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「あなたが、セラスティア・アロン・ルーエンダス?」
もう随分昔のこと。久しぶりに名を呼ばれたせいで、少々面食らったことを覚えている。敬意も侮蔑もあらわにしないのは、当時のラスにとってかなり珍しい相手だった。
「あなたは、誰?」
見覚えのない大人に、ひどく警戒して鋭い視線を向ければ、相手はそれさえも面白そうに笑った。
「ローゼンタ伯爵の言うとおり、なかなか見所がありそうじゃない。その目、嫌いじゃないわ。まるで、小さな獣みたい。でも、駄目よ。あなたが獣になっては駄目。だってあなたは、獣を従える王にならなきゃいけないんだから」
相手は子供の身長にあわせるように片膝をつき、見惚れるほどの笑顔で言った。
「今日から私があなたの師匠よ」
揺れる蝋燭の光の中、照らし出されるのは不思議な光沢を放つ壁だった。どうやら石を積み重ねて作られたものではないらしく、まるで一枚岩のように継ぎ目が見当たらず、見ただけでつるりとした感触が伝わってくるようだった。
控えている人間は何人もいるものの、一際人目をひく者が二人。一人はかなり高齢なのか、曲がった腰をなんとか杖で支えている老人。もう一人はかつては軍にでもいたのか、やけにぴしりとした良い姿勢で壁を見上げる初老の男だった。
老人は何かを確かめるかのように壁に触れたあと、男に向けて最後の確認を行った。
「本当によろしいのですか?あれは、貴国の……」
「かまわぬ。あの子供にくれてやるものなど何もない」
男の態度は明らかに不快げで、またその目は鋭く老人を見据えており、何を言っても引く気はないのだということが容易にわかった。
老人は、ただ小さくため息をついた。
「……わかりました。お預かりいたしましょう」
「頼む。決して誰の手にも渡らぬよう、厳重に封印をしてほしい」
「我が国に古くから伝わる封印術を用います。どうぞご安心を」
老人が片手を壁にかざすと、金色の不可思議な文様が壁に浮き上がる。次の瞬間には、その金色がすべてを包み込んだ。
皆にその光に目を奪われ、それゆえ誰一人として気付くことはなかった。
その光景を一部始終眺めている、ひどく冷たい視線があったことなど。
ガルダ帝国皇太子宮。
政務を終えた皇太子レグルスが、ほぼ毎夜、その側室の元を訪れるというのは、もはやこの宮にとって当たり前の光景となっていた。
ガルダ帝国の皇太子は気まぐれな人物として知られてはいたが、その類まれな有能さと美貌で宮中の女性からの人気は高かった。その彼に敗国からやってきた側室が嫁いできたときには、それこそひどい拒絶反応が起きたものだ。
特に皇太子宮で働く侍女や下女たちからの反発がすごかったのだが、側室が嫁いできて既に約三か月。その間少々微妙な出来事もあったりしたが、それでも“あの”皇太子が飽きることなく通い続けるというのはもはや驚異と言う他なく、せめて一夜だけでもと息巻いていた者たちでさえ、たぶんこれは無理だろうというのを悟らざるを得なくなっていた。
ふっきれたというより仕方がないという諦めの感情の方が強かっただろうが、少なくとも側室に対して目に見えるような嫌がらせの類はなくなっていた。側室がそう悪印象を与える人物ではなかったのも、その一因だっただろう。彼女は特別使用人たちに優しいわけではなかったが、使用人に対して無駄に我が儘を言ったり、当たり散らすようなこともなかったのだ。下手な貴族令嬢よりも、仕えやすい相手に違いない。
もっとも、そんな状況の陰で、実はその側室本人が色々と動き回っていたなどということは、ほとんど知られていない。
「フフフ。やっぱり情報操作はそうと気付かれないようにやらないとな」
「その笑い方、おまえはどこの悪役だ」
「侍女やりながら地道に働きかけていっただけのことはあるぜ。我ながらナイス!」
扉を開けるなり非常に悪い顔をして笑っている自分の側室を目撃して、レグルスは呆れたようにそう言った。気分の良かったラスはその言葉をあっさりと聞き流したのだが、普段ならそれこそ、おまえが言うなとでも言い返しただろうから、どっちもどっちな夫婦である。
ラスは現状、より正確には現状に至ったという成果に非常に満足していた。といっても、以前侍女の格好で皇太子宮をうろうろしていたときに、話ついでに使用人たちにさりげなく耳打ちしていただけなのだが。しかもその内容ときたら、まああんな側室でももっと酷いのが来るよりはマシだったんじゃないか、という身も蓋もないものだったりする。
「傭兵団のみならず、ここでも自分の信者を増やすつもりか」
「信者ってなんだよ、人聞きの悪い。俺の傭兵団はそんなんじゃねーし、俺は自分を崇め奉れ!なんて言ったこと一度もねーよ。ただ、世論って重要なんだってだけのことだろ。何するにしたって、その場の空気っていうか印象は結構大事だからな」
「それにしては、まどろっこしいやり方だ。どうせならもっと堂々とやればいいだろうに」
「おいおい、側室の俺に剣でも持って立ちまわれとでも言うのかよ。嫌だぞ、そんな怪しまれること」
「俺はその方がおもしろい」
「それ完全におまえの都合じゃねーか!」
まったくもって心温まらない会話を交わしつつ、二人の距離は近づいて……
「何故拒否する」
「おまえが唐突すぎるんだろうが」
すぐ目の前にまで来たレグルスの顔を、ラスはその頭を両手でわしづかむようにして止めた。
不服そうにレグルスが眉を寄せる。空気を読めと言わんばかりに。
(いや、おまえこそなんでだ?)
