35
「シュリエラ…」
現れたラスを見て、またもやシュリエラは呆れてものも言えぬ、というような顔をした。
「いや、だからゴメンって」
ラスは苦笑する。
シュリエラが呆れるのも無理はない。何せラスがここに来るときは余程暇を持て余しているか、何かにひどく悩んでいる時だからだ。
要するに、慰めとか癒しといったものをシュリエラに求めているわけである。
シュリエラがいい加減辟易しても、不思議ではない。
それでもシュリエラは、ラスを自分の寝床に連れて行ってくれる。
そこでごろりと横になり、ちらりとラスを見やった。
「シュリエラ、おまえってマジにいい女だよな。おまえが人間で俺が男なら惚れてるぞ」
ラスがそう減らず口をたたいても、シュリエラは眉ひとつ動かさなかった。
むしろイライラしている様子だったので、これ以上機嫌を損ねまいと慌ててラスはシュリエラの横に座り、その腹部にもたれかかった。
そうしてようやくラスはほっと息をつく。
「助かるよ、ホント。もうさ、正直どうしたらいいのかって感じだからさ…」
最近はラスの頭が痛くなるようなことばかりが起きているのだ。
帝国内部の不審な動き。そういえば、帝都での行方不明者についてもまだ解決していない。
エンダスでの異変。こちらはまだきちんとした確証はないのだが。
そしてリニルネイアと、レグルスのこと…
『あの子は特別だからね』
『そなたは────にすぎない』
『あんなの、ただの戯れだよ』
突きつけられる現実、足元が崩れていく感覚。
そして…
『セラスティア…』
引きとめるだけの力を持たぬ呼びかけ。
過去が追いかけてくる。
蘇ってきた記憶を振り切るように、ラスは軽く首を横に振った。
(これに関しては、ちょっとシュニアにも言えないよな…)
ラスはこの件に関して、あの強いようでいて案外繊細な親友と話すのは、ひどく酷であろうこともわかっていた。
できれば、触れさせたくないとラスは思っていた。
また、リニルネイアに対する感情は、ラス自身がきちんと決着をつけなければならないことだった。
それに自分を慕っている侍女たちに、こんな腑抜けた姿などさらせない。つきあわせてしまうシュリエラには申し訳ないのだが。
そこでラスはふっと思う。
そう言えば、情けない姿を見られたくない人物はもう一人いる。ラスの悩みの原因の一つ。
(どうしてだろうな。たぶん、一般的に考えて、相当酷いことをされているはずなのに…)
レグルスに関しても、ラスは自分の気持ちを持て余していた。何故かはよくわからないが、そうであることは自覚していた。いっそ何もなかったと、全部黒く塗りつぶしてしまえればいいのに。
もはやレグルスが以前と同じなのかはわからない。
けれど何故かラスの脳裏には、いつもの、あの不遜な男の変わらぬ笑みが浮かんだ。
(あいつにこんな姿見られたら、憤死ものだな…)
自嘲気味に軽くラスは笑った。
シュリエラの優しい体温に甘え、心地よい毛並みに顔を埋める。
いつのまにか、ラスはそのまま眠っていた。
ふと、シュリエラは顔を上げた。
腹に重石を乗せているので、本当に顔だけで、近づいてきた者を見やる。
けれどその来訪者の視線を受けて、騒ぐことなくまた元のように寝そべった。
来訪者は寝ている者を起こさぬよう、静かな声でぽつりと言った。
「無防備だな」
かなり熟睡しているらしい。
頬に触れ、軽く髪を梳いても少し身動ぎした程度だ。
今はあの意思の強い青の瞳は閉じられ、ただ美しいだけの顔がそこにある。
編まれることなく流された銀の髪が、その光景をどこか幻想的にさえ見せていた。
今ならば何をしたところで抵抗もないだろうと考えつき、彼はふっと笑った。
おもむろに顔を近づけ、おそらくまったく聞こえていないだろうその相手に、そっと耳元で囁く。
「早く気づけよ。じゃないと…」
他のことなど考えられぬよう、その自由に羽ばたく翼を折って、閉じ込めてしまいたくなるから…
「あ…」
目を覚ましたラスは、自分の頬に手をやった。
誰かに、触れられたような気がしたのだ。
「シュリエラ。もしかして、誰か来たのか?」
口に出してから、それがいかに間の抜けた発言であったか気付いた。
ここはシュリエラの住まいだ。
たとえ皇帝といえども、契約者でない以上、許可なく守護獣の寝所に立ちいる事などできはしない。
それが出来るのは…
(まさか、な…)
ありえない、とラスはその考えを否定する。
