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「動きはまあまあですが、まだ甘いですね。それに、もっと頭を使った勝負も覚えないといけません」
侍女三人娘のうち、不運にもシュニアに狙われたのはマリアだった。
マリアもかなり善戦したのだが、その結果は予想を覆すことはなかった。
涼しい顔で手首の赤のリボンをほどきつつマリアの問題点を指摘するシュニアは、つい先ほどまで壮絶な追いかけっこを繰り広げていたなどとは微塵も感じさせない。
一方のマリアは、未だ息が整わず、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返している。
これほどまでマリアが追いつめられたのは、まだ幼い時分、山のボス大猿と木の実をめぐって戦ったとき以来であった。
まるで獲物を狩る獣のように無駄のない動きを見せたシュニア。
そんなシュニアは尊敬に値し、ぜひとも見習いたいとマリアは思う。
けれど……
「壁を走るなんて、反則です……」
野生の猿とて枝を飛び移るのが精々だというのに、シュニアの動きはマリアの予想をはるかに超える自由度を誇っていた。
「問題ありません。誰にも見られていないので」
「いえ、そういう意味ではなくて……」
しれっと答えるシュニアに、力なくマリアはそう言った。
こういう相手への突っ込みはマリアの領分ではない。普段ならば真っ先にセシルが口を出すのだ。
セシル。
一つ年下の、金色の髪をした友人。
マリアの基準からすれば、彼女は決して強いとは分類できない。
けれど、マリアがここに来たばかりでわからないことが多かった頃、何かと世話を焼いてくれたのがセシルだった。
性格はかなり違うのだろうが、不思議と息があって、一緒にいると居心地が良かった。
それがここ最近、どうにもぎくしゃくとしてうまくいかない。
以前山で動物ばかりに囲まれていたときは、こういう場合手土産に食べ物を持っていったり、毛繕いの一つもすれば良かった。
だが、さすがに人間相手にそれが通用しないことは、マリアとてわかっている。
「それでは、今からあなたが鬼を……」
「あの、シュニアさん。大事に思っている人から拒絶された時って、どうしたらいいんでしょう?」
座りこむマリアはシュニアを見上げ、思わずそう尋ねていた。
鬼の証である赤いリボンを渡そうとしていたシュニアの手が止まる。
マリアが指す大事に思っている人は誰なのかなど、訊くまでもない。
この場には関係なく、かつ唐突な質問にも、シュニアは特に怒りはしなかった。
ただ、少しばかり呆れたような軽いため息をついたのみである。
「結論だけを言うなら、あなたがとるべき行動は、追うか追わないかのどちらかです。諦めるならそのまま追わず、それが嫌なら追う。簡単なことです」
シュニアはあっさり言うが、そう簡単にいけば苦労しないとマリアは思う。
「でも、そんな無理ですよ。たぶん私、セシルに嫌われてますし」
「どうしてそう思うんです?」
「一緒に練習しようと誘ったら、自分のことにだけ集中しろ、関わらないでって言われて……」
そのときのことを思い出し、マリアはなんとも情けない顔をした。
彼女にもし犬のような耳でもあれば、しょんぼりと垂れていたことだろう。
「それはおそらく……」
何かに気付いたらしいシュニアは、けれどそこで言葉を止めた。
「ちょっ、シュニアさん!なんで言いかけてやめるんですか!?」
知りたいのはその先のことである。
「言ってくださいよ。何かヒントになるかもしれないじゃないですか!」
「嫌です。少しは自分の頭で考えなさい」
「その頭が足りないから知恵を貸してほしいんです!!」
シュニアの返答はにべもない。
マリアは必死に取りすがったが、シュニアは結局その部分についてはそれ以上語らなかった。
言ったのは別のことである。
「まあ、別にこのままでいても、気まずい思いをする期間はあまり長くないとは思いますが……」
気になる言いように、マリアはぱっと顔を上げた。
疑問いっぱいの視線を向けてくるマリアに、シュニアはさらに言葉を続ける。
「聞いていませんか?セシルに縁談がきているそうです。もしも本決まりになって嫁ぐことになれば、相手の領地へ移り住むことになります。遠方らしいですから、もう顔を合わせることもなくなるかもしれませんね」
「えっ……」
それ以上は、言葉が出てこなかった。
「年下云々はさて置き、姫様はヴァイオラ様のこと、お嫌いではないんですか?」
