけが思い出せないってことなのだろうか。


……認めたくない……


どうして僕だけ……


僕が呆然と立っていた間に、お義母さんは奈生のベッドサイドに椅子を構えて座っていた。


「忙しいのに来てくれてありがとう。」

「全然いいのよ。それより、大した怪我してなくて良かったわ。交通事故って聞いたもんだから、もう心配で心配で…」

「心配掛けちゃってごめんね。わざわざ北海道まで来てもらっちゃって…」

「久しぶりに娘に会えたんだから、いいのよ。」

僕を除いた会話は、何事もなく続いている。やっとお義母さんの意識がこちらに向いた。

「翔さん、座らないの?」

奈生が口を開いた。

「お母さん、あの人知り合いだったの…?」

お義母さんの表情が少し変化した。焦点を僕に合わせる。まるで全てを見透かすような目で。

「…そうよ…」

「そうなんだ。あの人ね、いつもお見舞いに来てくれて。千葉さんっていって、どこかで会ったらしいんだけど、なんでか憶えてないんだあ。酷いよね、私。」

彼女が話している間、お義母さんは僕にずっと目線を合わせていた。まるで迷子の子供をただ哀れみの目で見ている傍観者みたいだ。悟ってくれたと思っておこう。

「…そうなの…」

「千葉さんも、座ってくださいよ。そんなところだと疲れるでしょ?」

「…ああ、ありがとう。」

僕は部屋にあったパイプイスを出して、お義母さんの隣に座った。


それから、二人は事故の日のこととか日常の他愛もないことを、延々と話し続けた。


「そろそろ面会終了時間ですよ。」

ふいに病室に看護師が入ってそう言った。二人は何時間くらい喋っていたのだろう。僕はその間終始黙っているだけだった。

「あら、もうこんな時間だったの。そろそろ帰らなきゃね。」

「来てくれてありがとう。嬉しかった。今日はどこかに泊まるの?」

「そうね。一週間くらいは札幌に泊まっていこうと思うの。」

「じゃあもう何回か会えるかな。…また来てくれる?」

「もちろん、明日も来るわ。」

「やった!私、大人しく待ってるね!」

子供みたいな言い方だ。

彼女は出会った時から、嬉しくなったり感情が高まったりすると、そうなる癖があった。こういうところをみてしまうと、記憶が消えてなんかいないみたいで、つい普通に接してもいいものだと思ってしまう。でも違うんだと自分に言い聞かせる度に、高い崖から下に突き落とされたような気分になった。


「じゃあまた来るわね。」

そう言ってお義母さんは病室を後にした。なんとなくついていかなくてはならない気がして、少し遅れて僕も病室から出た。廊下にお義母さんがいた。

「ちょっと、話さない?」

黙って頷いた。

廊下を歩きながら彼女は話し始めた。

「率直に聞くんだけどね、あの子、記憶がないの?」

やっぱり、気付いていたのか。隠しても仕様がないと、また頷く。

「でも…私のことは憶えてるみたいだった。お医者様から何か聞いてるの?」

「…いえ…何も…」

実際、医者からは何も教えられてなかった。奈生の記憶について一度聞いてみたが、「今はわからない」の一点張りだったのだ。一回の検査だけで決めつけるなんて、無責任な。脳に異常があったら、普通は気付くものではないのか?

「…辛いだろうけど…ずっとこんな悪い状態が続く訳じゃないと思うの。根気よく待ちましょう。何かあったら遠慮なく相談してちょうだいね。やれることはやるわ。」

「…ありがとうございます。」

「じゃあ私、今日はもうホテルに戻るわね。また明日。」

そう言うと、彼女は帰っていった。

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