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それはゆっくりとした、けれど確実な異変だった。
始まりは、水の濁りだった。大地の働きによって浄化されるべき水が、浄化が不十分な状態でしかくみ上げられないようになった。
次に起こったのは、作物の異変。気候は適しているというのに、種を植えても発芽する割合が低くなった。
どちらも、民の生活にとって致命的と言えるほどのものではない。たまにはこんな時もあると、そう思えてしまう程度の変化だった。
もちろん、改善しようと思う者がいなかったわけではない。しかし、いくら探してもその原因となるものがわからなかった。有識者は皆、首をひねった。
エンダスという小さな国でのその異変は、ゆっくりと、しかし確実に進行した。水の濁りは酷くなり、作物の成長は芳しくない。
今はまだ、決定的と言えるものではなかった。だが、これ以上状況が悪くなればどうなるか。その結果は明らかだった。
「これは……」
先ほど届けられた報告書を見たレックスは、驚きを隠しきることが出来なかった。
(頭領に言われて、各地の水や作物の状態を調べてみたが……予想以上だな)
元々これは、ラスの赤髪の侍女、シュニアからもたらされた情報だという。シュニアの持つ情報網は、彼女の養父であるローゼンタ伯爵家の力を基盤とした、いわば社会の裏側のルートのもの。対してレックスはそれとは違う、いわば正道と言えるルートを持っていた。
二者の情報が集まって、初めて見えてくる現実がある。
自らの生活に手一杯の民は、おそらく気づいていないだろう。その異変がエンダス公宮から遠いほど、酷くなっているということに。
同じ国内でも山や川の有無や、地形の違いなどがあるというのに、多少の誤差はあれども変化の大きさはほぼエンダス公宮からの距離と一致している。これは明らかに不自然だった。
(いや、民どころか、役人とてかなり上位でなければ気づいていないはず……)
逆に言えば、上位のものなら気づいているはずだというのに、何の手も打たれていないと言うのが現状だった。
「無能が……いや、それとも、分かっていて見ない振りをしているのか」
何にしても、これがエンダス公宮と完全に無関係と考えることはできない。
そしてふと、以前にあった不可解な反乱鎮圧のことが、彼の頭の中をよぎった。
(いずれはあの赤髪の侍女のほうからも情報が入るとは思うが……確か今はマリューシャの方へ行っているんだったな)
定期連絡によって、今どこにラスがいるかは聞いていた。
ローゼンタ家の手の者がそれほど鈍足だとは思わなかったが、国外にいれば当然その分情報が遅れる可能性が高い。
「こちらから出向いたほうが早い、か」
折良く、そちら方面の依頼があったため、特に不審に思われることなく国を出ることが出来るだろう。
また団員に彼らの頭領の立場を適当に誤魔化さなければならないのは少々面倒だったが、やはり自分が定めた主との再会には、レックスの心も浮き立つ。
その一方で緻密な出発までの段取りを考えながら、ふとレックスの頭に栗色の髪がよぎる。
(そういえば、彼女も一緒にいるのだろうか?)
が、すぐにそれを振り払うように首を振った。
「……俺はただ、やるべき事をやるだけだ。あの人のために」
*
ガルダ帝国より北に位置するマリューシャ、その中でもっとも大きくかつ有名な湖がブラウミラ湖だった。特に夏の過ごしやすさから避暑地として名高い。
美しい景観でも有名なその湖近くの木陰に、ガルダ帝国の皇太子とその側室の姿はあった。
「で、こんなところで何しようっていうんだ?」
「皇太子夫婦が仲むつまじいと分かって損はないだろう」
「今そんなことをわざわざ見せる必要性がいまいち見いだせないんだが……というか仲良く見えるのか、これ?どっちかって言うと阿呆に見える気が……」
レグルスに抱き上げられた状態で移動したラスだったが、未だに両者の位置関係にそれほど変化はなかった。