それは、セシルにとってひどく自然な疑問だった。
普通自分を狙ってくる相手を嫌わないわけがないのだが、ラスのヴァイオラに対する感情はそうした負の部分がいささか欠けているように思えた。
「あ~正直に言うなら、あのしつこさにはちょっと参ったけどな。でもあの子、からかうと面白いし」
それに、と言いつつラスは少しだけ困ったような顔をした。
「もしかしたら、俺もああいう風になってたのかもしれないかと思って」
立場や才能や周りの環境。
少しでも何かが違っていたならば、と思うとラスはどこか他人事のようには感じられなかった。
今ああして空回りしていたのは、もしかしたら自分だったのかもしれないと。
どこか普段と違う雰囲気のラスに、セシルは何かを問おうとして、けれど結局問いたかったことが何だったのか自分でもよくわからなくなって口を閉じる。
とまどうセシルを見かねたのか、ラスはそこでがらりと空気を変えた。
「あの子の父親曰く、ヴァイオラは確かに昔からお転婆だったけど、今みたいになったのは一年ほど前からなんだそうだ」
それまでは多少奇抜な言動は目立っていたが、目に余るほどの破天荒さではなかったという。
「あとはまあ、たぶんそのあたり関係にありそうなのが、その二年前に公爵に二番目の子ども、しかも男の子が生まれてるってことだ」
つまり、生まれた子供は公爵家直系の男子である。
当然それまで後継ぎと目されていたヴァイオラよりも、継承順位は高い。
荒れるはずだよな~、とラスは窓枠に頬杖をつき、茂みの中にいる少女を見やった。
奇しくも三年前にヴァイオラは家を出て魔術学院に入っているのだ。関係ないはずがない。
「……私は、なんとなくヴァイオラ様の気持ちがわかるような気がします」
ぽつりとセシルが言った。
どうしようもなく、口から言葉があふれる。
「家に、居場所がない気がするんです。別に家族のことが嫌いで仕方ないとかではなくて……」
時は流れ、環境は変化する。
けれど、身近な人から向けられる感情が突然変化することほど、劇的な物はないだろう。
大切にされていたと思ったら、急に掌を返したような扱いをされる。
だから幼いセシルは戸惑い、時に逃げ出そうとした。
家族と一緒にいるのに、薄氷の上を歩くような、妙な緊張感が漂う。
下手をすれば、すべてを失ってしまいそうな感覚に陥る。
何かよりどころになるものを見つけ、縋りたくなる。
その根本の原因は、おそらく他の人間から見ればくだらないと一刀両断されてしまうような幼稚染みた代物だろう。
けれど、そんな仕方のない思いがいつも心の中を占領して、時々どうしようもなくなるのだ。
だから何も聞こえなくなるように、集中できるものに取り組んだ。
セシルの場合はそれが医者になるための勉強で、ヴァイオラの場合は魔術だったのだろう。
「私、勉強することが好きでした。机に向かっている間は、余計なことを何も考えなくて済みましたから。良い成績が取れれば、自分は今夢に向かって頑張れているんだという気持ちになりましたし」
医者になれればいいと思っていた。
人の役に立てる仕事で、そして何よりも多くの人から必要とされることに憧れた。
けれどそれは、いい加減役に立たない勉強はやめて家に帰れ、という実家からの手紙の一言に吹き飛んでしまった。
帰ればすぐに見合いでもさせられ、どこかの家に嫁がされる。
直接的な言葉でそう言われずとも、セシルはそれを察した。それと同時に、自分がいらなくなった道具のように扱われたような気がして、背筋が凍った。
侍女として宮廷への奉公にあがるのは、実家に帰らぬ言い訳に最適だった。
うまくすれば有力者に気に入られ、すべてから逃れられるかもしれないという期待もあった。
そこでセシルははたと気づいた。
つい感情が高ぶって、余計なことまで話してしまっていた。
「すみません。本当は姫様にこんなこと、お話しするべきではないのに……」
セシルは身の置き場がないとでもいうように顔を伏せる。
対するラスはと言えば、表情を変えることなくセシルを静かに見ていた。
セシルの独白を聞き、今度はラスが口を開いた。
「人間は、成長する過程で自分の立ち位置をちゃんとわかってくるもんだ。いろんなものを見て、学んで、自分に合うものを選んで得て……」
けれどなかには、得るのと引き換えに、捨てなければいけないものもある。
捨てたこと自体を、ラスは後悔していない。
そうしなければ今まで生きてこられなかっただろうし、それらは持っているからといって必ずしも生きやすいとは限らないものだからだ。
