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ヴァイオラが去った後、一人部屋で過ごしていたセシルのもとを訪れた人物がいた。
静かな部屋にノックの音が響き、セシルが扉を開けると……
「セシル」
そこにいたのはセシルにとって、会いたくて、そして会いたくなかった人だった。
「バルド従兄さま。どうして……」
「君に会いに来たんだ」
二人で廊下を歩きながら、セシルとバルドはしばらく無言だった。
セシルはちらりと男の横顔を見やった。
淡い金の柔らかな髪に、薄い青緑の瞳。
従兄だけあってその色はセシルに似ていたが、どちらかと言えばきつい印象を与えるセシルとは違って、それは彼の性格をあらわすかのようにひどく優しげだった。
セシルはやっとの思いで口を開いた。
「わざわざすみません。お忙しいでしょうに」
バルドはその優秀さを買われて、今宮廷内でもそれなりの地位にいる。
忙しさを押してきてくれたのであろうことは、容易に想像がついた。
「いや、大切な従妹のためだからね。構わないよ。そう言えばきちんと会うのは、アンタレス大帝の生誕の宴のとき以来かな」
バルドは柔らかく微笑んだ。
「この間の話、考えてくれたかな?僕としても、いい話だと思うのだけれど」
けれど彼の告げる言葉は、セシルにとっては残酷なものだった。
乱れる心を抑えて、セシルは言葉を紡ぐ。
「いいお話なのはわかっています。でも……」
「相手は子爵家の次男だし、人柄も良いと評判だ。良縁だと思うよ」
家のためには、確かにそうだろう。貴族と縁を結べば、失った爵位の復活も叶うかもしれない。
けれどこの縁談を従兄から伝えられることほど、セシルにとってつらいことはなかった。
セシルは目を伏せて、問うた。
「……従兄さま、伯爵家のご令嬢とはどうなのですか?」
急な話題の転換に、バルドは驚いたようだった。
「うん?突然どうした。もちろん仲良くやっているよ」
「そうですか。さすが、あちらの令嬢に見染められて一気に婚約までこぎつけただけありますね。お幸せそうでなによりです。今度の春には挙式ですものね」
「ああ、式にはセシルもぜひ参加してくれよ」
「……はい、もちろんです」
その時答えた自分の声は震えていなかっただろうか、とセシルは思った。
夢も願いも、今のセシルにはひどく遠かった。
「セシルったら部屋にもいないし、訓練にもでないし、どこに行ったのかしら?でも昼間の……いくらなんでもあの態度は無いわよね」
マリアはぶつぶつと呟きながら速足で進み、その次の角を右折しようとした。
一方その少し離れた場所をアノンが歩いていた。
「まったく、レグルスのやつは一体何を考えているんだ。あんな子供に好き勝手させて、しかも放っておけだと?」
彼は苛立たしげに左折しようとして……
両者は見事にぶつかった。
その際、男性でマリアより背の高いアノンが吹き飛び、女性でアノンより背の低いマリアがしっかりと立ったままだったのは余談である。
倒れた男を、マリアは急いで助け起こした。
「申し訳ありません!大丈夫ですか?えっ、アノン殿……」
「いや、こちらこそ考え事をしてよそ見を……!?おまえは確か側室の」
「侍女の、マリアです」
アノンとマリア。この二人が会ったのは、ラスの元をレックスが訪ねてきた時以来であった。
それほど前ではないはずだったが、その時お互いに悪い印象ばかりであったためか、二人のどちらにとっても妙に衝撃的な再会であった。
数瞬驚いていたものの、マリアはすぐにはっとした。
シュニアから以前のアノンへの態度について、改めて謝罪するように言われていたのだ。
正直気のりはしなかったが、シュニアはボスであるラスの腹心、群れの№2である。群れの上位者には従うのが、マリアにとってのルールなのである。
何より、主人であるラスにこれ以上迷惑をかけられない。
マリアは改めてアノンの状態を確認する。
「お怪我はないようですね。よかった。……以前も失礼な態度をとり、申し訳ありませんでした。あわせて謝罪を申し上げます」
そう言ってよろよろと立ちあがった男に、マリアは頭を下げた。
深く頭を下げ謝罪するマリアを、アノンは壁に寄りかかりながら見ていた。
