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「なっ……レグルス、おまえいい加減にしろよ!」
服ごと全身ずぶ濡れになっては、文句の一つも言いたくなる。
だが、ラスの抗議など耳に入っていないのか、レグルスは平然と自身も浴槽へと足を踏み入れる。
レグルスはラスの両肩を掴むと、そのまま力任せにラスの体を湯の中へと押し込んだ。
浴槽の底を滑るようにして倒れる体を、ラスは慌てて後ろに手をついて支えた。
その後振り切るように体をねじったラスだったが、レグルスの手を外すことは敵わなかった。
動いたせいで結った髪がほどけ、彼女の長い髪がふわりと水面に広がる。
濡れた銀色の髪はさらに艶を含んで美しかったが、生憎とその持主の機嫌はうるわしいとは言えなかった。
「一体何だっていうんだ!マジで怒るぞ!!」
ラスは自分が寛大な人間であると認識……というか、なるべくそうあれるように心掛けているのだが、これほど一方的かつぞんざいな扱いを受けても笑って許せるような性格はしていなかった。
その相手がレグルスなら尚更で、遠慮するなどという選択肢は最初からラスにはない。
「うるさい。あんなやつに触れられて、そのままにしておけるか」
「……は?」
一瞬何を言われているのか理解できず、ラスの思考は停止した。
数秒して、レグルスが言った“あんなやつ”がハダルのことだと察する。
レグルスがラスを風呂に強制的に入らせたのは、彼が原因だということも。
だが、腑に落ちない部分がある。
「どこも触られてないって!その前におまえが俺のこと引っ張りこんだだろ!」
過去を捏造するな、とラスは訴える。
「似たようなものだ。というか、あいつがおまえに近寄ったと考えただけで不快だ」
「はあ?」
対するレグルスの返答は、なんとも理不尽なものだった。
(何言ってんだよこいつ……つーか、何かおかしくないか?)
ラスにとっても、レグルスは扱いやすいなどとは口が裂けても言えない相手だ。
きまぐれで、かと思えば策略をめぐらし、自分の望みを叶えるためにはあらゆるものを利用して、やりたいようにやっている。
ある意味非常に羨ましいが、間違ってもああなりたいとは思えない。
為政者としてはともかく、人間的には最悪の部類なのだ。
同時にラスの趣味の悪さが露呈することになるわけだが、惚れた欲目云々を抜きにして、この時のレグルスの様子はどこか彼女に違和感を与えていた。
(レグルスのこれは、苛立ち……?でも……)
その若さに似合わぬ冷静沈着さを持つレグルスだが、時折年相応の反応が垣間見えることもある。
おそらく極々少数の者しか知らないだろうそれが、ラスは嫌いではなかった。
けれど、ラスは直感的にいつもとは何かが違うと感じた。
今のレグルスは、癇癪を起した子供と同等には考えられない。
その証拠に、今レグルスの瞳に宿る光は凶暴で、その強さに反してどこか危うい。
「ラス、油断したおまえが悪い。黙ってろ」
そう言ったレグルスの声は低く、風呂の湯は温かいというのにラスの背筋を何か冷たいものが走った。
レグルスがラスのずぶ濡れのドレスに手をかける。
胸より少し上、肌との境目の部分を掴むと、そのまま脱がせる気かと思いきや、ビリッというかなり大きな音が響いた。
皇太子の側室のものにふさわしく高級な素材で出来たそれが、無惨に引き裂かれていた。
いったいどれほどの力がかかったのか、亀裂は下腹部あたりまで及んでおり、同時にラスの白い肌があらわになる。
「ちょっ、おま…もったいない……」
驚きすぎたせいか、羞恥心以前に貧乏症が出て思わずそう呟いたラスだったが、視線をあげると息をのんだ。
苛烈な緑の瞳が、彼女のことを射る様に見ていたからだ。
レグルスの口元は僅かに釣り上っていたが、その目はまったく笑っていなかった。
「黙れと言っただろうが」
その場にふさわしくない発言をする唇を強制的に黙らせようと、レグルスの唇が重なった。
「……っ!?」
噛みつくようなそれに、ラスの体は一瞬硬直した。
その後すぐに体を離そうとしたラスだったが、レグルスは片手をラスの後頭部へと移動させ、より口付けを深くさせる。