けれど、自分が失ったものを持っている相手を見ると、やはり少しは複雑な気分になるものだ。
「別にあの子みたいになりたいってわけじゃない。言ってることは現実味の欠けた青臭い理想論だし、やってることはハチャメチャだ。でもさ……」
ちょっと眩しいよな、とラスは苦笑してそう言った。
その一言に、セシルはどきりとした。
それは、セシルにとっても覚えのあるものだったからだ。
ヴァイオラはセシルにないものを持っている。
似ている部分があると思ったから、そこは異様に目についた。
あの少女には、彼女の振る舞いを受け止めてくれる周囲の人や……家族がいる。
「はい……」
どこか深い思いを込めながら、セシルはそう返事を返した。
ラスは窓際から離れセシルのほうへとやってくると、斜め前で足を止め、彼女の右肩へと自分の右手を置いた。
「セシル、これは俺の持論だけどな。人間はけっして平等じゃない。地位や才能、その他諸々例をあげてみればみればきりがない。けど、一つだけ公平なものがあるとしたら……それは人間は決して全てを手に入れることはできないってことだ。けどその逆に、何もかも失うこともできない。少なくとも生きている間はな。まあ、気づいてないってことはあるだろうけど」
いきなりの言葉の数々にセシルは少々面食らったが、ラスがほほ笑みながらもどこか真剣な目をしているのを見て、息をのんだ。
「選択するときに重要なのは、自分の心だ。何を欲し、何を拒み、そして何を守りたいのか。その気持ちを無視したら、いつか自分が一番大切にしているものも零れ落ちていっちまう」
そう言うだけ言って、ラスはそのまま歩きだす。
が、扉の前で唐突にその歩みを止めた。
「あ、そうだ。昼は休憩を入れるから、あそこにいる猪突猛進娘に差し入れでもしてやってくれないか?」
思いだしたようにそうつけ足して、今度こそラスは遊戯室を出て行った。
セシルは、半ば呆然としてそれを見送った。
ラスの言葉はどこか抽象的であった。
が、何が伝えたかったのかはなんとなくわかるような気がした。
自分の手の中には何が残っているのか。
そう考えて、セシルは己の手を握り締めた。
そのまま遊戯室に留まる気にもなれず、セシルはとぼとぼと廊下を歩いていた。
ラスが言っていたお昼休憩までは、まだ少し間がある。
どこへ行くべきかと思案しながら歩き続けていると
「あっ、セシル!」
聞き覚えのある声がした。
急いでそちらを見やれば、同僚である黒髪の友人の姿があった。
距離にして数十メートルというところだったが、セシルがマリアの腕に巻かれた代物を見つけるには十分だった。
気付いたセシルは、当然まわれ右して走り出しマリアから距離をとった。
それに驚いたのはマリアである。
「ちょっ!セシル、なんで逃げるのよ!!」
「なんでって、当たり前でしょう!」
その腕にあるものは何!と逃げる友人に言われ、マリアははたと気がついた。
慌てて見やった自分の右腕。そこにはシュニアから渡された赤いリボンが巻きつけられている。
そう、今は鬼ごっこの最中。
当然、現在鬼であるマリアからセシルは逃げる。
これはマリアにとって非常に都合が悪かった。
シュニアから話を聞いた彼女は、今すぐにでもセシルと話をしたかったからだ。
が、肝心のセシルはマリアに背を向け、必死になって逃げる。
そこでマリアがどんな答えをはじき出したのかと言えば……
「逃げるものは追う」
これに尽きた。
マリアは迷うことなく駆け出した。
しかし、ここでも問題があった。
マリアとセシルとでは移動スピードは段違いなのだが、このまま行けばマリアがどれほど急いでもセシルが大きな通路へと出てしまうのだ。
そう、セシルとて考えなしに歩いていたわけではなかった。
人目があれば、大っぴらに追いかけっこは展開できない。
体力が資本、というか体力にしか自信のないマリアにしてみれば、当然不利な状況になる。
そこで、マリアの頭にシュニアに言われたことがよぎる。
『もっと頭を使った……』
ふと横の庭を見た彼女の目に入ったのは、親指の半分程度の大きさの石。
マリアはそれをしっかりつかむと、手首をしならせ思い切り腕を横に振った。
当たらなくてもかまわなかった。狙い通り、石は見事セシルの足元へ。
あともう少し、あの角を曲がってしまえば、人通りの多い通路へ出る短い脇道に入れる。
逃げ切れる、そう確信したセシルは急に出現した足元の石には気付かなかった。
どうなったかは……想像に難くないだろう。




