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「なんだ、いたのかレグルス」
シュリエラの温室へとやってきたラスだったが、すでに先客がいた。
レグルスは寝そべるシュリエラに半分ほど体重を預けつつ、資料らしきものを広げている。
(珍しいな、こんな時間に)
確か今日はこの時間帯は、皇太子のレグルスは帝国の重鎮たちと会議があったはずだ、とラスは記憶している。
「頭の固いやつらのせいで話が進まなくてな。一度区切った」
いぶかしげな顔のラスを見て察したのか、問われる前にレグルスがそう言った。
ラスはふーんと興味なさげにその隣に腰を下ろす。
するとレグルスが抑えきれなかったかのような笑いを漏らすので、再びラスの眉が寄る。
「なんだよレグルス。気色悪い」
「いや、この俺がわざわざ会いに来ているのに、ここまで邪険にされるとはと思ってな」
「はぁ?わざわざ会いに来たって……」
(今の今まで普通に座って仕事してたじゃねーかよ)
ラスにはレグルスの言っている意味がわからない。
第一、邪険にしたつもりもなかった。もしそうなら、隣に座るどころか蹴りの一つもいれている。
会いに来た、という表現はつまり、レグルスはラスの居場所を知っていて、わざわざそこに足を伸ばしたということだ。
しかし、いくらラスがこの温室によく来るとはいえ、長くもないであろう休憩時間に運よく遭遇できるというのは、どうしても違和感があった。それならばラスの部屋に直接出向く方がわかる。そのうえ、レグルスは涼しい顔で座っていたのだ。
そう、どうにもレグルスに余裕がありすぎる。まるで、ラスの行動を完全に把握しているかのようだ。
まさか、と思う。だがそれがラスの中でレグルスなら十分ありえそう、という思いに押しつぶされるのに長くはかからなかった。
ラスは思わずレグルスの顔から目をそらした。
「…………」
「なんだその微妙な顔は」
「いや、別に」
権力者がその手の手段を用いることはよくあることであるし、ラスとしても否定するつもりはない。
その対象が自分なら始終観察されているかもしれないという不快感はあるが、それは多少なりとも身分があるなら仕方のないものでもある。
その件についてラスはレグルスを問い詰める気にはならなかった。
あっさりと肯定されでもしたら、かもしれないから絶対にそうだと確定し、その結果ラスに蓄積されるストレスが増すだけで、状況が変わるはずもなかったからだ。
言ったのは別のことである。
「ああそうだ。レグルス、悪いが明日の夜は遠慮してくれるか?」
「何?」
ラスの言葉に、今度はレグルスが顔をしかめた。
「明日の夜は俺の部屋に来るなって言ってるんだ。ちょっとやりたいことがあるんでな」
わかりやすく相手の機嫌が傾いたことに気付きながらも、ラスは理由らしい理由もはっきりとは述べなかった。
ただその深い青色の瞳で、相手の緑の瞳をじっとみつめただけである。
時間にして数秒のことであったが、この二人にはそれだけの時間で十分であったらしい。
「……仕方ない」
渋々、といった感じでレグルスは了承を示した。
だがそれだけで終わらないのがレグルスである。
「まったく、この俺に側にいてくれと泣いてすがった女は数知れないのに、おまえは平気な顔してどこかに行けと言うんだからな。酷い女だ」
まるですべてラスが悪い、と言わんばかりにわざとらしく嘆くレグルス。
しかし、ラスとて反論せずにはいられない。
「今までその泣いてすがってきた女たちを、全員足蹴にしてきた外道が何を言う。たまにはそういう立場になれば、一歩くらい人間に近づくんじゃないか?」
ラスはピシリと、自信満々に右手の人差し指をレグルスへと突き付ける。
レグルスが相当女遊びをしていたのは周知の事実。その相手の流した涙を合わせれば、さぞや巨大な湖ができあがることだろう。
ラスとしては、昔のことをぐだぐだと言うつもりはない。よってレグルスの女性遍歴は、ラスにとっては相手を言い負かす良い材料であった。
レグルスは特に何を言いかえすでもなかった。
ただラスが突き付けた指を握り、それを自身の顔へと近づけるのを見て、ラスはてっきりそのままレグルスが手の甲に口付けでもするのかと思った。
(誤魔化すのに口付けるのは、それこそ悪い男の印だぞ。だいたいそのパターンにはいい加減に慣れた)
今更そんなことで誤魔化されないぞ、と思うラスだったが、彼女の予想に反しレグルスは軽く口を開けた。
そしてラスの伸ばされた人差し指の付け根に触れて、そのまま強く噛んだ。
「ちょっ……レグルス!?」
予想外の行動と痛みに思わずラスは手を引っ込めようとしたが、レグルスに引き戻されて失敗する。
レグルスは見せつけるように赤い噛み痕へと舌を這わせ、そのままにやりと笑った。
「な、な、な……」
「ああ、俺も言っておきたいことがあったんだが。……ラス、おまえ俺の張った結界にひびを入れただろう?まあ、穴があいたのは一部でそれも既に修復済みだが、断りもなく勝手に壊すな」
内容は文句の割に苛立ち見えないの淡々とした口調で、レグルスはそう言った。つい先ほどしたことなどおくびにもださない。
一方のラスは先ほどの出来事に動揺しすぎて、反応が微妙に遅れてしまった。ついでに掴まれたままの手を慌てて引き戻す。
「へ?あ、そんなこともあったような。いや、これくらいなら大丈夫かなと思って、つい。でも思っていたより脆かったから……」
「誰がおまえみたいな規格外の相手を想定するか。それに、こそこそと色々やっているみたいだな」
「……別にやましくて隠すわけじゃないぞ。俺は穏便かつ円滑にことを進めようとしているだけだ」
(レグルスが関わると、絶対に派手なことになるに決まってるからな)
その様は容易に想像できる。いや、むしろラスの予想を超えた派手さになることだろう。
なんにしても、それはラスの望むところではないのである。
「まあ、俺に隠し事ができると思うなよ。少なくとも、この国ではな」
この帝国で俺の目が行き届かないところはないからな、と低く笑うレグルスをラスは呆れたように見やった。
(これ、冗談なんかじゃないんだろうな……)
先回りできたことといいおそらく事実なのだろうが、はからずも問う前に答えが出てしまった。
こうなったなら、ラスとしても一言言っておきたい。
「……偉そうに言ってるがレグルス、おまえのやっていること、世間ではなんて言うか知ってるか?」
「何だ?」
「覗き、もしくはストーカーと言うんだぞ。一国の主として情けなくないか?」
「一国の主として、危険人物を監視して何が悪い」
「おいコラ。誰が危険人物だ」
「ひとの結界に穴をあけておいてよく言う。十分危険人物だろうが」
「例え事実だろうと失礼には違いな、つっ……」
思わずラスがぎゅっと手を握ると、先ほどの噛み痕がじくりと痛んだ。
血は出ていないが、その分地味に痛い。しかも痕はかなりしっかりと残っている。
元凶であるレグルスをラスはキッと睨みつけたが、レグルスはそれを気にした様子もなく、何か別のことでも考えている様子である。
「しまった。左手の薬指にすべきだったな」
「阿呆か!!」
ぬけぬけと言い放つレグルスの頭を、ラスは半ば本気で引っ叩いた。




