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よく勘違いをされるが、セラスティア・アロン・ルーエンダスという人物は、別に最初から今のように図太くふてぶてしかったわけではない。
幼少期の彼女は、どちらかと言えば内向的で、口数の少ない子供だった。
セラスティア、6歳の冬。
バシャンという音とともに、セラスティアはずぶ濡れになっていた。
肩にとどかぬ不揃いな髪から、ポタポタと水滴が落ちている。
ご丁寧に泥水であったらしく、唯でさえみすぼらしかったセラスティアの服は壊滅的だった。
上から降ってくるクスクスという笑い声。
誰の仕業かはわかっていた。異母姉かその乳兄弟の誰かだろう。
セラスティアの母は平民だった。公宮に奉公に出ていた彼女を大公が見初めたのだ。
けれどそれは、一夜の過ちというやつであったらしい。大公はその後セラスティアの母に見向きもしなかった。
それならそれでよかったのだろう。不幸だったのはそのたった一度で、彼女が身ごもってしまったことだった。
否応なく後宮の住人となった彼女は、けれどその身分故他の者たちから疎まれた。その心労が祟ったのか、セラスティアを出産してすぐに彼女は亡くなった。
一人残されたセラスティアを積極的に助けようとする者はいなかった。 そんなことをして他の愛妾たちに睨まれてはたまらなかったし、そんな危険をおかしてまで彼女を助けるメリットが存在しなかったからだ。
死なないように最低限の物だけが与えられる。
煌びやかな生活を謳歌する異母兄弟たちの横で、セラスティアは使用人以下の生活をしていた。
いつ頃からだったか、それまでセラスティアのことを無視していた異母姉たちが、彼女を執拗に構うようになった。
といっても間違っても可愛がるとは言えない方法で、である。
物を壊される・隠される、すれ違いざまには小突かれる、階段からは突き落とそうとされる。食事に虫やトカゲの死体を混ぜられたときもあった。
いろいろと相手によってバリエーションはあったが、総じて会う度指を指してクスクス笑い、酷い言葉が投げつける。
そして今回はこれである。
寒さ厳しいこの時期にずぶ濡れは堪える。
小さくくしゃみをした彼女は、さてどうしようと考えた。替えの服は洗濯したばかりで、まだ乾いていなかったからだ。
どんなことをされても、彼女は泣き叫んだりしなかった。
それは何をしても無駄だという諦めであり、自己防衛のためにだんだんと心の感覚を麻痺させていたからであった。
何より彼女は知っていた。
泣いても自分を助けてくれる人などいないことを。
案の定翌日セラスティアは風邪をひいた。
泥だらけよりはましだろうと、仕方なく生乾きの服を着たのだったが、やはり冬の寒さには勝てなかったのだ。
おそらく熱があるのだろう。朝からぼうっとしている。
そのせいでまんまと異母姉の襲撃にあった。
今度取り上げられたのは、指輪だった。セラスティアの母の形見だ。
ふらつく足取りで、異母姉の指定する場所へ向かった。
いつもなら簡単に諦めるのだが、その指輪は特別だった。
特に高価なものではない。贈り主と受け取り主のイニシャルが入っているシンプルな金の指輪だ。
母のイニシャルと、明らかに父大公のとは違うイニシャルが刻まれたそれ。母親の顔を知らないセラスティアが、母という人間が確かに存在したのだと唯一実感できるものだった。
呼び出されたのは公宮内に作られた小さな森である。
何代か前の大公妃の憩いのために作られたものだが、年月が過ぎ今では滅多に人は近づかない。
待っていたのは2番目と4番目の異母姉だった。確かこの2人は同母姉妹だったはずだ。
「やっと来たわ。犬の子のくせにのろまねぇ」
「仕方ないですわ、お姉様。犬は犬でも、媚びを売るしか脳のない、卑しい犬の子ですもの」
「じゃあその卑しい犬の子は、あの木に登れるかしら?」
どうして木なんかに、とセラスティアは思ったが、見上げて理解した。
葉が落ちた枝の間に、キラリと光る指輪があった。無くさないように指輪につけた紐が、枝に絡まっているらしかった。
セラスティアは木登りなど初めてだ。
大人に頼んでとってもらう方が安全に決まっているが、頼める相手などいはしない。
黙って木に手をかけた。
最初のうちはどうしていいかわからず、何度も何度も滑り落ちた。それを見て異母姉たちは声をたてて笑い、はやし立てた。
手の平は木の樹皮にこすれてぼろぼろになり、小さな爪にはひびが入った。
そのうちコツをつかんできて、なんとか上に登れるようになった。
段々と細くなっていく枝を慎重に移動し、ついに指輪を手につかむ。
(やった!)
