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シルヴァジェント大公記  作者: 楓猫
第三章
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鳥籠姫(後)


 数日後、再び現れた黒髪の少年の姿を見て、シュニアは思わず息を吐いた。

 内心ひどく安心しながらも、それを表立っては出さないように言葉を紡ぐ。


「あなた、絶対バカでしょ」


 そんなに死にたいの、と言葉だけは辛辣なものを選ぶ。

 けれど、やはりラスにはシュニアの心などお見通しらしく、張りつけたような彼女の顔を見て軽く笑っただけだった。


「おいおい、泣くなよ」


 泣かせるために来たわけじゃないんだからな、とラスが困ったように言う。

 これには意味がわからず、シュニアは思わず反論する。


「私、泣いてなんかないわ」


「そうか?でも、もしあのまま俺がおまえを置いていったら、絶対泣いてただろ?」


 いけしゃあしゃあとそう言うラスに、シュニアは思わず絶句した。


「な、泣かないわよ!!」


 馬鹿なこと言わないで!と必死になって言い返すが、おそらく効果はほぼなかっただろう。

 そんなシュニアを見てひとしきり笑った後、ラスは少し真剣な面持ちをして話を切りだした。


「なあ、シュニア。そこから出たいなら、俺と一緒に来るか?」


「え……?」


 思わず漏れたシュニアの声には、驚きと隠しきれない期待が滲んでいた。


「連れて行って、くれるの?」


「連れて行くっていうか、ついてくるつもりなら置いていかないってこと」


 ほとんど同じではないか、とシュニアは首をかしげたが、ラス的にはかなり違うらしい。


「そうだな。わかりやすく言おう。もしそこから出て俺と一緒に来たいのなら、今すぐそこから飛び降りろ」


「は!?」


「大丈夫。二階からだから打ちどころが悪くなきゃ、そう簡単に死なないよ。まあ、たぶん動けなくはなるだろうから、その後は俺が背負っていってやる」


 言っていることが無茶苦茶である。


「そこは普通、颯爽と私の手を取って連れ出してくれるんじゃないの!?」


「ここからじゃ頑張って手を伸ばしても届かないし、ロープとかもないのに、どうやって?」


 確かにその通りである。

 以前切り倒された木が無事だったなら、と思っても既になくなってしまったものはどうしようもない。

 シュニアは恐る恐る下を覗きこんだ。

 改めて見ると、それなりに高さがある。見慣れたはずの光景のはずだが、もしもここから飛び降りたらと考えると、寒気が背筋をのぼった。

 それなのに、ラスは無情にも、どうするんだ?と決断を迫るのだ。


「そ、そんなこと、できるわけないでしょう!」


「なんで?」


「なんでって……」


「ついてくる気なら、それくらいの覚悟を持ってくれなきゃ困る。俺は、閉じ込められたお姫様を助け出す王子様じゃないからな。ただの荷物を背負う余力はないし、外はおまえが思ってるよりずっと危険だ。遊び半分で行くなら、そこに籠ってる生活の方がましだよ」


