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「謀られた、かもしれない…」
リニルネイアの侍女に聞こえないよう、小声でラスは呟いた。
リニルネイアが話をしたいから来てほしいと言われやってきたものの、肝心のリニルネイアは不在だった。
不在な理由も告げられず、ただもうしばらくお待ちくださいと言われるばかり。
それでもラスは、リニルネイアの侍女の言葉に従い、お茶をのみつつリニルネイアが戻るのを待っていた。
だが、もう一時間以上になる。明らかにおかしい。
このままでは夜明けまでここで茶をすすっていることになりかねない。
いい加減にけりをつけよう、とラスは思い立った。
「私をここへ連れてきたのは、私が皇太子宮にいると不都合だったからですか?」
単刀直入に切り込んだ。
というか、それ以外に理由が思いつかない。
「いくら姫様と半分血がつながっておられるとはいえ、あなたは所詮下賤の身。きちんと身の程をわきまえていただきたい」
リニルネイアの侍女は冷たくそう言った。もはや先ほどまではあった一応の礼儀さえもなく。
おそらく、本心はラスのことをずっと見下していたのだろう。
「答えになっていないわ。この際私の出自などどうでもいいの。リニルネイアは、あの子は将来エンダスを背負う子なのよ。その子に一体何を…」
「エンダスなど!リニルネイア様ほど素晴らしい方には小さすぎます。あの方には、もっとふさわしい場所があるのです」
恍惚としたような侍女の顔に、ラスは内心舌打ちした。
(これだから、嫌になる。あの子の周りは、狂信者ばかりになりやすいから…)
「リニルネイアは、今どこにいるの?」
それは聞かなくてもわかるような気がしていた。
それでもあえて、ラスは問うた。
「姫様ならば、今頃は皇太子殿下と結ばれていることでしょう」
それが決定的な一言になった。
ラスはそのまま部屋を飛び出し、急いで来た道を引き返した。
レグルスが事件の後処理を終えて自室に戻ってきたのは、かなり夜遅くなってからだ。
寝室の扉を開けた瞬間、レグルスは目を細めた。
暗闇に潜む、人の気配。いや、潜むことさえできていない。おそらく相手は完全に素人。
レグルスはそのままベッドに近づいてシーツをめくり、その中にいた者を捕える。
きゃあ、と甲高い女の声が響いた。
「何をしているんだ?」
レグルスは片手で相手を押さえ込み、もう片方の手でベッドサイドの明りをつける。
明りに照らされて浮かびあがったのは、薄紅色の髪。
そこにいたのは、リニルネイアだった。
大胆にも夜着姿で、レグルスの寝室に忍び込んでいたのだ。
リニルネイアはレグルスに捕らわれたまま、ぽつりと言った。
「驚かれていないんですね?」
「寝室に入り込んでくる女など、珍しくないからな」
レグルスは淡々としていた。
ラスが側室になるまでは、まさに入れ食い状態だったのだ。
だが、リニルネイアは別の意味合いにとったようだ。
「それは…セラ姉様のことですか?」
「あいつがそんなことをすると思うのか?」
レグルスは心底おかしそうに笑った。
ラスの赤くなった顔が思い出される。
レグルスとラスは、別に白い結婚というわけではない。
それなのにたったあれだけのことであの状態なのだから、ラスはその手のことを自分から仕掛けようなどと考えたこともなかったのだろう。
もしラスが夜中にレグルスの寝室を訪れたとしても、剣術の試合を挑まれるのが精々だろうとレグルスは思う。
まあ、そんな色気のない誘いに対しても、レグルスのほうはやぶさかではないのだが。
一方リニルネイアはレグルスの言葉に、やっぱり…と一人納得したように呟く。
今のレグルスの態度はリニルネイアの知るものとは少々異なっていたのだが、そんなことは気にはならなかった。
