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突然響いた何かが壊れる大きな音。そして床を伝わる振動。
使用人用の食堂で今まさに昼食を受け取ろうとしていたマナは、目を丸くして給仕の中年女性に尋ねた。
「な、何かあったんでしょうか?」
怯えた様に震えるマナの姿を見て、給仕の女性は苦笑する。
「ああ、あんたは新人だからまだ知らないんだね」
「はい。ここに来たのはつい先日で、まだよくわからないことが多くて…」
「それじゃ驚くのも無理はないね。あれはね、リクティス公爵家のヴァイオラお嬢様の仕業さ」
マナは先ほど以上に驚いた。
「リクティス家のご令嬢が?」
「そう、あの魔術師になった変人令嬢だよ。最近急にこの宮に出入りするようになってね。時々ああして魔術使って騒ぎを起こすんだ」
「えっ…でも、誰か止めたりなさらないんですか?」
普通建物に損害がでるくらいの規模なら、いくらなんでも止めるだろう。
「それが、皇太子殿下のご命令らしいんだ。ヴァイオラ様の行動は止めないようにってね。ここは殿下の宮殿で、あの方が絶対だ。私たちはそう言われちゃ従うしかないよ。幸い今のところけが人とかもでてないしね」
現在帝国の実権を握っているのは皇帝ではなく、皇太子レグルスである。
つまりは皇太子こそ、このガルダ帝国の最高権力者であった。
その皇太子に対して意見できるのは、余程の重臣くらいなものである。使用人の身分では不可能だ。
使用人たちは粛々とその命令に従っていたのだった。
「そうなんですか…でも、どうしてヴァイオラ様は、そんなことをしていらっしゃるんでしょうか?」
ただ騒ぎを起こすだけなど、自分の評判を貶めるばかりである。
いくら大貴族の令嬢といえども、反発を抑えることは難しいのではないだろうかとマナには思えるのだ。
その質問に対して、女性は得意げに話しだす。
「あ、これは噂なんだけどね。なんでもヴァイオラ様が騒ぎを起こすとき、いつも近くに皇太子殿下の側室様がいらっしゃるらしいんだ。それでもしかしたら、ヴァイオラ様が騒ぎを起こす原因は側室様への嫉妬心からじゃないかって話だよ。実家が公爵家なら、皇太子殿下の正室にだってなれる身分だしね」
女というのは、いくつになっても噂話が好きな生き物なのだろう。女性はひどく楽しげだ。
火のないところに煙はたたないが、ヴァイオラと側室の関係は周りにはおおむねそのように認識されていたのだった。
ああそうだ、と女性は言い、そしてあからさまに声をひそめた。
「皇太子殿下を慕う若い女の使用人たちは、側室様もヴァイオラ様も気に入らなくて、どっちにも手を貸さないってのが大多数だ。つまり傍観、だね。でもそいつらの中にも過激派がいるらしくて、目をつけられると厄介だ。あんたも気を付けなよ」
それは年若いマナに対しての、年長者としての忠告だった。
来たばかりで事情をよくしらない自分のことを心配しているのだと、マナにもよくわかった。
「はい。ご忠告ありがとうございます。お話聞かせていただいて助かりました」
「頑張りなよ」
そう言って女性は昼食をマナに渡した。
マナは最後に笑顔で一度振り返り軽く頭をさげ、そのまま空いた席に座る。
彼女は席につき、そしてぽつりとつぶやく。
「変人のお嬢様、ですか…」
マナはクスリと笑った。
「これは、使えますね」
「それで、調子はどうなんだ?」
お茶を入れるシュニアにラスが尋ねた。
何の調子かと言えば、三人娘の教育のことである。
言われずともそれを悟り、シュニアはティーカップを差し出しながら言った。
「やはり即戦力になるのはマリアですね。筋がいいです。さすが山育ち、っといったところでしょうか。フィリーナの方は魔術の素養があるみたいなので、格闘系よりはそちらを伸ばした方がいいでしょう。問題は…」
