54
幼い頃、セシルは家庭教師の授業を度々抜け出していた。
彼女は刺繍や作法の勉強も、別に嫌いではなかった。けれど、必要以上に厳しい教育は、幼い少女の息を詰まらせるには十分だったのである。
脱走したセシルは、家人に見つからないように隠れるのが常だった。
それは毎回異なる場所で、しかもセシルは機転のきく子供であったので、自分から出て行かない限り誰かに見つかることはなかった。
たった一人を除いては。
「見つけたよ、セシル。また抜けだしたんだね」
「従兄さま」
家の隅にある木の陰に隠れていたセシルは、声をかけてきたその人物を見て顔をほころばせた。
従兄のバルドは、どこに隠れていてもセシルのことを見つけてくれる。
セシルは厳しいばかりの両親よりも、いや他の誰よりもこの従兄のことが好きだった。
バルドはよく、セシルに絵本を読み聞かせてくれた。
絵本は一般大衆向けのもので、どれもありがちなハッピーエンドものばかりではあったが、何より従兄が側にいてくれることがセシルの心を穏やかにしてくれた。
けれど、不思議とその日はセシルはその絵本の内容に心ひかれたのだ。
「倒れた姫のため、王子は姫の病を治す方法を懸命に探しました。病に効く薬があると聞けばそれを譲ってもらいに行き、英知を持つ賢者がいると聞けば会うために化け物が住む山を登りました。幾度も旅立ち、多くの試練を乗り越え、王子は最果ての地でようやく姫の病を治せる医者を見つけました。医者は姫の病を治し、姫はたちどころに元気になりました。そして王子と姫は結婚し、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
「すごいわ」
セシルは感嘆の声をあげた。
「そうだね。一生懸命頑張った王子はすごいね」
バルドはそう言ってセシルの頭を撫でようとした。
けれどその途中でセシルの頭は大きく左右に揺れた。
手のやり場をなくしたバルドに、セシルは言った。
「違うわ。すごいのはお医者さまよ」
「……医者のほうなのかい?」
普通は姫を救った王子に憧れるものだろうに、とバルドは内心驚く。
「だってお姫さまのことを治してあげたのはお医者さまでしょ?私も、お医者さまになったらお父様の病気、治してさしあげられるのかしら?」
セシルの父親は元々厳しい人ではあったが、病を得てからはますますそれが顕著になった。
没落した家が昔の栄華を取り戻すことばかりに執着し、他を顧みなくなるまでに。
一人娘であるセシルへの態度もひどく冷たいもので、セシルとてそれを理解していた。
だから病が治れば、あるいは父親も変わるのではないかとセシルは考えたわけである。
「セシル。お医者さまになるには、とっても難しい勉強をたくさんしなければならないんだよ?そう簡単には……」
「じゃあいっぱいお勉強したら、いつかなれるかな」
バルドは顔を輝かせるセシルに苦笑すると、改めて彼女の頭を撫でた。
「そうだね、素敵な夢だ。僕は応援するよ」
大好きな従兄がそう言ってくれたことが、セシルは本当にうれしかった。
きっかけなど、そんなものであったかもしれない。
セシルに追うべき夢ができたのは。
そして、彼女に淡い思いが芽生えたのは。
セシルはヴァイオラを自室に連れてきていた。
とりあえず破れたドレスを脱いでもらい、今ヴァイオラは代わりにセシルの服を着ている。
ヴァイオラは15歳にしてはかなり小柄で、年上でしかも一般的な体格のセシルの服はおそろしくサイズがあわなかった。袖から手が出ず、裾はずるずると引きずっている状態だった。
ヴァイオラは袖から出ない自分の手を見て少々眉を寄せただけで、特に文句は言わなかった。
侍女の部屋が珍しいのか、手持無沙汰できょろきょろするヴァイオラと対照的に、セシルは黙々と針を進めた。