そして決意したように、彼女はレグルスをまっすぐに見つめた。
「私をあなたの妻にしてください」
その深い青の瞳を見て、レグルスはふっと笑った。
「何故だ?俺は一応おまえの姉の夫のはずだぞ?」
「お姉様は別に、あなたのことをお好きでないのでしょう?そんな夫婦の愛は不毛です。だったら、私がお姉様の代わりにあなたを愛します。私、最初に会ったときからあなたのことが好きなのです」
「ほう…」
レグルスはまるで思案するように、目を伏せた。
そしてさらにリニルネイアに問うた。
「あいつの代わりに、俺を愛するだと?」
「はい」
「それがおまえにはできると言うんだな?」
「はい」
リニルネイアははっきりとした返事をした。
彼女の情熱はそうさせるのに十分であったし、決意も固かった。
心が変わる様子のない彼女に、レグルスは低く笑った。
「あいつは相当、おまえに甘いようだな」
そう言ってレグルスはリニルネイアの頬に触れた。
そのまま顎を持ち上げられて、リニルネイアはレグルスの緑の瞳を間近で直視することになった。
リニルネイアはその輝きに思わず見とれ、夢見る様に目をとろんとさせた。
そんなリニルネイアを見て、レグルスはまた笑った。そして何かを話そうと口を開き…
タイミングが悪かったと言ったら、それまでだったかもしれない。
バタンと寝室の扉が乱暴に開かれた。
そこに立っていたのは、急いで皇太子宮に戻ってきたラスだ。
そして彼女の目に最初に入ったのは、ベッドの上で密着している自分の夫と妹。
ラスは自分の拳を爪が食い込むほど強く握った。
そして黙ってベッドのほうへ歩いて行く。
「とりあえず、一発殴らせろ」
そう言ってラスはレグルスの胸倉をつかみ、そのままその顔に拳を叩きつけた。
ラスの渾身の一発に、レグルスの体が吹き飛ぶ。しかも吹き飛ばされたレグルスの体が壁にぶつかってさらに大きな音をたてる。
突然のことで、リニルネイアはそれをただ見ていることしかできなかった。
次いでパシンと乾いた音が室内に響いた。
リニルネイアは自分の頬に走った痛みと熱に驚いた。
思わずその頬に手を当てる。
そして信じられない、という顔で目の前の人物を見た。
ラスがリニルネイアを叩いたのだ。
「…自分がどれだけ馬鹿なことをしているか、わかっているのか?」
ラスのその声は、怒りのせいか震えていた。
「な、何をするんです!?」
リニルネイアがキッとラスを睨みつける。
だが、ラスの強い視線に揺らぎはまったくみられない。
「叩いたくらいじゃ、わからなかったか?そんな格好で男の寝室に入り込んで、馬鹿以外のなんだっていうんだ?」
「ひどいわ…私や、レグルス様にまで暴力をふるって、その上馬鹿だなんて。私はちゃんと考えて…」
リニルネイアはひどく動揺していた。
彼女は今まで誰かに手をあげられたようなことなどなかったし、ここまで自分の考えを真っ向から否定されたこともなかったのだ。
まして今それをしているのが、現在は仲違いをしているとはいえ、ずっと自分を可愛がってくれていた姉なのである。
姿はともかく、ラスのその言動はリニルネイアが知らないものだった。
「いい加減しろよ。それは本当に自分で考えたのか?また誰かに泣きついて、よしよしと頭をなでられながら吹き込まれた考えなんじゃないのか?何もかも自分にとって都合がいいだなんてありえないんだぞ!自分の言動が、どれだけの人間を翻弄させることになるのか自覚しろ!」
「姉様は黙っていてください!これは姉様にはできない、私だからできることなんです!」
リニルネイアは必死にそう言いつのった。
その言い様はひどくラスの癇に障るもので、だから思わず言ってしまったのだ。
「ああ、そうかよ。そうだろうな。おまえはなんでもできるんだろうよ。選ばれた存在だからな。俺とは違って!!」
ポタリと、雫が落ちた。