湖近くまでやってきたラスとレグルス。木の陰に入った途端立ち止ったレグルスを見て、ラスはてっきりそこで地面に下ろされるかと思いきや、レグルスはそのままの状態で腰を下ろしたのだ。つまり、ラスは今、レグルスの膝の上に乗った状態だった。
別に初めてでもない格好だが、遠くからとはいえ護衛の兵士の目があることを考えれば、ラスとしては非常に気をつかう。
明確な目的もなくそういう姿を堂々と見せるのは、やはり少々抵抗があるものなのだ。
(つーか、おかしくないか?レグルスならこじつけにしても、もうちょっとましな言い訳をしそうだが……)
などと思考を巡らせていれば、近すぎる緑の瞳と自分の唇に何かが触れた感触に、ラスの頭は真っ白になった。
「……い、いきなりはやめろ馬鹿!というかここ外だぞ!!」
「声が大きい」
「なっ……」
抗議に対してはあんまりな返答に続いて、今度は頬に、次は目尻に。ふわりと優しい感覚が落ちてきた。何度も繰り返される、まるで傷ついた相手を慰撫するかのような口付け。
あまりにも予想外なレグルスの行動に、ラスは逃げるのも忘れて呆然としていた。しばらくして互いの顔が離れたところで、ようやく彼女は我にかえった。
「な、なんだこのおそろしく恥ずかしいのは。つーか、おまえそんなキャラじゃないだろ。何血迷ったまねしてるんだよ……」
「文句を言いつつも、顔が赤いぞ」
「うるさい阿呆!馬鹿!けだもの!」
周りの兵には聞こえないよう、あくまで小声で罵倒の言葉を並べ立てたが、レグルスはそんなものはどこ吹く風とでもいわんばかりに、まったく反省した様子がない。
(いや、殊勝なレグルスとか、天地がひっくり返ってもありえないだろうけど……)
しかし、だからといって相手の暴挙をすべて許容できるかどうかは、また別問題である。
次いでレグルスは、ラスの頬を、何かを確かめるかのようにゆっくり撫でる。
あらゆる者が、一度は見惚れずにはいられないだろう緑柱石の瞳。それがただ、まっすぐ自分だけを見つめてくるものだから、落ち着かない気分になったラスは、やや居心地悪そうに体を揺らした。
(だから、ほんともう、何なんだよ……)
だが、その後見えたのは、意地悪げにつり上がる形のいい唇で。
「さっきよりはましな顔色になったな」
先ほどまでの雰囲気はどこへやら。にやりと笑ってそう言ったレグルスは、明らかにラスの心配をしていたような風ではない。数瞬の後、ラスはそれが自分の赤くなった顔をからかってのものだと理解した。
「……だ、誰のせいだよ!」
「俺以外にないな」
そう、自信満々に言い切るレグルス。
先ほど内心どきりとしてしまった自分に、ラスは思わず舌打ちしたくなった。
(お、落ち着け。落ち着くんだ。レグルスのペースにのせられるな)
平常心、平常心と心の中でラスは自分に言い聞かせる。
だが、レグルスの方は、ラスの態勢が整うのを待つ気は無いらしい。
「うわっ……!」
覚えのある、視界のぶれと浮遊感。
「……レグルス君。俺は荷物じゃないんだけど?」
「ただの荷物なら、文句も言わず静かでいいんだがな」
「嫌なら降ろせ。今すぐ降ろせ」
思わずイラッときて、ラスはぎろりとレグルスをにらむ。
これでラスが抱えられるのは、本日二度目である。
レグルスは何を思ったか、まっすぐ湖へと進んでいった。水面を間近にしても、彼は迷うことなく足を踏み出す。そのまま足が沈んでびしょ濡れになる……こともなく、まるで地面を踏みしめるのと同じように、ラスを抱えたままレグルスは水面の上を歩いて行った。
(ああ、魔術で体を浮かせてるのか……)
しかも、レグルスが歩くたび、その足下に波紋が広がる。どうやら浮きすぎないようにも調節しているらしい。微妙に芸が細かい。
湖の中央と岸との中間くらいで、レグルスは足をとめた。
岸を離れ、湖の上で見る景色は、より近くに自然の息吹を感じられる。兵たちとも距離が広がったので、少しだけラスは肩の力が抜くことができ、少し強くなった風に顔をほころばせた。これで誰かさんの腕の中ではなく、自分の足で立っていたのなら、もっと良かったのだろうが。
「綺麗……」
青々とした湖に視線を落として、ラスはぽつりとつぶやいた。