「ラス!」


 抗議を込めた呼び声は、けれどラスには届かなかったらしい。

 はあ、と吐きだされるため息は今までで一番重かった。


「……もういいよ。あ、そうだ。あのナイフは、おまえにやるよ。ちょっと魔術で加工してあって切れ味が凄いから、扱いには気をつけろよな」


「えっ、ちょっと、ラス?」


 混乱するシュニアをよそに、ラスはさっさと木を降りてしまう。


「それじゃ、さよなら」


 本当に最後にそれだけ言うと、ラスは振り返りもしないで去って行った。

 今までのラスならば、「またな」と言ってから帰っていた。当たり前のように、次の機会を予感させる言葉を選択していたのだ。

 けれど、今回は違う。

 初めて聞いた「さよなら」の言葉には、あまりにもわかりやすい失望の色が宿っていた。


「な、んで……」


 慣れたはずの一人しかいない空間に、こぼれた声がやけに大きく響いた気がした。

 遠くなる背中に何度呼びかけたところで、絶対にラスは振りかえらないだろう。

 見捨てられたのだ、と明確な言葉にされずともわかってしまった。


「でも、だって、どうしたら良かったっていうのよ……!?」


 離れてくれることを望んでいたはずだった。

 例え会えなくなっても、ラスが無事であるならそれでいいのだと。

 奇しくも望んでいた通りになったはずなのに、胸の奥がひどく痛い。まるで鋭い刃物で切り裂かれでもしたかのように、見えない傷から血があふれだしている。

 そんな風になってしまったのは、きっと想像してしまったからだ。

 ここから出て、ラスと一緒にいる未来を。


「外に出る資格なんか、本当はないのに。私は、生まれてきちゃいけなかった存在なのに……」


 知らないうちに、熱い物が彼女の頬を伝った。

 嬉しい時、悲しい時、寂しい時。どんな時でも、彼女は一人だった。

 無表情に彼女に接する大人たち。

 「置いていかないで」とそれでも懸命に伸ばされた少女の手は、けれど誰にも届くことなく空を切り、いつでも扉は重く閉ざされるのだ。


「でも、本当は……」


 あふれた涙が、ひとつふたつと床に落ちる。

 次々に流れるそれを、止める術がわからない。


 歪む視界の中、シュニアはふと机の上に置かれた、ラスのナイフに目を止めた。

 ついで部屋の扉へと視線が移り、先ほどのラスの言葉が頭に蘇る。


「これ、使ったら……」


 扉の本来の鍵は壊れて久しい。

 彼女を実質的に閉じ込めているのは新たにつけられた鎖と錠である。

 錠のほうは壊すことができなくても、鎖ならばをなんとかなるかもしれない。


 切れ味が鋭い、という発言がどこまで通用するのかはわからない。

 けれど、シュニアは賭けてみようと思った。


 そうでもしなければ、きっともうラスには会えないのだ。


 力任せに袖を当て、濡れた顔をぐいと拭った。

 ノブをひねった後、全身の力を込めて扉を押す。僅かにできた扉と壁の隙間から廊下の様子が見えた。

 そのままの体勢で、シュニアは先ほど自分のものになったばかりのナイフを抜いた。

 正しい使い方などわからない。けれど、わからないなりにどうにかするしかない。

 シュニアは、隙間にちらりとのぞく銀色の鎖にむけて、勢いよくそのナイフを振り下ろした。


 カシャン、と澄んだ音が響いた。

 あっけないほど簡単に、扉を閉ざしていた鎖は地に落ちてしまったのだ。

 しかし、そんなことに浸っている暇はシュニアにはなかった。

 半ば倒れる様にして、彼女は廊下へと出る。ふらつく体をなんとか立て直すと、そのまま玄関に向けて駆け出した。

 必死に走るなどという慣れないことをして、途中で何度か転びそうになったり、すれ違った使用人たちが驚き声をあげても、彼女はけっして立ち止らなかった。

 止めようとする幾多の腕をすり抜けて、彼女は息を切らしながら玄関の扉を開けた。

 眺めるばかりだった外の世界に、初めて足を踏み入れる。

 眩しい外の光を全身に浴びながら、けれど彼女の意識が向けられているのはたった一人に対してだった。

 そうして視界の端に捕えた、見慣れた後ろ姿。

 瞬時にそのまま駆け出す。


「ラス!!」


 今まで一度も出したことがないくらい、大きな声で名前を呼んだ。

 喉から振り絞るようなその声は、今度は相手へしっかり届いたらしい。

