第一章
僕は目覚めると、暗闇の中にいた。
ここは何処だろう。何も見えない。音もしない。
訳が分からずにいると、誰かがすっと僕の横を通り過ぎていった。
ほんのり茶色に染まった、細くて色素の薄い髪。今にも消えてしまいそうなくらいに白い肌。
何も見えなかったはずなのに、それだけははっきり見えた。そして気付いた。
奈生だ。
ふらふら歩く彼女の目には生気が感じられない。
そして奈生を行かせてはいけない。それだけ感じた。
『待ってくれ!』
そう言ったつもりだった。だが声は出ていなかった。
『奈生!待って!行くな!行っちゃ駄目だ!!』
何度叫んでも、口が何かに覆われてるみたいで声が出せない。口の中で、自分の声が反響して体内に戻っていく。さらに追いかけようとしても、今度は足が石化したように重く、歩くことさえ儘ならなくなっていた。
なんで…。
その間にも彼女はどんどん闇の奥へ進んでいく。
ついに奈生の姿は暗闇の中へ消えて、見えなくなった。
ピピピピピ――――。
目覚まし時計の音で、僕は闇の世界から解放された。じっとりとした嫌な汗をかいている。
「夢、か…。」
時計を見ると、もう九時過ぎになっていた。いくら会社が休みだからって、寝過ぎたかもしれない。
ふとダブルベッドの隣に目をやると、そこに彼女の姿はなかった。
さすがに彼女も起きているのだろう。微かだが、朝食のパンの匂いがする。やっぱり起きているんだとひとまず安心して、カーテンを開けた。
開けた瞬間、気持ちが沈んだ。窓から見た空はどの辺りを見渡しても、一面に灰色だったのだ。黒い排気ガスが箱にびっしりと敷き詰められているようにもみえるその空は、夢で見た真っ暗な世界よりも暗かった。
不思議だ。
今までに見たことがないような空。目にはまだ、さっき見た夢の残像が残っていた。
奈生が行ってしまう。
あの闇の中に行ってしまったら、もう二度と奈生に会うことは出来ない、そんな予感がした。
予知夢かもしれないが、そうだとは思いたくない。表しようのないぐるぐるとした感情が、僕を取り巻いていた。
「不吉な空だ。」でも夢は夢だ。
現実とは関係ない。
そう思って、僕は寝室を出てリビングへ向かった。
我が家(といってもただのマンションの一室なのだが)のリビングには、白くてこじんまりとしたテーブルが置いてある。きちんとしたダイニングが設置されていないため、いつもここを食卓テーブル代わりに使っていたのだ。
そんなテーブルの上には、やはりパンがあった。きれいな色の青い平皿に乗っている。そしてその横には、美味しそうなベーコンエッグが焼いてあった。
そのどちらからも、まだうっすらと湯気がたっている。
でも彼女の姿だけはリビングにもなかった。
…まさか。
…そう思ったが、僕はすぐに青い皿の下に隠れていた小さなメモ用紙を見つけた。置き手紙だ。
『翔ちゃんへ
おはようございます。
近くのスーパーへ買い物に行ってきます。すぐに戻るから心配しないで!テーブルの上にあるもの、食べてくださいね。奈生より』
僕の心配をよそに、丸みを帯びた、のんきな字で書かれていた。心配しないで、という言葉が引っ掛かったが、いくら新婚夫婦だからといえ、気にし過ぎだ。
過干渉は嫌がられるだけ。
そう思って、あまり考えないようにした。
その時だ。部屋の中で携帯の着信音が鳴り響いた。こんな朝早くに何事かと、僕は急いで電話をとった。開いた携帯画面には、『非通知』の三文字だけが並んでいた。
誰からかかってきたのかわからない着信は、いつみても少し不気味だ。
そう躊躇したものの、僕は電話をとった。
「はいどちら様ですか。」
「こちら、市立○○病院です。千葉 翔さんでいらっしゃいますか。」
「…そう、ですが。」
「落ち着いて、聞いて下さいね。」
こういうフレーズには、全く面識がなかった。
それに、重たい声。
嫌な予感がした。
「たった今、奥様が事故に遭われて、こちらの病院に救急搬送されてきました。」
「…………は……?」
…何だって?