「ほう。おまえにもそんな感性があったんだな」
「何気に失礼だな、おい」
人を何だと思って居るんだと、ラスが文句をつけても、レグルスは小さく鼻で笑っただけだった。言わずとも察しろ、ということである。
目の前の男は、人を苛つかせる天才に違いないと、今更ながらラスは確信した。
「ったく、そのうちその口縫い付けるぞ!……景色だけじゃなくて、さ。ここはすごく力が満ちてる。こんなに力の循環がうまくいってるところは初めて見た。レイクウッド傭兵団の村の近くにも似たような場所があるけど、ここまでじゃないな。まず古さが違うんだろうが」
「……ラス。おまえに、ここはどう見える」
ふと、割と真剣そうに質問をされて、ラスは眉を寄せた。
「どうって……。すごい感覚的なものだけど……こう、湖の真ん中を中心にして、ぐるぐると魔力とかが渦巻いている感じ、かな。やや青みがかった白が、ちらちら見えるような気がする」
魔術の術式などに関しても、ラスの感覚は目で見るというより、肌で感じるというのに近い。ラスはそれをどうしてなどと疑問に思ったことはなかったし、そもそも“見る”能力は生まれ持った魔力の強さに依存するところが大きい。そういうレベルの話が出来る相手が、今まで周りにはいなかったのだ。
しかし、レグルスの能力の高さは、いかにラスが負の贔屓目で見ても、否定できないくらいに確かなものだ。しかも、レグルスがこの場面でわざわざ無駄なことを尋ねたとも思えない。
そこでようやくラスは、例え同じものを見ていても、自分とレグルスでは“見え方”が違うのではないかという考えに至った。
「レグルス。おまえには、違う風に見えるのか?」
「俺には青白い靄に見えるな。それがゆっくりと動いている。一番靄が濃いのは中央だが」
「へー。似てるけど、少し違うな。……つーか、靄みたいってことは、視界がものすごく悪いってことじゃないか。頼むから転ぶなよ」
「普通とは違う目で見ているからな。問題はない」
(そうか、こいつは本当に“見ている”って感じなのか……)
初めて知った知識は、少しだけくすぐったい感じがした。
レグルスのどことなく見透かしたような態度もその見方のせいなのか、とラスは一瞬考えたりもしたが、やつが図々しいのはいつものことだ、とすぐさま思い直した。
レグルスは、何を考えているのかを読み取らせない表情のまま、もう一度湖の中心を見やった。
「……すべての物はとどまることなく巡っているというのは、魔術の基礎知識だな。確か、ミュノシアの教えにも似たようなものがあったか」
「え?ああ、うん。魔力も自然の力も、すべて巡り巡ってる。大地や人の体も、循環することですべてが安定するんだ。ミュノシアでは、その循環を支える存在がいると考えて……って、おまえミュノシアの教えなんかよく知ってるな。あんなマイナーなもの」
「誰のせいで……」
「うん?何か言ったか」
ぼそりとしたレグルスのつぶやきは、小さすぎてラスにはうまく聞き取れなかった。問い返しても、レグルスはやれやれと言わんばかりに首を振るだけで、結局それ以上は何も言おうとしなかった。
「……それより、気分は?」
「へ?あ、うん。そっちは大分マシになったけど……何なんだよ、レグルス。いつも大体おかしいが、今日は一段と変だぞ、おまえ」
らしくない、と言えばいいのだろうか。勝手気ままなレグルスは、けれど頭脳明晰で自信家だ。その彼が、今はどこか手探りなまま行動しているように、ラスには見えた。
何らかの意図は感じるのに、明確なことはレグルス本人にさえわかっていないかのような、そんな違和感。
次いでラスは、自分とレグルスの状況をもう一度思い出し、ふとあることに気付いた。
「レグルス。今、気づいたんだがな……」
「なんだ?」
「この体勢だと、おまえ、俺に何されても抵抗できないよな?」
「…………」
この状況での沈黙が意味するところは、すなわち肯定である。
今にも舌打ちしそうなレグルスの様子から察するに、この瞬間の彼の心情を一言で表すなら「しまった」というところだろうか。
(ふっ、焦ったところでもう遅いぜ!)