まるで逃がさないとでも言わんばかりに。
「はっ…ふぁ……」
ラスが身を捩るたび、湯がはねて水音が響く。
だが、初めは大きかったそれが徐々に小さくなり、やがておさまる。
「ん……もう、やぁ……レギー……」
「ラス……」
湯気ごしに見てもラスの頬は薔薇色に染まり、深青の瞳は涙で潤んでいた。
小さな呼吸が繰り返され、その吐息は切なげな熱を持っている。
一度戯れに唇を離してそれを確認したレグルスはくつりと笑う。
悪辣というには純粋すぎ、無邪気と言うのには欲望に満ちすぎた顔で。
そのままもう一度口付ける。
今度はただ蹂躙するのではなく、相手を誘い、絡めとるように。
広い浴槽では、体を預ける場所もない。
片手をついて自分の体を支えながら、ラスは空いたもう一方の手をレグルスの肩へと置いた。
口付けを受けながらも、次いで自分の足を相手の足に絡め、そのまま……レグルスの体をひっくり返した。
「っ!?」
レグルスが気付いた時には、既に手遅れだった。
二人の上下が入れ替わる。
これがベッドの上ならば大したことではなかったかもしれないが、ここは浴槽の中。
レグルスの頭部は、完全に湯の中に沈むはめになった。
当然レグルスは抵抗したが、ラスの方はきっちりとマウントポジションをキープし、暴れるその両腕を押さえつけた。
しばらくすれば抵抗もなくなった。
水面に浮かんでくる空気の塊がほとんどなくなったのを確認すると、ラスはそろりと押さえつけた手を放し、圧し掛かっていた体もどけた。
ざばりと音を立てて、レグルスが浮上する。
「……何をする。久しぶりに本気で死ぬかと思ったぞ」
非常に不機嫌な顔をしてそう言ったレグルスに、ラスはへらりと笑った。
「いや、なんかおまえ、こっちの話聞こうともしなかったし。とりあえず一度心を静めてもらおうと思って?」
「意味が違う。強制的に肉体を沈めてどうする」
「でも、頭冷えただろ?」
「……残念ながらな」
水の滴る前髪をかきあげながら、レグルスは渋々認めた。
そんな仕草さえいっそ芸術的と思えるほどだったが、その顔はまるで不本意を絵に描いたようで、それを見たラスはしてやったりという顔をした。
「それで?そんなに嫌いなのか、あのハダルってやつ」
嫉妬深いというのは以前レグルス本人から申告を受けていたが、ここまではっきりと行動に出されたのは初めてだった。
(たぶん俺がどうこうじゃなくて、相手が誰かってのが問題だったんだろうな……)
「嫌いは嫌いだが、もっと言うならあいつの存在そのものが気に入らん。それはたぶん向こうもだろうがな」
「でも、相当優秀なんだろう?」
「俺が取り逃がすくらいには、な」
それは十分すぎる証明だろう、とラスは思う。
この大陸広しといえど、レグルスに対抗できる人間はそう多くは無い。
「大体、因縁は親子二代続けてだ」
「親子?」
これまた意外な単語が出てきた。
(そう言えば、こいつにだってちゃんと親はいるんだよな……)
などと失礼なことを考えていたことは、さすがのラスも口に出さない。
「ハダルの母親を殺したのは、俺の母親だ。当時正妃だった俺の母親が、皇帝に寵愛され続けるハダルの母親を目障りに思って毒殺した。元々ハダルとは親しくなどなかったが、決定的だったのはそれだろうな」
「……なるほど」
根は深そうだ、とラスは嘆息する。
これが他人事なら放っておくのだが、巻き込まれてかけている自分の状態を考えればそうもいかない。
「ハダルがおまえの異母兄で、ついでに因縁の相手なことはわかったが、あいつの目的は何なんだ?」
「……想像をめぐらすことは出来るが、確証はない。だが、あいつは俺のことを心底嫌っている。この三年で俺に対する憎悪が増すことはあっても、その逆はないだろう。現に俺が執着しているものを狙ってきているしな」
「……それ、もしかしなくても俺のことか?」
「それ以外に何がある」
「えー、あー、そっか……あー、うん」
あまりにもはっきりと断言するレグルスに、ラスとしては困ればいいのか、照れればいいのか、呆れればいいのか……
色々と迷って、結局ラスは曖昧に声を出すことで誤魔化した。