何故いきなりそうなるのか、ラスの頭の中でまったく繋がらない。
「あのな、あんまり贅沢言うつもりはないんだけど、もうちょっとそれっぽい感じというか、手順や雰囲気なんかを大事にしようと思わないか?」
呆れたようにラスは言う。だが、レグルスの方は、またそれに輪をかけて呆れたような風情で小さくため息をついた。
「そういう演出をすべて無視する超鈍感が相手でなければ、な」
「……おい」
「効果が認められないのならば、当然俺は自分の欲望を優先する」
「おい!」
(素直にぶっちゃけ過ぎだろ!)
若干の頭痛を感じつつ、ラスは子供に言い聞かせるようにゆっくりとした口調で言った。
「レグルス君、人の気持ちを考えて行動しましょうって、小さい頃先生とかに習わなかった?」
「生憎と、俺を担当した優秀な教師たちは、そんなことを言えるだけの無謀さは併せ持っていなかったらしくてな。しかもすぐに教えることがなくなって、どれも長続きしなかった」
「……さぞや嫌なガキだったんだろうな、おまえ。ちょっとその教師陣に同情する」
少し想像しただけでなんともその苦労が忍ばれると、ラスは内心乾いた笑みを漏らした。
「嫌なガキだったか?」
ふと、ラスの反応を伺うように、レグルスがそう言った。
レグルスの問いに、ラスは数度瞬きして、それが初めて出会った時の印象を尋ねられたのだと気付く。高慢不遜を絵に描いたような男のくせに、たまにこうした親の機嫌をうかがう子供のような態度をとられると、ラスとしては調子が狂う。おそらくはそれもレグルスの計算のうちなのだとは思えども、何もかもが嘘であるようには見えないものだから、ラスは渋々、当時の記憶をひっぱり出してやることにした。
(たぶんあの国境でのことだよな。確か……)
「あの時は嫌っていうか、なんか」
「なんか?」
ついぽろりと言葉が出てしまってから、ラスは慌てて自分の口を塞いだ。が、レグルスの続きを催促する視線に耐えきれなくなり、仕方なく白状した。
「良い目してるって思っちまったぜ、コンチクショー」
「だろうな」
ニヤリと笑うレグルスに、ラスは怒りで目元をひくつかせた。
「可愛くないぞ、レギー坊や」
「可愛い俺がお望みか、セラ姫?」
「……やばい。今の鳥肌たつくらい気持ち悪かった」
「いつものお返しだ。大体、この俺に何度も同じ手が通じるか。そうだ、なんなら幼児言葉で話してやろうか?」
「……レグルスおまえ、そこまで自分を犠牲にしながら、俺を苛めて楽しいのか?」
「楽しいな、この上なく」
「……ほんと、何で俺はこんなのを好きになったんだろう」
思わぬ反撃にラスが精神的ダメージを受けていると、レグルスはぽつりと、しかし意外だなと呟いた。
「意外って、何がだよレグルス」
「人の気持ちを考えて行動しなさいと教えてくれるような、善良な大人がおまえの側にいたのかと思ってな」
「そう言えば、話したことなかったか?俺、師匠がいるんだよ。城とか関係なく、個人的な、だけどな」
その人にラスは剣術と魔術の他にも、色々な知識を教えてもらったのだ。今のラスがあるのは、もっぱらその人物のおかげだと言ってもいい。
「一か所に落ち着くってことをしない人だったからな。今はどこで何やってるんだか」
「なるほど。そういうところは師匠譲りというわけか」
「あのな、あの人のはスケールが違う。俺に放浪癖はないぞ」
「体はここにあっても、心はよくどこか別のところに飛んでいってるだろう?まったく、最愛の夫が隣にいるというのに、おまえはいつも他の人間のことばかり考えている」
正直面白くない、と低い声で耳元で囁かれて、ラスの心臓は大きく脈打った。