よく眠っていたから、夢でも見ていたのだろう。
だって、どこかおぼろげに覚えているあの手は、ひどく優しい手つきで彼女に触れていたのだから。
ビチェは店主から買い出しを頼まれていた。
必要な食材を買い込み、小さな体ながら一生懸命それらを運ぶ。
ビチェの顔はいつになく笑顔だった。
今日は気前のいい店主から少量ながら小遣いがもらえたので、ビチェはそれで菓子を買い、帰ったらそれを食べようと楽しみにしていたのだ。
「えっ…」
そんなビチェの前に突然現れた、ローブ姿の男たち。
いつだったか、同じような男に捕まりかけたことがあった。
自然、ビチェは逃げようと体をひるがえした。
けれどその小さい体は、あっさりと男の一人に捕えられてしまう。
背中に背負っていた食材が、ぽろぽろと道に転がっていく。
「な、なにすんだ!?」
そう叫んだところで、後頭部に走った衝撃と痛み。
そのままビチェの意識は闇へと落ちて行った。
いつものごとく、仕事を放り出して逃げた幼馴染を捕まえたアノンは、ずるずると引きずって強制送還を実行していた。
もはやその手つきも慣れたものだったが、そのときアノンはふと現在気になっている案件について、この幼馴染の意見を聞いてみようという気になった。
ニールはサボり魔ではあるが有能だ。
逆に有能だからこそ、サボっても後から取り返せてしまうため、懲りずに逃亡を繰り返すのだろうが…
何にしても、アノンとは違う視点でものを見ているニールなら、アノンが気がつかなかった部分を指摘できるかもしれない、と考えたのだ。
「ニール。おまえ、レグルスの側室についてどう思う?」
「ああ、妹姫とのことか?」
「…?何を言っている?」
返ってきたのが意外な答えで、アノンは少々困惑する。
逆にニールの方も、アノンと話があっていないことに気付いて首をかしげた。
「何って、今宮廷でもっぱら噂になってんだよ」
皇太子の側室と、麗しいその妹。
はたして皇太子が選ぶのはどちらか、と貴族たちがひそやかに噂をしているのだ。
「馬鹿馬鹿しい」
そう言ってニールの言葉をアノンは一蹴した。
アノンが聞きたかったのは、そのようなゴシップ好きの貴族どもの噂ではない。
先日の側室の発言が気にかかったアノンは、レイクウッド傭兵団と側室とのつながりについて独自に調査を進めていた。
だが、どれだけ調べてもあまりにも何も出てこない。
あのとき少し見ただけでも、傭兵団員の男と側室は親しそうであったというのに。
一応あのときのことはレグルスにも報告をした。
が、レグルスは好きにさせておけと言ったのである。
それどころか側室に関しては一切手出しをするな、と。
ことは世継ぎ問題にも影響するかもしれないと口をすっぱくしてアノンは言ったが、レグルスはそれ以上何をするでもないようだった。
レグルスのことであるから、そうそうまずいことはしないと思うのだが。
長い付き合いのわりに、アノンは未だにレグルスのことがよくわからないと感じていた。
そう言えば、とアノンは思った。
側室の侍女の中に、ことさらアノンに鋭い視線を向け対峙した者がいた。
おそらく主人の身の潔白を訴えようとしていたのだろう。
それが真実かどうかはさておき、あちらの主従はこちらとは違った信頼関係を築いているのだろうか、と柄にもなく考えてしまったのだった。
無礼な態度であったせいか、その黒髪の侍女が妙に印象に残っていた。
いかに優秀な頭脳をもつアノンでも、その侍女から自分がダメダメ呼ばわりされていることは考えつかなかったが。
余計な考えを振り払うように、アノンは軽く頭を振った。
側室の発言についてはもしや密会を誤魔化すため言ったのかとも思ったが、そうだとしても何のつながりも出てこないのはおかしい。
そこにはつまり、隠蔽の事実と、隠蔽しなければならないようなものの存在があるはずなのだ。
もしかしたら、ことは帝国の将来にも関わってくるかもしれない一件だ。
それなのに、とアノンは苛立ちに奥歯をぎゅっと噛んだ。
貴族連中はその手の噂を楽しむばかりで、真剣に問題をとらえようとはしない。
彼自身も侯爵家の御曹司であるのだが、この貴族どもの頭に花が咲いたようなおめでたさは理解しがたい。
「第一リニルネイア姫のほうは、レグルスの婚約者でもなんでもないんだぞ」
「いや、わかんねぇぞ。姉妹で同じ男に嫁ぐなんてよくあることだし、レグルスも妙にあの妹姫には構ってるみたいだからな…」
