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翌朝、シュニアがラスの部屋へとやってくると、彼女はふと主の手に目をとめた。
ラスが手袋を着用していたからだ。
手袋は一見白いだけのレース生地に見えるが、よくよく見れば僅かに違う色の糸でうっすらと薔薇の刺繍が施されており、とても上品で美しかった。
けれど、シュニアは知っていた。そういった簡単に汚れたり破れたりするものを、ラスがあまり好んで身につけないということを。演じる場合ならともかく、元々ラスは着飾ることに対して無頓着な方なのだ。
「ラス、どうかしたんですか?手袋をはめているなんて珍しいですね」
どういった心境の変化です?と赤髪の侍女に尋ねられ、ラスは内心ビクリとした。
「ああ。なんとなく、そういう気分だったから。特に深い意味はないぞ」
ラスはそれでもなんとか表面上は平静を取り繕い、いかにもなんでもないという風に言葉を発する。
しかし、それがかえってシュニアには引っかかったのか、ジトリと詮索するまなざしが向けられる。
「……まさか、怪我でもしたんじゃないでしょうね?出かけた先で何かに引っ掛けたとか、獣に噛みつかれたとか」
(おしい。なかなか鋭いな、シュニア)
正解は悪い男に引っ掛かり、ケダモノに噛みつかれた、である。
ラスは一瞬拍手したくなったが、ぐっとこらえて笑みを浮かべる。
「怪我なんてしてないさ。それに俺の場合、怪我をしたって切断されでもしない限りは魔術でぱぱっと治せるだろ?」
「……それもそうですね」
シュニアはまだ微妙に納得していなさそうだったが、ヒラヒラと支障なく手を振るラスを見て、とりあえず深刻な怪我でないことは理解したようだ。黙ってそのまま引き下がった。
侍女がそれ以上追及してこなくなり、ラスは内心安堵のため息をついた。
(大丈夫なら見せてみろ、とか言われたら、ちょっと困ったもんな……)
未だラスの手には、例の噛み痕が残っているのである。
出来る事ならラスは先ほどシュニアに言った通り、きれいさっぱりこの痕跡を消してしまいたかった。
だが、そう簡単にいかない理由があった。
いつものごとく、レグルスが尊大に言い放ったからだ。
『魔術で治すなよ。もし勝手に治したら、今度はもっと凄いことをするぞ』
凄いことって何だ、と思わずラスは訊き返したくなかったが、知らない方が身のためであると脊髄反射並の素早さで判断したため実行はしなかった。
危険物が出てくるのがわかっていて、わざわざ藪をつつく必要はないのである。
しかし、このまま泣き寝入りというのも、ラスとしてはなんだかおもしろくない。
「仕返しに俺も噛みついてやろうかな。……アソコとか」
などと物騒なことを呟きつつブラックに笑う主を、赤髪の侍女は不気味そうに見つめていた。
侍女三人娘が揃うと、シュニアはとある宣言をした。
「本日の業務はすべて無しです。代わりに訓練の続きを行います」
この発言には、程度の差はあれど三人ともが目を丸くした。
最近では非常に珍しい光景だ。
不協和音の原因とも言えるセシルは、早引けをした次の日には通常の業務に支障がない程度に態度が改善していたが、やはりと言うべきか、未だ他の二人との間にはどことなく距離があったのである。
「あなたたち三人には今まで学んできたことをいかし、鬼ごっこをしてもらいます」
「「「鬼ごっこ?」」」
いきなりどうして鬼ごっこなどに繋がるのか。
質問したそうにしている三人を黙殺し、さっそくシュニアはルールの説明を始める。
「ここに白いリボンと赤いリボンがあります。白は追われる側、赤は追う側、つまり鬼を示しています。あなたたちはこのリボンを自分の体のきちんと見える場所に結んで下さい。鬼が白いリボンを奪ったら、リボンを交換して立場も入れ替わります。期間は今日の夕暮れまで。範囲はこの皇太子宮の中のみです。最終的に赤のリボンを持っていた人の負けです」
ただし、とシュニアはことさら強く言った。