 振り返ったラスは、走り寄ってきたシュニアの姿に目を見張ったようだった。


「ラス。私、私は……」


 衝動のまま、気がつけば部屋を飛び出していた。

 それほどまでに追いかけたいと思ったはずなのに、いざ本人を目の前にすると、なんと言っていいのかシュニアは言葉を見つけられないでいた。

 そんなシュニアにラスは数度瞬きしたあと、ふわりと笑った。


「なんだ、ちゃんと自分で出られたんじゃないか」


 後に話を聞くと、このときはさすがのラスもかなり衝撃を受けていたらしかった。

 目元を腫らした赤髪の美少女が、ナイフ片手にすごい形相で追いかけてきたのだ。シュニアの容姿が優れていただけ、余計に凄味があったのである。

 ラスがこの後、ナイフを捨てたシュニアの渾身の体当たりによって見事に横転したのには、そんな理由もあったのかもしれない。

 もっともシュニアとしては、その行動に明確な心算があったわけではない。ラスを引き止めることしか考えられず、とっさにそんな行動をとったのである。

 下敷きになった相手が衝撃と痛みに呻いていても大して気にならないくらい、とにかく彼女は必死だった。


「ラス、お願い。私、まだ全然外のことも知らないし、何も出来ないけど、それでも頑張るから……」


 だから一緒にいさせて、とシュニアは震える唇で、しかし確かに言った。

 その選択に、迷いがなかったわけではない。罪の意識もある。

 それでも、生まれて初めて、彼女は自分の心からの望みをはっきりと口にしたのだ。


 先ほどまで止まっていたはずの涙が、またぽろぽろとこぼれてくる。

 自身の頬に落ちた水滴を見て何を思ったのか、ラスがシュニアへと手を伸ばす。

 頭を押さえ付けるような少し乱暴な感じではあったが、その手はひどく温かかった。


「大丈夫。シュニアがそう思うなら、俺は置いていかない」


「……うん」


 そうしてシュニアは泣きながらも、ようやく素直に息ができるような、そんな心持ちになった。

 シュニアが落ち着くまで、ラスはずっとシュニアの頭を撫で続けた。


 しかし、いつまでもそうしているわけにもいかない。

 シュニアの涙が引っ込んだのを見計らい、ラスがなんとも言えない顔で声をかける。


「あーとシュニア、とりあえずいい加減どいてくれるか」


「あ、ごめんなさい」


 よくよく考えてみれば、同じ年とはいえ先ほどからラスには人ひとり分の重さがのしかかっているのだ。あまり見られた格好でもないので、早々にどくべきだろう。

 そう思ったシュニアは、慌てて立ちあがろうとして、一瞬ラスの胸部に手を置いたのだ。

 だがそこで、あまりにも不思議な感触がした。そこまであからさまなものではない。けれど、確かに……


「えっ、柔らか……」


「あ、そういえば今日、サラシ巻くの忘れたな」


 思考が停止するというのはこういうことを言うのだろう。

 というより、シュニアの頭が働くのをあえて拒否していた。

 だって、冷静に状況を分析するならば、つまりは……そういうわけである。

 それなら一世一代のこの行動の根源はなんだったのかと呆然とするシュニアに、さらなる追い打ちがかけられる。


「な、なんで玄関に向かってるの!?」


 せっかく外に出られたというのに、何故かラスはシュニアが今来た道をわざわざ戻ろうとするのだ。


「いや、黙って出て行くと、色々問題だろ?一応了承は必要だ」


「はあ!?」


 そうして強引に連れられるまま、シュニアは先ほど出てきたばかりの玄関ホールへと逆戻りするはめになった。

 次いでシュニアは、さらに驚くことになる。

 なんと、扉を開けて真っ先に目に入ったのは、彼女の父の姿だったからだ。


 そんなシュニアの変化に気付いているだろうに、ラスはまったく焦っているように見えない。

 むしろ不敵な笑みさえ浮かべて、屋敷の主と対峙する。


「さて、自己紹介は必要ないな。俺の素性は、もうそっちもわかっているんだろう?」


「……はい」


「この場で格式ばった儀礼は必要ない。唯一つ、俺の問いに答えてもらおう。今後この娘の身柄は、俺が責任を持って預かる。異存はあるか?」


「いいえ、ありませぬ」


 返答はあまりにもあっさりとしたものだった。