そんなラスの様子を見て、レグルスが口を開く。
「ラス」
「なんだよ」
「おまえはまた、いまひとつわかっていないんだな」
「……何をだ?」
レグルスの遠まわしな言い方に、ラスの眉が寄る。
「レグルス、言いたいことがあるならはっきり言え。だいたいな、おまえは何でそう無駄にアグレッシブというか、言葉より行動というか……もうちょっと俺と対話してみようって考えはないのか?いきなり行動に出られても、こっちは面食らうばっかりなんだぞ」
「それは、おまえの鈍さも原因だと思うが」
「うっ……その辺りも考慮するのが、出来た人間ってもんだろ」
「なんとも苦しい言い訳だな。まあ、鈍い自覚は出てきたようでなによりだ」
嫌味交じりのレグルスの発言に、ラスは今度こそ言葉を詰まらせた。
ぴくぴくと片方の頬が不自然にひきつっている。
不本意だが、非常に不本意だが、自身の鈍さについては考えさせられるものがあったのだ。
「い、言っておくが、俺がその鈍さを発揮するのは、いつだっておまえ相手なんだからな!」
半ばやけになってラスが叫ぶ。
そう、彼女はむしろ周りの人間の感情には鋭く反応する方である。
それなのに、レグルス相手のときにだけ調子がおかしくなる。
自分や相手の状態を、傍から冷静に見て考えることが出来なくなるのだ。
微妙に上擦った声で言い募る彼女を見て、レグルスは意地悪げに笑う。
「そうか。俺のせいだと言いたいのか」
「いや、別にそういうわけじゃ……あ、もういっそそういうことにしておけば面倒がないかも……」
「ラス」
静かな声で名前を呼ばれ、ラスはなかなかに魅力的な解決策から思考を引き剥がされた。
少し前までの乱暴な行動が嘘に思えるほどゆったりと、レグルスが腕を伸ばしてくる。
頬に触れたレグルスの手は湯に浸かっていたせいか温かく、ラスは心地よいその温度に少しだけすり寄りながら一度目を閉じ、そして再び相手をまっすぐ見据えた。
そんな彼女の無意識の行動に、レグルスはまた低く笑う。
「この際だから教えてやる。おまえが考えているよりも、俺の中でおまえの存在は大きい。というか、俺からしてみればどう考えても割に合わないくらいだ。こんな感情に振り回されるはめになるなど……」
「……はい?」
思わず首をかしげそうになるラスに、いいから聞けとレグルスは若干苛立ったように告げてくる。
「以前言ったな。俺は嫉妬深いと。俺は基本的におまえの行動を制限するつもりはないが、おまえを束縛する鎖は俺一つでいいと思っている。他に鎖が存在するならそれを断ち切り、鎖の先にいる存在を潰す」
「あ~そりゃ、物騒なことで……」
「言っておくが、本気だぞ」
基本的にレグルスは冗談などを抜きにすれば、ラスに対して誤魔化したり隠したりすることはあっても、嘘をつくことはあまりない。
短い付き合いだが、ラスがそれを察するのに十分な時間はあった。
レグルスがさらに言葉を続ける。
「何を失うことになっても、それをやめる気はない。例えおまえが泣いてやめてくれと懇願しても。結果おまえがひどく傷ついて俺を恨むことになっても」
それでもやめる気も、手放す気はないのだと、レグルスは言う。
今のレグルスの瞳には、またあの危うい光が宿っている。
ラスはそれを真っ向から受け止めて、そして気付いた。
確かにレグルスが本気なのだと。そして激しいその感情の向こうに、僅かな自嘲が交じっていることも。
また、こうも思う。危ういのは自分の身ではなく、レグルス自身だと。
茨に包まれた何かを、刺にかまわず掴もうとする。
今のレグルスは、どこかそんな風に見える。
だが、不敵な笑みを浮かべてどれだけ平気そうにしていても、そんなことをして痛くないわけがない。
(それでも、立ち止れないのは、俺も同じか……)
レグルスがどうしてそんな考えに至ったのか、ラスには理解できない。
けれど、自分の信念を曲げられないのは、やはりどこか似ている。
ラスは頬に触れたままのレグルスの手に自分の手を重ね、あのさ、と話を切り出す。
「なんかいまいちわからないところもあるけど、それでいくとつまり、俺がおまえのことをどう思っていようが、おまえにとってはどうだっていいってことなんだろ。あと俺の方が泣き寝入りするって決めつけられてるみたいだし。それってなんか、信用されてないっていうか、見くびられてるっていうか……」