ラスは断じて束縛を望んでいるわけではない。むしろ本質的にはその逆だろう。だが、冗談交じりに流し込まれた思いの一片は、彼女の心を揺さぶるだけの力があった。
思わずラスが視線を向ければ、しかしその直後、原因である男はにやりと笑い……
「どうだ、その気になったか?」
「殴っていいか?」
実際にラスが拳を構えれば、レグルスは軽く肩をすくめた。
ラスがレグルスを嫌うことが出来ないのは、こういった部分のせいもある。誰かの気を引くために自分の感情をぶつけるしかない幼児とは違い、レグルスは戦と同じく引き際を見誤ったりしないのだ。
以前に言った通り、レグルスはただ鮮やかに、自分の存在をラスの心に焼きつけていく。
ラスは毎度それに嵌まってしまう自分を悔いつつも、どこか悪い気はしていないものだから、恋情とは本当に厄介なものだ。もちろん、どこかで倍返しにしてやろうとはこっそり思っているわけだが。
「それなら、心の旅好きの妻にいい知らせをやろうか。今度、新しい友好条約締結のために、マリューシャに行くことになった」
「マリューシャ?」
唐突な展開に、ラスは眉をひそめた。ラスとて近隣諸国の名前を知らないほど無知ではない。
「マリューシャって、ガルダ帝国の北にある、あのマリューシャか?」
「そうだ」
レグルスに肯定されると、ラスはすぐに先ほどの言葉の意味を察した。
マリューシャは特に大きい国でもなく、際立った産物などがとれるわけでもなかったが、その外交手腕には目を見張るものがあり、ガルダ帝国にとっては重要な位置付けの国だった。
その理由は、マリューシャのさらに北側に位置する大国、ゾディアスが帝国と敵対関係にあるからだ。ガルダ帝国がこの大陸の中央の覇者なら、ゾディアスは北の王者。いくつもの小国を取りこんで属国としているゾディアスは、帝国にひけを取らない勢力を誇っており、先の帝位継承争いの疲弊に付け込んで真っ先に帝国に攻め込んだのはこの国であった。
結局は帝国の領土を手に入れるどころか、逆に属国の一部を奪われる形になったのだが、それが逆にゾディアスに強く再戦の意思を持たせることになってしまった。
そこで重要になってくるのが、両国の間にあるマリューシャである。帝国とゾディアスの東は、険しい臥竜山脈によって遮られているため、ゾディアスの兵が帝国本土に到達するには、奪われた属国か、マリューシャを経由するしかない。奪い取った土地の管理は帝国とて慎重に行うだろうから、当然警備は厳しい。しかし、もしマリューシャがどちらかに組すれば、状況はがらりと一変するのだ。
現在の小康状態も、マリューシャがどちらとも不可侵条約を締結しているからこそ、成り立っていると言っていい。
「そうか、帝国にしてみれば、北のゾディアスがある以上、マリューシャとの関係はきちんと保ちたいものな」
「谷越えもあるから、それなりに日数はかかる。休憩もかねて、途中にあるブラウミラ湖にも少し滞在する予定だ」
「湖か。いいじゃんか。あっちの方は避暑地としても有名だし、最近暑かったから、避暑も兼ねて頑張って行って来いよ。土産期待してる」
「何を言っている。おまえも行くんだぞ」
「は?」
思わずラスの口からこぼれたのは、あまりにも間抜けな声だった。
皆さまお久しぶりです。なんとなんと、実に約五カ月ぶりの投稿。
お待たせしてしまって申し訳ありませんが……というかお待たせしすぎて見捨てられているかもとかなりビクビクしておりますが、ようやく四章始動です。
舞台は帝国を離れて、マリューシャ王国へ。新キャラはもちろん、しばらくぶりの再登場キャラもいます。新しい情報や伏線もどんどん出てくる予定なので、亀更新だとは思いますが、楽しみにしていただけたらと思います。