そのせいで途中昔のことまで思い出したが、軽く頭を振って切り替える。
ハサミで糸を切り、出来栄えを確認する。もう一度普通に着るのは難しいだろうが、とりあえず帰るだけなら支障ないだろう。
「どうぞ。できました」
縫い終わったドレスをセシルが差し出した。
けれどそのセシルの手を、ヴァイオラが見咎めた。
「ちょっと! 手を怪我してるじゃない。まさか針で刺したとか言うんじゃないでしょうね?」
「あ、いえ、これは……特訓をしていて」
いつもの訓練後の自主練習によるものであったが、まさか訓練の原因になった相手に事情を説明するわけにもいかなかった。
幸いヴァイオラはいぶかしげな顔をしたが、それ以上踏み込んではこなかった。
「侍女なのに、武術でもやっているの?……まあいいわ。とりあえず、手を出しなさい」
戸惑いがちに差し出された手に自分の手をかざし、ヴァイオラはぶつぶつと何かを呟いた。
するとヴァイオラの手に淡い光が宿り、セシルはその光によって徐々に自分の怪我が治っていくのがわかった。
「馬鹿みたいって、思ってるんでしょう?」
セシルの怪我を癒しながら、ヴァイオラはぽつりとつぶやいた。
自分の手に釘付けになっていたセシルは、思わずヴァイオラの顔を見る。
「公爵家にうまれたのに、ふさわしくないことばかりしているって、あなたも本当はそう思っているんでしょう?」
「いえ、そんなことは……」
「別にいいわよ、隠さなくて。大方の人はそう思ってるんだから」
言い淀むセシルをどう思ったのか、ヴァイオラは大きなため息をついた。
「私だって、好きで陰口叩かれているわけじゃないのよ。私のせいで父様が肩身の狭い思いをしてるのもわかってる。でもね、貴族だから、女だからという理由で才能をどぶに捨てるのはおかしいと思うの」
そこで、ヴァイオラは自嘲気味に笑った。
「私は、自分で言うのもなんだけど才能をもって生まれてきたと思うわ。魔術の勉強を好きだと思うし、必要な努力もしてきたつもり。でも貴族はね、教養はあってもいいけど、それを実務に活用しちゃいけないの。よっぽど国の中枢に近いなら別だけど、その他の貴族はそんな考えが蔓延してる。職についても実際には全部部下に任せて上から高みの見物なんてのもざらだわ。それが当たり前だって思ってるのよ。教養も魔力もアクセサリー扱い。本当に馬鹿みたい。全部民の為に生かすから意味があるのよ……でも、特に頭にくるのが、貴族の女の生き方よ」
貴族の女が学校に入る理由を知っている?とヴァイオラは問いかけた。
といっても答えを期待していたわけではないらしく、そのまま言葉を続ける。
「言ってしまえば男漁りよ。入学するのに身分は関係ないけれど、学校に通えるのは当然高度な勉強ができるだけの環境が整えられる金持ちや貴族が多いの。だから学校に通うのは、血筋よく将来有望な男と知り合ういい機会なのよ。学校によってはそういった思惑の貴族の子女を受け入れる専用のクラスがあって、お金を積めば入学できる。当然目的を果たせばすぐに学校をやめるし、卒業もしないわ。まあ、まともな試験も授業もないのに、卒業したって意味ないでしょうけど」
それは、セシルも知っていた。
セシルは正規に入学をしたが、学校に通うことが許されたのは従兄の助言の他に、両親にそういった思惑があったからだった。
「そこにいる女たちは、口を開けばくだらない噂話とファッションと、如何に男の気をひくかってことばかり。確かにいつか有力な相手に娘を嫁がせたい親からすれば、小賢しい知恵をつけないほうが扱いやすいのだろうけれど、娘たちは自分たちがそうやって無知にさせられていることもわかっていない。何も出来ないお人形だってことにも気付かないで、平気で民を見下して贅沢な暮らしをしてるのよ。私は、何よりそれが許せないの」
貴族が貴族としての贅沢な暮らしを許されているのは、民の暮らしを守る義務を負っているからだ。