それが涙だとラスが気付いたのは、彼女が自分の頬を伝うものに触れてからだった。
そして同時に、先ほど自分の言ってしまった言葉の意味に気付いた。
ラスははっと息をのみ、震える手をぎゅっと握りしめてそのまま部屋を飛び出した。
しんと静まった寝室。
そこで動いたのは、レグルスだった。
やや足元がおぼつかないが、扉へ向かって歩いて行く。
ラスを追おうとしているのだと、リニルネイアは悟った。
そして行こうとするレグルスに必死に取りすがる。
「あんなことまでされて、あなたはお姉様を選ぶんですか?あなたを愛していないお姉様を…。私の方があなたのことを好きなのに!あなただって私に…」
「俺のおまえへの接し方を優しいと思ったなら、それはお門違いだ。あいつが妙に気にかけているから、少々扱いを変えた。ただそれだけのことだ」
「そんな…」
「あいつの代わりがおまえに務まるだと?未熟すぎるくせに図に乗りすぎだ。身の程を知れ」
それはリニルネイアにとってあまりにも冷たく、そして残酷な言葉であった。
レグルスの言ったことをリニルネイアは信じられなかった。
だが彼の言葉が、態度が、視線が、それを真実だとしらしめる。
呆然とリニルネイアは呟いた。
「全部、嘘だったというのですか…?私のことなどなんとも思っていないと…?」
「あいつは言わなかったか?俺はこういう男だ。たった一人以外はどうなろうが知ったことじゃない。だから他の人間に対してはどこまでも非道にもなれるし、残酷なほど優しくもできる」
そしてそのたった一人は、今レグルスの前で震えている少女ではない。
レグルスはショックで涙を流すリニルネイアの顎に指をかけ、顔を上げさせる。
「おまえたち、他は全くだが、瞳の色だけは本当によく似ているな。最初に見た時は少々驚いたが…俺は本物以外に興味はないんだ」
それだけ言うと、レグルスは身を翻してそのまま部屋を去った。
レグルスの部屋から出てきたラスは、足早に自室へと戻ってきた。
部屋には誰もおらず、明りと言えば月明りぐらいだ。
ラスとしても元々暗闇には慣れており、またわざわざ明りをつける気分にもならなかったためそのままにしておいた。
ベッドに座り、ラスはため息をついた。
既に怒りは鎮まっていたが、代わりにあるのは後悔ばかりである。
「あ~もうマジでありえない。絶対馬鹿だろ、俺。つーか格好悪すぎ」
殴るだけ殴り、言いたいだけ言い、しかも涙まで見せて逃亡である。
特に最後の泣いて逃亡というところ。いかにも同情をひくためによくやられる手である。
自分が無意識にそんな行動をとっていたなど、ラスには許し難かった。
そしてもう一つ、気づいてしまったことがある。
元々ラスは、リニルネイアの暴走を止め、そして彼女を連れ帰るためにレグルスの部屋へ行ったのだ。
それが、あの光景を見て思わず頭に血がのぼってしまった。
レグルスを殴るのは、まあいい。いや、本当は立場的にはよくないのだが、一発殴るというのは前から決めていたことだったからだ。
だが、リニルネイアに対して、前までなら絶対に手をあげることなどできなかったとラスは思う。
リニルネイアの行動自体に怒りはしても、精々言葉でそれを叱る程度だったはずだ。
それなのに、思わず叩いてしまったのは…
(今更自覚するなんて、本気で阿呆か俺は…)
しかも、自覚したのは、あの寝室での光景を見た直後なのだ。
「あ~も~最悪」
片鱗は、確かにあったはずだと今ならばわかる。
自分の鈍さに、ラスは頭を抱えた。
「おまえもそう思うだろ?」
視線を向けることなく、ラスは無言で部屋に入ってきた男にそう言った。
男の綺麗な顔は、けれどラスが殴ったせいで片方だけやや腫れていた。
だが、どれだけレグルスの顔が酷いことになろうが、ラスの心に罪悪感はない。
またレグルスの顔を見ることなく、ラスは冷たく言い放った。
「言っとくけど、殴ったことは謝らないからな」