「注意すべきことがあります。リボンを奪う、あるいは守るためならばどんな手段を用いても構いませんが、その場面を他の使用人に目撃されるのは厳禁です。不審に思われるようなこともあってはなりません。あなたたちはあくまで普通に仕事をしているように振る舞い、その上で秘密裏に鬼ごっこを展開して下さい」
つまりはそれぞれが身に付けた技術を用い、より実践的な訓練を行うのがこの鬼ごっこの目的であるのだ。
単に力をつけるだけが求められているのではない。適切な箇所、方法で用いることが大切なのだ。
「最初は公平に三人ともが逃げてください」
「えっ、それなら最初の鬼は……」
フィリーナが疑問の声を上げる。
「私がします」
きっぱりとシュニアが宣言すると、一瞬部屋の空気が固まった。
それもそのはず。この鬼ごっこはどう考えても逃げる側に有利なのだ。
逃走範囲が広いので一度どこかに隠れられれば早々見つかることはなく、見つかっても人前ならば猛然と追いかけられることもないのだから。
だからこそ、最初に鬼にならなければ相当楽が出来る。
しかし、そこにシュニアが出てくると話は異なる。
シュニアと他の三人では知力体力ともに明らかにレベルが違うからだ。
いや、むしろその筋の相手と比べても十分に凄いレベルなのかもしれなかった。
とりあえず、普通の侍女はどこからともなく武器を取り出したり、人一人を簡単に投げ飛ばしたり、魔術の攻撃を軽々とかわすなど出来ない。
「ああ、もちろん敗者にはペナルティがありますから。それでは百数えるうちに逃げてくださいね。一、二、三……」
などと三人娘が驚愕から抜け出せぬうちにシュニアはさらなる驚きの事実を告げ、しかも無情にもそのまま数を数えだす。
三人は蜘蛛の子を散らしたように、一目散に逃げ出した。
「ここなら、とりあえず大丈夫そうね」
ひとまず落ち着ける場所を見つけて、セシルはほうっと息を吐いた。
たどり着いたのは、いくつかある遊技室の一つである。場所が一階である上、宮の主人たちが飽きることなく過ごせるよう配慮されてか、いくつもの部屋が繋がっているおり、逃走ルートが確保しやすかったからだ。
そもそもセシルの体力では力任せの追いかけっこなど無理にきまっているのだ。マリアならばともかく。
そこでセシルは黒髪の友人の顔を思い出し、深いため息をついた。
「マリア、やっぱり怒っているわよね……」
今の主人の元で働くようになってから出来た同僚は、いつの間にか大切な友人へと変わっていた。
もちろんフィリーナのこととて親しく感じてはいるのだが、セシルにとって気の置けない関係と言えるのは、やはりマリアの方だった。
おそらくはマリアの言動に、裏表がまったくないからであろう。どうしてあんな性格になったのか疑問だったのだが、育った環境が自然の中だったと聞いて深く納得してしまったセシルである。
自分があまり人づきあいが得意でないことは、セシル本人も自覚していた。
学生時代も、それで苦労したのだ。元々セシルの出自や女性であるという理由で周りから距離を取られていたのだが、中にはセシルに対して嫌がらせをしてくるものもいて、どうにも周囲とうまくいかなかった。
もっと言葉を選べばいいのだろうが、あの頃の癖が染み付いているのか、とっさのことになるとつい警戒心からあまり人受けのよくない態度になってしまうのだ。
「でも、今回はこれでいいのよ、きっと」
実際のところ、セシルは周囲が思っているほど、訓練についていけないことを気にしていたわけではない。
今回はヴァイオラというかなり特殊な存在のせいで、戦闘面が重要視されているだけであり、別の機会あるいは方法で主の役に立つことは可能だからだ。
もちろん、くやしくないわけでもなかったが。
一瞬浮かんだ友人の悲しげな顔を、セシルは軽く首を振って追い払った。
「私のことなんか嫌って、いっそ忘れてくれていい」
忘れられるならその方がいいのだ。
忘れたくても忘れられない、消したくても消せない思いもあるのだから。
「あ……」
なんと間の悪いことだろう。外を歩く官僚らしき者たちの中に、見知った姿を見つけてしまったのだ。
従兄のバルドだ。
おそらくは仕事の関係でこの宮へとやってきたのだろう。