目の前が真っ暗になる。
「すぐに手術を行います。病院に来てください。」
予感が、的中してしまった。
してほしくもなかったのに。
何をとぼけてるんだ、病院は。
「………奈生が……事故……?」
狂いそうな頭の中で、やっとそれだけを言葉にした。
「…そうです。」
電話の相手が何か言ってる気がしたけれど、声は遠ざかっていく。
「……そんな訳、ないじゃ…ないか。何を言ってるんですか、あなたは。
…だって、昨日まであいつは、元気で………それが今、なんで手術を受けることになるんですか…?
……あり得ないでしょう?そんなの………」
奈生は、僕の全てなんだ。
"あの時"からずっと。
「旦那さん!!!!」
突然電話から、怒鳴り声が聞こえた。
声が、僕に届いた。
「今一番苦しいのは奥さんです!!傍にいてあげて下さい!あなたが傍にいてあげることが、今の彼女にとって一番の救いなんです!!しっかりしなさい!!!」
電話越しに、平手打ちをくらった気がした。
心に、奈生の優しい笑顔が浮かんだ。
ああ、そうだ。行かなきゃ。
「…すいません……今行きます…!住所は……」
僕は病院の住所をメモして、寝間着姿のまま家を飛び出した。
病院に着いて受付で名前を言うと、すぐ手術室の前に案内された。そこは例えようのない重さと静けさで溢れかえっていた。
僕は妙にひんやりした椅子に座りながら、必死で手術の成功を祈った。
奈生がいない人生など考えたくはない。
だから奈生、生きろ。
生きてくれ。
………どれくらい経っただろう。
ふと肩に温かいものが触れた。誰かの手だ。上を見上げると、看護師がいた。
「手術は成功ですよ…!」
涙が、ボロボロと溢れた。
少し後から、ベッドに寝た奈生が運ばれてきた。
僕はすかさず奈生に駆け寄った。
「奈生、よく頑張ったな…!」
まだ寝ている彼女にそう言った。
「今は寝かせてあげてください。奈生さんも、手術で疲れていると思いますので」
そう言われて、黙って僕は奈生といたい気持ちを抑えた。
そのまま彼女は病室に運ばれていった。
手術から一週間が経った。
色々と検査があるとかで、僕は彼女に会えず仕舞いだったのだ。
そして今日、一週間ぶりに彼女に会うことになっていた。
そうだ、せっかく会えるんだから、彼女の気に入ってる店で買ったプリンを買っていこう。
昨日の夜、そんなことを思い付いたので、今手にはプリンの入った紙袋がぶら下がっている。
病院は、相変わらず白かった。だが、この間のような静けさや冷たさは感じられない。
病室に入ると、ベッドに座っている彼女がいた。
…ああ……生きてる……!
たまらなくなって、僕は話しかけた。
「奈生!!具合は大丈夫か?いやあ、ビックリしたよ。お前の好きなプリン、沢山買ったから、一緒に食べよう。な?」
「…………」
…あれ?
話し掛けてみたが、返事がない。
「奈生…?」
空気がおかしい。
いつもなら、プリンと聞いただけで、子供みたいにはしゃぐのに。
それどころか、まるで初対面の人と話す時のような壁と緊張感が感じられる。
やっと奈生は口を開いて、こう言った。
「…すいません…あなたは、誰ですか?」
僕は、全てを察した。
そして僕の安心は、突如打ち砕かれ、絶望へと変わった。
僕と奈生が会ったのは、あの手術の日が最後だったのだ。
奈生は、
記憶をなくした。