レグルスが何らかの思惑を持ってリニルネイアに近づいたことはわかっていた。
そして元々がどんな思惑であったにせよ、それがこの事態を引き起こした原因であることは事実なのだ。
「別に謝罪は求めていない。覚悟はしていたからな。…だが、まだふらつくぞ」
レグルスの声に怒りは無かった。むしろ少々面白がっているようにも感じられる。
だが、言葉の後半は本当につらそうな気配を漂わせていて、それに少しだけラスは胸がすく思いがした。
「当たり前だ。本気で殴ったからな。一発ですんだだけましだと思え」
ラスの力は一般の成人男性よりよほど上だ。
拳一つで体格のいい男でも一発で意識を飛ばす。
それを受けておいて、平然と歩きまわっているレグルスが規格外なのだ。
「あ~あ。一生言うつもりなんかなかったのにな…しかも傍から見れば、思いあう二人を引き裂く嫌な役だし」
そう言ってラスはまた大きなため息をついた。
先ほどの光景が頭を離れない。
ベッドの上で体を寄せ合う、レグルスとリニルネイア。
わだかまりなど、自分の胸の内にしまっておくつもりだった。
自分さえ黙っておけば、何もかも後は時間が解決してくれるはずだったのだ。
それなのに、いつのまにか、もっと違う感情がラスの中に芽生えていたのだ。
レグルスがゆっくりとした足取りでラスの方へと近づいてくる。
「何だよ?つーか今その面見せんな。また殴りたくなる」
ラスがそう言うと、レグルスは何を思ったかベッドの反対側へとまわり、そしてそのままラスと距離をつめるようにしながら座ったのだ。
ちょうど、ラスと背中合わせの状態になるように。
「おい、レグルス一体どういう…」
「顔を見せるなといったのはおまえだろうが」
「それって屁理屈…」
そこまで言って、ラスは途中で言葉を切った。
結局、レグルスは自分のしたいようにしかしない男なのだ。
もはや自棄になってラスは言った。
「…つーかおまえ、リナの側にいなくていいのかよ?」
「行っていいのか?」
レグルスに逆にそう問われ、一瞬ラスは言葉がでなかった。
本来ならば行かない方がいいに決まっている。エンダスのためには、それが正しい。
けれど…
「だっておまえ、リナのこと…」
「俺がここにいて、何か問題があるのか?」
ラスの言葉を途中で遮ったレグルス。
位置的に顔は見えないが、ラスはなんとなく、レグルスがいつもの不敵な笑みを浮かべているような気がしていた。
再び苛立ちそうになるラスだったが、ふと思ってしまった。
レグルスがここに来た理由は何なのか。
ラスを慰めに?…いや、レグルスに限ってそれはない。そもそもレグルスは原因の一人である。
ラスの弱みを握るために?…レグルスの興味はリニルネイアに移っている。ならば興味のない相手にわざわざそんなことをする必要などないだろう。
ラスの姿を嘲笑いに?…それが一番ありえそうな気がするが、そんなことをしたら今度こそ殴りかかる自信がラスにはある。
(いやまさか、わざわざもう一度殴られに来た、とかはないだろうな?性格最悪の上マゾとか、もう救いようがないぞ?)
そんなどうでもいい考えに力が抜けて、ラスはふっと息を吐く。
僅かながらの意趣返しのつもりで、自分の体重を相手の背中にかけてやる。
相手が心底性悪な男だとわかっているのに、背中に触れた体温は泣きたくなるくらい温かかった。
ラスはその温度を突き放すことができず、またレグルスもそのことに関しては何も言わずに、だが避けようとも動こうともしなかった。
しばらく両者はそのまま何も話さず、部屋の中には静寂が満ちた。
その静かさはどこか優しくさえあって、だからこそラスは、そのとき口を開く気になったのかもしれない。
「今から話すこと、別に聞き流してくれても構わない」
一応、そう前置きだけはしておき、もう随分前の話だ…とラスは話し始めた。