そして以前会った時のことを回想する。
「……ああ、あれか。まったくその通りだな。侍女なら侍女らしく、主の行動ぐらいしっかり律しろ。それとも、やはりあの主にはおまえ程度の侍女しかいない、というわけか」
この時、アノンはレグルスのことがあってひどくイライラしていた。
勝手なことばかり言って、そしてその言葉通りに好き勝手に行動する主。そして、それを止める事の出来ない自分にどうしようもなく苛立っていたのだ。
だから思わず、似たような状況であっただろう目の前の侍女に対して辛口になった。
いや、実のところ自分たちよりもよほど信頼関係がありそうな側室と侍女に対する、羨望のようなものもあったのかもしれない。
それが口調と態度に全面的に出てしまったのである。
しかし、そんなアノンの事情など、マリアが知ったことではない。
しかもマリアのほうも、セシルとのことでもやもやした気持ちを抱えていた。
そこに気に入らない、しかもぶつかったくらいで倒れるようなひ弱な相手から喧嘩を売られたのである。
ピシリと、何かの音がした気がした。
「私の至らなさを責められるのは構いません。まだまだ未熟者ですし、その自覚もあります。けれど……」
マリアはその紫電の瞳に力を宿し、強く鋭い視線をアノンに向けた。
アノンは思わずたじろいだ。
それもそのはずだったろう。普段余程のことがなければおっとりした調子を崩さないマリアだが、その一睨みは野生の肉食獣とて裸足で逃げ出すものであるのだから。
だが、アノンとて侯爵家の跡取りとして育てられ、現在皇太子の側近として働いているというプライドがあった。
侍女ごときに睨まれたくらいで、ひるんでなどいられない。
そう思い、彼はなんとか言葉を紡いだ。
「な、何だ。何か言いたいことがあればはっきりそう言えばいいだろう」
「……いいえ、特に何も。ただ、他人のことをどうこう言う前に、まずはご自分のことについて振り返ってたらどうです?たまには自分の体を張ってでも……ああ、申し訳ありません。私のようなたかが侍女にぶつかったくらいで倒れてしまうような方には、酷な話ですね」
「なっ……」
一応敬語ではあるが、その内容はあからさまにアノンをけなしていた。
「ああ、申し訳ありません。所詮“その程度”の侍女ですので、つい口が……修行不足の身をいつまでもアノン殿の前に晒すのは気がひけますので、そろそろ失礼します。どうぞお大事に」
「!?」
マリアは一礼するだけすると、そのまま足早に歩きだす。しかも、去り際にさりげなくアノンの足を引っ掛けていった。
もともとよろけいたアノンは、いともあっさりそのまま素っ転んだ。
もはやマリアは、そんなアノンを振り返りもしない。
「なんて女だ……」
ひっかけられた足を抱え、去っていく黒髪の侍女の後ろ姿を見ながら、アノンは呆然と呟いた。
「マナ!」
声をかけてきたのは、同僚のティアだった。
紅茶色の髪が特徴で、そばかすが散った顔は美しくはなかったが愛嬌がある。
「ティア、どうかしたの?」
「ううん。別に何もないけど、マナの姿を見かけたから」
ティアはマナと同じ新人で、人懐っこい性格なのか、特に用事がなくてもマナによく話しかけてくるのだ。
マナとしては特定の個人と親しくするつもりはまるでなかったが、ティアはその性格でいろいろな人に気に入られているらしく、情報源としては有益だと考えていた。
「そう言えば、マナは今臨時でここにいるだけで、ちゃんとお仕えしている方は別にいるのよね?」
だからすぐ横に並んで歩き、能天気そうな顔でそう問いかけてくるティアはマナの癇に障ったが、ぐっとこらえて仕方なく答えた。
「そうよ」
「どんな方なの?」
「……素敵な方よ」
「どんなところが?」
しつこい、とマナは思った。
そんなマナの心情に気付いた様子もなく、ティアは無邪気な笑顔を向けてくる。
諦めたようにマナはため息をついた。
「美しく、気品にあふれ、そしてお優しい方。慈愛にあふれたその微笑みを目にするだけで、すべての人は感動を覚え……」
「ふ~ん」
要求した割には、ティアの反応は薄かった。
それに、マナはさらにイラッとする。
「……もう良いわ」
「えっ、ちょっと待って。どうして先に行っちゃうのよ、マナ~」