「セシルか」
カップを持ち上げ、ラスはふうと息を吐く。一応想定していたことではあったのだが。
はい、とシュニアが静かに答える。
「体力系は壊滅的です。いえ体力云々より、たぶん運動センスがゼロなんでしょう。ちょっと走ったぐらいで転びますし。かといって魔力もないので魔術は使えません。彼女の武器はその知識なのでしょうが、それをいかすなら…」
「わかってるよ。…苦労をかけるな」
完璧主義のシュニアのことだ。
本来ならやらなくていい範囲まで、徹底的にやっているに違いなかった。
「いえ、私は別にいいんです。最終的に私の負担が減ることになりますし。ですが…」
「うん」
シュニアが言いたいことは、ラスにも分かっていた。
「でも結局、決めるのはあの子だし…」
それだけ言うと、ラスはシュニアが入れてくれたお茶を一気に飲み干した。
レグルスは会議が終わり、皇太子宮に戻ろうとガルディア城の廊下を歩いていた。
「お待ちを、皇太子殿下!」
後ろからかけられた声に、レグルスは足を止めた。
知っている…というか、先ほどまで会議で一緒だった相手の声だったのだ。
振り返ると、白髪交じりの薄紫色の髪の男が近づいてきた。どうやら急いでレグルスを追いかけてきたらしく、その肩は激しく上下している。
「リクティス公爵。どうした、それほど息を切らせて」
「で、殿下。こ、このたびは我が娘が殿下の宮で大変失礼な振る舞いを…」
「ああ、そのことか」
レグルスはすぐに思い当たった。
リクティス公爵は、ヴァイオラの実の父親なのである。
娘の噂を聞きつけて謝罪をしに来たのだろう。貴族は体裁を重んじるものなのだ。
「お許しいただければ今すぐ娘を捕まえて…」
「ヴァイオラのことは我が妻にまかせてある」
まくしたてる公爵の言葉を遮るように、レグルスは言った。
突然のことで、リクティス公爵も面喰った。
「は?妻…側室のセラスティア様のことですか?」
「それ以外に誰がいる。申し開きがしたいなら、私ではなくそちらにすることだ」
それだけ言うと、レグルスはそのまますたすたとその場を去った。一人呆然とする公爵を残して。
「さて、これであいつはどう出るかな」
歩きつつ、レグルスは彼らしい意地の悪い笑みを浮かべるのだった。
侍女たちの秘密の特訓は、皇太子宮の使われていないとある一室にで行われている。
元々ほとんどものもおかれず、訓練にはちょうど良い広さのその部屋に、ラスが結界を張って簡易的な訓練場としたのだった。
「本日の訓練はここまでとします」
シュニアの一声で、場の緊張がほどけた。
「各自注意したことを次までに克服しておくように」
それだけ言うと、シュニアは部屋を出ていった。
その途端、ぐったりといった感じでその場に座り込むマリアとフィリーナ。
「つ、疲れました…」
「スパルタだとは思ってたけど、予想以上…」
疲労はあるが、けれどどこか何かをつかんだ様子の二人に対して、セシルはどこか浮かない顔で、そのまま黙って部屋を出ていった。
静まり返った部屋の中、マリアがぽつりと言った。
「最近セシル、元気ないわね」
マリアの発言にフィリーナもうなずく。
「やっぱり落ち込んでいらっしゃるのでしょうか」
「一人だけまだ基礎課題終わってないものね」
マリアもフィリーナも既に応用へと入っている。
その中で、セシルだけが一人出遅れていた。
「ねえ、フィリーナ。こういうとき、普通はどうやってなぐさめるべきなのかしら?」
困った、といった表情でマリアはフィリーナを見つめた。
長年母親以外の人間とは話したこともなかったマリアは、そういった人間関係に付随する話術的なものには疎かった。
本人もそれは自覚していて、故に年下ながら侍女歴の長いフィリーナを頼りとするのもしばしばだった。
だが、今回はフィリーナも名案は思い浮かばなかった。