けれどいつしかその責務を忘れ、先祖から続いてきた血筋ばかりを誇るようになってしまった。
才能があるなら、それは民のために生かすべきだ。それには、男も女も関係ないとヴァイオラは思っていた。
「だから私は皇室認定魔術師になるの。貴族でも、女でも、帝国一になれるんだっていう可能性を示して、思考の止まった貴族社会に一石を投じたいの。だから、そのためならどんな手段だって私は使うわ。せっかく皇太子殿下にいただいたチャンスなのだもの」
ぐっ拳を握りしめるヴァイオラは、そこではたと気づいたようだった。
よくよく考えれば助けてくれたとはいえ、相手は自分が倒すべき女の侍女であった。
ヴァイオラはセシルの怪我が治ったことを確認すると、手を離した。
「ごめんなさい。つい話過ぎたわ。繕ってくれてありがとう。助かったわ」
そうして手早く着替えを済ませると、ヴァイオラは部屋を出て行った。
出て行くヴァイオラ背が、小柄なはずなのにひどく大きなもののようにセシルには思えた。
「お邪魔しております」
公爵と別れ、侍女たちを下がらせた後、一人部屋に戻ったラスであったが、入った瞬間目撃した存在に、思わず手近にある物を投げつけたくなった。
見覚えのありすぎる、白髪交じりの紺色の髪に、金縁のモノクル。
「ロッソ、おまえ……」
どうやって、などと問うのも今更かもしれなかった。
相変わらず神出鬼没すぎる自称・ラスの忠臣は、優雅に足を組んで椅子に座っていた。
「いえ。必要かと思いまして」
ロッソは立ち上がりラスのところまで歩いてくる。そうして差し出された袋を、ラスは反射的に受け取っていた。
ちらりとロッソを見れば、何を考えているのかわからぬ薄笑い。
ラスはため息をついて袋をあける。ころりと手の中に四つの指輪が転がった。
「反魔石の指輪、か……」
とっさに危険因子がないか確認してしまったのは、もはや習慣といっていい。
一応大丈夫だとわかっても、ラスの表情は暗かった。
「なんです、その顔は。もっと喜んでくださいよ」
「おまえな、今まで自分のしてきたことを振り返ってみろ。…つまりおまえ、反魔石使った代物四つ分に匹敵するぐらいの悪事を働いているってことなんだな?」
魔石とて高価だが、魔術を無効化できる反魔石はそれ以上に高価だ。
しかもロッソという超一流の技術者によって作られた魔道具なら、その価値はおそろしく跳ね上がる。
そんなものをいきなりよこすなど、ラスにしてみれば嫌な予感しかしないのである。
「おや、心外ですね。戦いの前に戦力補強は必要でしょう?あなた自身には必要ないとしても、あなたの周囲の人間には、それなりの守護が」
「所詮宮の中で起こることに、そんな大げさな…」
「戦いが、この中だけで起こるとは限りません」
「……どういう意味だ?」
途端に鋭さを増したラスの声に、ロッソはいつもの胡散臭い笑顔を浮かべただけである。
「すぐにわかりますよ」
ただそれだけ言うと、ロッソはラスを上から下までじっと見た。
特に顔は顎を持ち上げられさえして、ラスとしては居心地が悪くて仕方がなかった。
「な、何だよ?」
「いえ。……年々似てくるな、と思いまして」
「はぁ?何のことだ?」
ラスのそんな当たり前の疑問もさらりと聞き流し、
「そろそろ失礼します」
ロッソは部屋を出て行った。
ラスはしみじみ思う。
(あいつ、俺の質問には一切答える気がないんだな)
とても主への態度とは思えないが、それがロッソであった。
今更普通の言動をしだしても、それはそれで怖いものがある。
ラスは手の中にある指輪をもう一度見て、それから袋に戻した。
不穏なことばかり言っていたが、とりあえずラスとしては目の前のことに集中するつもりだった。
「まあ、こっちもそろそろだろうし。俺も動くか」