そう思って気を抜いたのがいけなかった。
ぐらりと眩暈がして世界が揺れる。そういえば熱があったのだ、と思い出した。
セラスティアの体は地上へと落下した。
痛くて苦しくて、息ができなかった。
遠くの方で悲鳴と、走って遠ざかっていく複数の足音がした。
ドクンドクンと音がする。
右の太腿が特に痛い。
自分の中からどんどん血が流れ出ていくのがわかった。
死ぬのだろうか、とセラスティアは思った。
こんなことで、あんなやつらのために。
自分はこんな目にあって、こんな思いをするために生まれてきたのか。
セラスティアは、自分が誰にも必要とされていないことを知っていた。
そしてずっと幼いながらに考えてきた。自分が何のために生きているのかを。
死にかけている今になっても、未だにその答えは見つからない。
けれど…
(死にたくない!!)
何故だかはわからない。けれどひたすらそれだけを思った。
『ならばその命、助けてやろう』
もはや暗くなったセラスティアの視界の中に、一つの光が現れた。
最初は白だと思ったそれは、ゆっくりと様々な色に変わってゆく。
『その代わり、我らにそなたの力を貸せ。力持つ者よ』
(力なんてないわ。私は…こんなにも無力だもの)
死にかけているせいか、突然現れたそれに恐怖は抱かなかった。
けれど光の言う意味は理解できなかった。
セラスティアは一方的に蹂躙されるだけの存在だったからだ。
『それはまだ力に目覚めていないだけだ』
『そなたの中には巨大な力が眠っている』
『我らがその力を解放しよう』
『強くなりたくはないか?』
『生きたくはないか?』
セラスティアはコクリとうなずくと、光に向かって手を伸ばした。
まだ幼かった彼女には、その光は確かに、希望そのものに見えたのだ。
気がつくとセラスティアは、自分の部屋で横になっていた。
体に痛みもなく、熱も下がっているようだった。
服をめくりあげてみれば、右側の太ももの部分にうっすらと傷跡がある。
少しすれば完全に消えてしまいそうなそれは、夢のような出来事が事実であったと確かに知らしめるものだった。
『気がついたか』
突然聞こえた声に、セラスティアは辺りを見回す。けれど部屋には彼女以外誰もいない。
『ならばこちらへ…』
頭の中に直接響くような声。あの光の声だった。
「こちらって…」
意味がわからず混乱するセラスティアの頭に、不思議な映像が浮かんでくる。
それはどうやら、この後宮の外であるらしい。
一瞬セラスティアは戸惑い、けれど声の言うとおりに動いてみる事にした。
生まれてから後宮の外へほとんど出たことのないセラスティアである。中には知らない部屋や通路もあったが、それでも彼女は迷わず進んだ。
やがてたどり着いたのは、大きな扉の前である。
そこで頭の中の映像が途切れ、ようやくセラスティアは口を開いた。
「あの、助けてくださってありがとうございます。あなたたちは一体…」
『扉を開けよ』
『さすれば、わかる』
意を決してセラスティアは扉を押した。
普通ならば少女が押したところでびくともしないだろう巨大な扉は、いともあっさりと開いていく。
そこで見た光景に、セラスティアは息をのんだ。
『よく来た、力持つ者よ』
『我らはこの地を守りし獣』
『エンダスの七竜』
巨大な体躯、鋭い爪と牙、たたまれた背中の翼。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。それぞれの色の鱗におおわれた、七頭の竜。
それがエンダスを守る守護獣との出会いであった。
そして、セラスティアという少女にとって、確かな転機がおとずれた瞬間だった。