ラスは、動揺が隠しきれていないレグルスの顔へと手を伸ばした。
両手が塞がっているレグルスは、当然それを遮る手段を持たない。
ラスはにやりと笑ったまま、そのシミ一つ無い嫌みなほど綺麗な左右の頬を、思い切り指で挟んで引っ張った。
ついでに言うなら、それを実行するのとほぼ同時に、色々と堪えきれずに噴き出していた。
「ぶふっ……ちょっ、やば、笑える。なまじ元がいいだけ、余計におかしいっ!アハハハハ」
「…………」
元より目鼻立ちが整っているものだから、顔の輪郭が変わった状態でも美しすぎるそれらのパーツが輝いていて、それが余計に笑いを誘った。
思わず力が抜けて手が離れてしまいそうになり、ラスは慌ててもう一度その意外に伸縮力のあった頬を引っ張り直したが、さらに広がった顔に再び爆笑するはめになつた。
「ブッ……」
「…………」
「や、やばい。俺、今なら笑い死ねるかも、ククッ……」
「…………」
レグルスがじろりと文句ありげな視線を向けてくるが、ラスとしてはそんなものは痛くも痒くもない。強いて言うなら、笑いすぎで腹が痛くなりそうなくらいだろうか。
「ほーれ、ほれ。何隠してるか知らないが、数少ない取り柄の顔がこれ以上ひどいことにならないうちに、正直に言ってみろよ」
余裕たっぷりにラスが言うと、それまで沈黙していたレグルスが何言いたげに口を動かした。
(あ、そうか。このままじゃ話したくてもまともに話せないのか)
声なき訴えを理解して、いささか惜しいと思いつつも、ラスは一旦指を離してやった。
「……そうか。言っていいんだな?」
レグルスは元に戻った秀麗な顔で、どこか不穏げに笑っていた。地を這うようなその声に、ラスは自分の優勢を一瞬疑いかけるも、なんとか持ち直して平静を装った。
「……だーかーら、そう言ってんだろ。さっさと吐け」
もう一回やってやろうか、とラスは両手の親指と人差し指を意味深に動かした。
しかし、そんなちゃちな脅しに屈するレグルスではない。
むしろ彼の頭にあったのは、反撃、ただそれだけだったろう。
「そうかそうか。それなら遠慮せずに白状するか。大丈夫そうでなによりだ。……今、この手を放しても」
「…………はあっ!?」
これは、さすがのラスも予想だにしない展開だった。声を抑える余裕もなかったため、今ここが湖の上である意味非常に助かった。もっとも、湖の上だからこそ、こんなおかしなことになっているのかもしれなかったが。
(手を放すって、この体勢でそんなことしたら……)
結果など、誰もがすぐに予想できただろう。
「俺が湖に落ちるだろうが!?」
「もちろんだ。そのためにわざわざここまで運んで連れてきた」
「はい……?」
「流石に調子の悪い者を水に放り込むのも悪い気がしていたが、それだけ元気そうならば問題はないな」
などと、さらにレグルスは意味不明な言葉を述べた。というか、気遣うところが完全に間違っている。
「遠いとはいえ人目がある。魔術を使うのも、まともに泳ぐのも難しいだろうな。何せ俺の側室は、病弱な深窓の令嬢という設定になっているのだからな。自力で助かるわけがない」
「ええと、レグルス君。俺を湖に落として、一体何の意味があるのか、簡潔に述べよ」
何となく予想はできる気がした。が、嫌な予感はしつつも、一応ラスは訊いてみた。
レグルスは、とてもイイ笑顔で言った。
「おまえがおぼれて、必死になって俺に助けを求める姿を、見てみたいと思った」
「却下!再提出!!」
(ああ、もう。やっぱり碌な理由じゃねー!!)
ラスが自分の選択に激しく後悔していると、そうこうしているうちに、先ほどまでしっかりと支えられていたはずの自分の体が、今度はぐらぐらと揺れ出した。
突如不安定になった原因など、もはや問う必要もない。
「ああ、生憎と俺はペンよりも重いものは持ったことがなくてな。今にも耐えきれずに落としてしまいそうだ」
「もう棒読みすぎて、真偽判定する気にもならねーよ……」
ラスの答えは、もうほとんど投げやりだった。
そんな彼女の耳元にレグルスは唇を寄せ、まるで睦言でも囁くかのような、穏やかな声音でこう言った。
「今にも落としそうなのだから……落ちるのが嫌なら、しっかり捕まっていろ」
「は?って、え、何、うっ、きゃあーっ!!」
突然襲い掛かってきた体が放り出されそうになる感覚に、ラスは反射的に珍しく女らしい悲鳴を上げ、何でもいいからと手近なものに必死にしがみついたのだった。
「何やってるんですか、あの人は……」
湖畔に残る赤髪の侍女は、心底呆れたように呟いた。
彼女の視線の先には、湖の上でひしと抱き合ったまま、くるくると回り続ける男女の姿があったという……