何かすっきりしないと、ラスは顔をしかめる。
「いいか、レグルス。おまえが自分で好き勝手やるように、俺だって俺のやりたいことをやる。おまえの望みと俺の望みが対立するなら、そのときはおまえを出し抜いて自分の望みを叶えるだけだ。負けた時の心配をされる必要はない。だいたいおまえの性格が超絶悪いことくらい、この国に来た時からわかってるんだよ。わかった上で、俺はこうやって側にいるんだ。例え気の迷いだろうが、俺が好きになったのはおまえなんだから、あっ……」
言葉の途中で突然抱き寄せられた瞬間、ラスは自らの失敗を悟った。
色々と、馬鹿正直に言いすぎた。
「初めて言ったな」
「何が?」
「好きだって」
「うっ……」
耳元で囁くレグルスの声には確かな喜色が滲んでいて、ラスは全力で相手の体を突き飛ばし、慌てて体を離した。
その顔は羞恥で真っ赤に染まっている。
(そりゃ、いつかは言ってやろうと思ってたけどな。でも、でもこんな早く、しかもこんな自分で墓穴掘って言う羽目になるなんて……)
「あーもう、今のは無し!全部嘘!俺は何も言わなかった!!つーか、マジでぽやっとしてあんな胡散臭いのにやられるようだったら、そのときは俺がこの国を中から乗っ取ってやるからな。おまえなんかすぐに皇太子の座から転げ落としてやる!そんでもって俺の下でこれでもかっていうぐらい扱き使ってやる!」
頬に赤みが差したままそう叫ぶラスだったが、その内容はどこか辻褄があっていない。
ラス自身それを自覚しながらも、今更引っ込みがつかずにただ相手を睨みつけることしかできなかった。
「それは困るな」
にやにやと笑いながらそう言ったレグルスに、ラスの方が耐えきれなかった。
「なんか今、俺のことすっごく馬鹿にしただろ!」
「したつもりはない」
「いーや、絶対した!その見られたもんじゃないにやけた顔が証拠だ!」
「生憎と、どんな表情でも絵になる顔に生まれついていてな」
「うわっ!今のはイラッときたぞ、このナルシスト」
手近に武器となるものが存在しなかったことは幸いだった。
一応二人ともこんなところで魔術をぶっ放したりしない程度には良識らしきものをもっていたので、あとは本気で取っ組み合いでもしない限りは大きな怪我をすることもないからだ。
ではその代わりにラスがどうしたのかと言えば、相手の顔めがけて湯を叩きつけた。
これにはさすがのレグルスも面食らった。
ぽたぽたと水滴を垂らしながら呆然とするレグルスの顔はひどく幼く見えて、ラスのほうも予想以上の効果に思わず噴き出す。
「ラス、おまえ……」
「やばい、今のはやばい。ツボに入った」
時折ちらちらとレグルスの方を見ながら、ラスは笑い続ける。
その言葉なき挑発に、レグルスは乗った。
怒りがこもったレグルスの反撃はしかし思ったよりうまく湯を飛ばすことが出来ず、しかもラスにひらりとかわされる。ついでにラスはそれを見て再び爆笑していた。
結果どうなったのかと言えば、二人の争いは子供がする水遊びと変わらない、ひどく低次元なレベルのものになった。
しかも質の悪いことに、二人とも割と本気で戦っていた。
最初はこういった遊び的なものをやったことがないレグルスよりも経験のあるラスの方が優勢だったが、あまり時間も経ない内にレグルスがその飲み込みの早さを見せつけ、両者とも途中からはかなりいい勝負になっていた。
体力も人の数倍ある二人の勝負の結末は、けれど案外早く訪れた。
ドンガラガッシャンという、気のせいと思いこむにはいささか大きすぎる物音が、入り口側から響いてきたのである。
「「……」」
数秒お互いを見合ったラスとレグルスだったが、ほぼ同時に音のした方に視線を動かした。
別に打ち合わせたわけでもないのに、こんな時ばかりひどく息の合った二人である。
入り込んだ風のせいか、ギィーという小さな音とともに、浴室の扉が勝手に開く。
見覚えのある人物の姿を見つけ、ラスは目を見張った。
そこには腰を抜かしたと思しき、朱色の髪をした皇太子の側近がいたのだ。