先日ニールが遠目ながら見た限りでも、レグルスはリニルネイアのことを気にかけているようだった。
しかも、彼女に宮を案内するため、そのあとの仕事をすべてとりやめたのだ。
もちろんそれらの仕事は後でレグルスがしっかりと埋め合わせをしていたのだが、それほどまでするなら可能性は高いと言えるだろう。
実際、貴族たちの中には、可能性を先読みして既にリニルネイアに取り入ろうとしている者もいるという。
「確かに、現在の側室よりもエンダス大公が溺愛しているという妹姫のほうが、政治的価値は高いだろうが…」
「だろ。なんかエンダスのやつらの中にも、そういう動きがあるらしいし」
ひょっとしたらひょっとするかもしれない、と少々意地の悪い笑みを浮かべるニール。
それを呆れたようにアノンは見ていたが、途中でニールのその笑みが固まるのを目撃する。
「それ、どういうことですか?」
聞こえたのはたおやかな女の声。
そして、どこか不穏な気配を感じさせるその微笑み。
その場に居合わせたのは、噂の側室の忠実なる侍女、シュニアであった。
「え、あ、シュニア殿!こんなところで会えるなんてこれはもう運命…」
ドゴッ!という音がした。
ニールの顔の真横で。
「ニール殿?」
にっこり笑いながらニールの名を呼ぶシュニア。
そしてパラリと、何か細かいものが落ちるような音。
シュニアの拳が壁にぶつかり、そしてその部分には見事なひびが入っていた。
「何を話していたか、包み隠さず教えてくださいますよね?」
目を白黒させたニールに、シュニアがさらにたたみかける。
「大丈夫です。他に誰もいませんから」
きっちり確認しての行動であったらしい。
ニールは素直に自分が知っていることをすべて話した。
この時ばかりはシュニアの迫力に負け、アノンも何も口出し出来なかった。
「そうですか。そんなことが…」
そう言ってシュニアは手を顎に当てて沈黙する。
そんな姿も美しい、などとニールは状況に似合わぬことを思っていたのだが。
「あ~シュニア殿?」
「なんですか?」
考え事をしている最中に声を掛けられたため、シュニアの声は非常に冷たかった。
それにもめげず、ニールは言葉を続ける。
「つまり、ですね。今俺はシュニア殿に情報を差し上げたわけですよね?だからその、ちょっとばかりお礼、的なものがあってもいいのではないかなぁと」
「………」
先ほどの声よりもなお冷たい視線が向けられ、ニールは慌てた。
「いえ、別にいいんですよ。あなたのためになれるというだけで、俺はもう幸せすぎて舞い上がって…」
「お礼、ですか…」
意外なことに、あのシュニアが考えるような素振りを見せている。
「シュ、シュニア殿!?」
ニールにしてみれば、言ってみただけという意味合いが強い発言だった。
だが、これはもしかしたらもしかするかもしれない、と彼の胸は否応なく高鳴る。
「そうですね、ではそこの壁の修繕の件お願いしますね。ああ、それから、私に好意をもってほしいのなら、少なくとも私の耳に入るような場所で、私の主を貶める言葉は控えていただけますか?」
ほころぶような、けれど有無を言わさぬ、その美しい笑顔。
ニールがそれに見惚れてぼうっとしているうちに、シュニアはすたすたとその場を去って行った。
と思ったら、シュニアは一度立ち止まって振り向いた。
「あ、お二方。どうかこのことは他言無用に。もしこの件が元で主に咎が及べば、私は何をするか…正直ちょっと自信がありません」
それだけ言って本当にシュニアは去って行った。
あれはどう考えてもいざとなったら実力行使にでます、という脅迫である。
しかも冷静に考えれば、体良く雑務まで押し付けられた。
さしものニールも、さぞや落ち込むだろうとアノンが半ば同情して幼馴染を見つめた。
「いやあ、怒った顔も美人だよな、シュニア殿」
ニールは全く懲りていなかった。
今日はいつもより間近にその顔が見られた、その上頼られまでしたぞ、と嬉しそうに言う始末だ。
おそらく壁のことについても、嬉々として後始末をしておくのだろう。
アノンがあの脅しに屈せず何かしようとしても、ニールがそれを止めるに違いない。そしてあの侍女は間違いなく、それをわかってやっている。
確かに見た目は綺麗だが、あんなに怖ろしい女、ニールの目には一体どう映っているのか。
「おまえ、本当に馬鹿だな…」
幼馴染にまで呆れられたニールの恋が叶う日は、はたして来るのだろうか?