「難しいですね。こういうのは、下手なこと言うと逆効果ですし…」
「フィリーナは姫様に仕える前からセシルのこと知ってたんでしょ?それを踏まえて何かないの?」
「いえ、残念ながら。マリアさんこそ、セシルさんから昔の話とか聞いたことないんですか?仲いいですし…」
「いいえ。セシルったら、小言はうるさいくらい言うけど、昔の話は絶対に口にしないのよね…」
セシルが明らかにその話題を避けているとわかってしまえば、マリアとしても無理に触れることはできなかったのだ。例えそれで言いようのない寂しさを感じたとしても。
そうですか、とフィリーナはうつむく。
「私の場合も、別に知り合いというわけではなかったんです。ただ私の家もセシルさんの家も、元々は没落貴族で…しかも三年前の戦いの折り、縁のあった上級貴族が皇太子殿下と敵対したせいで、そのとばっちりでどちらの家も爵位がなくなったんです」
両者はきちんと面識があったわけではなく、似たような境遇だと認識してだけだったのだ。
それに、フィリーナとセシルには大きな違いがあった。
「直接殿下に弓を引いたわけではないので今こうして侍女として働けているわけですけど、実際爵位も領地も手放すことになって、当時私の家はとても貧乏になりました」
一方でセシルの家は残った資産をうまく使うのと同時に、一族の中で優秀な者がいて、その者が継承権争い後に取り立てられた。
爵位はなくしたが、むしろ以前より財も権力も増したのである。
途中から大きく違う道を進んだ二人が、同じ人物に仕える事になるとは、ある意味皮肉と言えた。
「あ、別に僻んだりとかはしてないですよ。今まで一緒にお仕事をしてきて、セシルさんがちょっと不器用だけど優しい人だというのはわかってます。確かに昔つらかったときもありましたけど、貧乏で早く奉公にだされたおかげで、今こうしてマリアさんの相談にも乗れるわけですし…」
フィリーナはそう言ってほころぶように笑った。
そして同時に思う。今こうして笑えているのも、自分の主のおかげだと。
もし今も家族を人質に取られたままなら、こうして穏やかな気持ちで笑ってなどいられなかっただろうから。
フィリーナの明るい笑顔に、つられてマリアも笑った。
お互いの顔を見てくすくす笑いあったあと、そういえば、とフィリーナが言った。
「あのヴァイオラ様とセシルさんは、ちょっと似ているかもしれないです」
思わぬフィリーナのそんな発言に、マリアは眉を寄せた。
「どこが?確かにセシルはちょっと融通が利かないところがあるけど、あんなじゃじゃ馬娘じゃ…」
「セシルさん、ここに来るちょっと前まで学校に通っていたらしいんです。国立学院の、それも学年首席だったって聞きました」
国立学院は、入るだけでも超難関。
そこで主席など、生半可なことではとれはしない。
しかし、マリアはそのことに対しては意外に感じなかった。
「セシルなら不思議じゃないかもしれないけど…でも、なら今どうしてここで侍女をやっているのかしら」
「それは…詳しくはわからないですけど、やっぱり世間の目とか、いろいろあったんだと思います」
貴族でなくなっても、いろいろなものはついてまわる。
女がその他大勢の男を押しのけて頂点に立つことも、目ざわりと思われて不思議はない。
マリアは持て余すように自分の髪を何度も耳にかけつつ言った。
「そっか…。なら、ヴァイオラ様の気持ち、セシルならわかってあげられるのかな」
「そうかも、しれませんね」
それは、セシルのことを二人がわかってやれないという意味合いも含まれていた。
どれだけ本物に近い想像をしてみても、やはり体験することとは決定的に違うのだ。
外界から隔離されて生きてきたマリアと、社会の枠組みから逸脱しない場所で生きてきたフィリーナ。
二人は黙って、違う生き方をしてきた友に何もできない自分たちのふがいなさをかみしめていた。