 シュニアは驚きのあまりしばし呼吸を忘れ、そのまま視線を自分の腕を掴む人物へと移す。

 ラスはやるべきことはすべて済んだとばかりに頷く。


「行くぞ」


「えっ……ちょっ……」


 状況が理解できないまま、再び引き摺られるようにしてシュニアは屋敷をあとにした。

 父が何を思っていたのか、結局シュニアにはわからないままだった。

 ただ、去っていく自分たちに向けて静かに頭を下げた父の姿だけが、ひどく鮮明に焼き付いていた。


 どういう手段を使ったのか、半月程後には、シュニアはローゼンタ伯爵家に養女として迎えられていた。

 このローゼンタ伯爵家こそ、以前ラスが話していた協力者なのだ。爵位こそ最上位のものではないが、表立っては見えない、所謂裏社会における影響力はなかなかのものなのだという。

 おそらくはその伝手を最大限に利用したのだろう。養女となったシュニアはもとは平民出身で、両親が早世して困っていたところを縁あって伯爵に迎えられたということになっていた。


「君の場合は顔どころか存在自体がほとんど知られてなかったから、それほど難しいことではなかったよ。まあ実家より爵位が下がってしまうのは、我慢してもらうしかないが」


 そう言ってローゼンタ伯爵は苦笑していたが、シュニアとしては爵位云々より、ラスの側にいられることのほうが重要だった。


 外の世界は、ラスの言った通り良いことばかりの世界ではなかった。

 ラスが身を置く宮廷などというのはどこの国でも様々な思惑が満ちているものであったし、そのほかにもシュニアは人と人との関係、特に男女の関係については未だ恐怖に近いものを感じていた。

 シュニアの容姿に惹かれる人間は多かったが、打算でも恋人を作るなどということはしなかった。

 時に人を豹変させうるその感情を、持つのも持たれるのも怖いのだ。自分の中にその片鱗を垣間見たことも含めて。

 いつだったかそうこぼしたシュニアに、やはりラスは苦笑して言った。


「まあ、少しずつ慣れていけばいいんじゃないか。危ないときはちゃんと俺が守るし。だから、おまえも俺のことを助けてくれよな」


 シュニアが一方的に守られることも、依存することも、ラスは望まなかった。

 ある種厳しくもあるその言葉は、けれど確かに一人の人間として扱われているのだとわかって、シュニアはひどく安堵するのだ。

 至らないところはまだまだ多い。それでも一歩一歩、少しずつでも彼女は進んでいく。

 伸ばした手を掴んでくれる、そんな存在に巡り会えたのだから。


 鳥籠の鍵は既にない。

 その開け放たれた扉から、導き手とともに、彼女は確かに飛び立ったのだ。








 時が移り、住む国さえも変わっても、シュニアはラスの側にいた。

 ヴァイオラに端を発した様々な問題に一段落がついた頃、ふとラスはシュニアの手の中にあるものに目を止めた。


「そのナイフ、まだ持ってたんだな」


 もう随分古いものなのに、とラスは熱心にナイフの手入れをしていた侍女を見て苦笑する。


「ええ、まだ十分使えますから。それに大切な物ですし」


 そう言いつつ、シュニアは手入れの終わったナイフを鞘に納めた。


 ナイフ自体の元が良いので、きちんと手入れさえすれば長く使えるのである。

 それに、仮に実用に耐えなくても、シュニアはそのナイフを今のように、ひっそりといつでも持ち歩いていたことだろう。

 シュニアはこれを使って、自分の意思と力で扉をこじ開けた。

 彼女にとってこのナイフは、思い出の品であるのと同時に、決意の象徴でもあった。

 今でもその決意は変わらない。


「ずっと、ついていきます」


「……シュニア?」


「いえ、なんでもありません。そうだ、小腹が空きませんか。よければリンゴでも剥きますよ。折りよく剥くための道具もあるので」


「えっ、さっき大切な物って言った割に、なんか扱い雑じゃないか?」


 元の所有者が複雑そうな顔をしているのを見て、シュニアはクスリと笑った。


 大切な主人で、親友で、かつて自分を助けてくれた恩人であるラス。

 けれど、純粋な少女の淡い初恋を無自覚に打ち砕いた責任をとって、この程度の意趣返しは許容してほしいと思うシュニアであった。

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