どことなく凛とした面持ちの従兄の姿に、セシルは苦しくなった。思わず胸の辺りで拳を握る。
「へぇ~セシルはああいうのがタイプなのか。確か従兄で幼馴染なんだっけ?」
「!?」
真横から聞こえた覚えのある声に、セシルは息をのんだ。
そこにいたのは、今日は出掛けると宣言していた彼女の主人だったからだ。
セシルは口をパクパクと動かすが、驚きすぎて声が出てこない。
まあまあ落ち着け、とラスが肩を叩いて、セシルはようやくまともに呼吸ができた。
「姫様!なんでここに……というか、なんで知って……」
「さっきのセシルの様子見てればすぐわかるって。それにあの従兄君、俺のところに挨拶に来たからな。縁談がまとまりそうだから、近いうちにお暇することになるかもしれないって」
「そんな……それなら、知っていらしたんですね。縁談のこと」
未だセシルは縁談の報告を主人にしていなかった。
正式に決まったわけではないこともあったが、何よりも報告することをセシル自身がためらっていたからだ。
だから、てっきり知られていないものだと思っていたため、その事実は少なからずセシルにとってショックだった。
「ああ。まだ本決まりってわけじゃないみたいだけど、一応先に報告をしておきたいってことだったからな。もっとも、セシル本人はあまり乗り気じゃないかもしれないとも言っていたが」
「それは……」
ラスの言葉に、セシルは沈黙するしかなかった。
ぎゅっと口の端を引き結び、そして意を決したように口を開く。
「姫様にはご迷惑をおかけするつもりはありませんので、どうぞお気になさらず。それよりも、御用がお済みであれば早くお部屋にお戻りください」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。そのことでセシル自身がひやりとしたが、けれど口から出てしまったものは既にどうしようもない。
いくらラスが他の姫君とはかなり違う感性の持主だとはいえ、これには無礼だと叱責されるかもしれない。
そうセシルが身構えていると……
「ありがとう」
降ってきたのは、あまりにも柔らかな笑顔と言葉だった。
予想と反した主人の言動に、セシルの頭は見事に混乱した。
「なっなんで……」
「俺のこと、心配してくれたんだろう?俺の立場とか身体の安全とか、ヴァイオラのことがあって色々危ないわけだし。それで俺の身を案じて、早く部屋に戻った方がいいって言ったんだろう?だから心配してくれてありがとうって言ったんだよ。ちょっとうまく態度に出せないだけで、本当は優しいものな、セシルは」
その瞬間、セシルは自分の顔が沸騰するのを感じた。
「え、え、あ、その、えーと……」
「あはは、セシル顔真っ赤」
「姫様!からかわないで下さい!!」
「いや、別にからかってるわけじゃ……あっとヴァイオラのことだっけ。セシル、ちょっと……」
そういうと、ラスはセシルを手招きした。
「ここからならちょうど……ほら、あそこ」
ラスは何かを見つけたようで、窓の外を指さす。
セシルがよくわからないままにその先を見やると、どこかで見たことがあるような茂みの中に隠れているようでいまいち隠れられていない小柄な少女。
「え……」
「いや~、俺用の罠張ってずっとあそこで張り込みしてるんだよ。まあ、俺あそこの廊下はよく通ってたからな。意図的にだけど」
完全に遊ばれている、とセシルは思った。
振り回されているようで、その実ラスはヴァイオラの行動をしっかりと把握、どころか掌握しているらしかった。
見た目は完璧な姫君だというのに、ラスはまるで悪戯が成功した子供のように楽しそうに笑っていた。
「姫様、楽しそうですね。やっぱりヴァイオラ様が年下の女の子だからですか?」
「……セシル、何かその言い方は嫌だな、俺」
まるで妙な性癖の持主であるかのような言い草である。
「申し訳ありません。でもシュニアさんがそのように……」
「シュニア……」
自分の主兼親友をなんだと思っているのか、とラスはがくりと肩を落とし、セシルはそれに苦笑するしかなかった。




