34
リニルネイアはラスの部屋を毎日訪れていた。
その訪問を仕方ないなという風に受け止めるラスだったが、リニルネイアの話の内容がレグルスのことばかりになっていることがどうしても気になった。
「それで、レグルス様ったら…」
いつのまに、レグルスの名を呼ぶようになったのだろうか。
最初は確か、皇太子殿下と呼んでいたはずなのに。
親善大使と言っても、ただ国の代表であるレグルスと話をするだけのために、わざわざ帝国にまで来たわけではないはずだ。
皇太子の側室というラスの立場上、あえて政治的なことは話さないようにしているという可能性もあるが、リニルネイアの性格ではそれはないだろうとラスは確信していた。
おそらく政治的な内容については、リニルネイアにつけられた補佐たちが担っているのだろう。
だが、はっきり言って、それではリニルネイアのためにはならない。
「お城のほうにも素晴らしい中庭があって、今度はそこを案内してくださるって…」
「リナ、さっきからずっと殿下の話ばかりだけど、お仕事のほうはどうなの?」
「あら、姉様。私とレグルス様と仲良くなることは、ひいてはエンダスと帝国の為になるでしょう?」
「リナ。私は私人としてではなく、国と国との話をしているの」
リニルネイアは、確かにエンダスの親善大使だ。
けれど、たとえリニルネイア個人がレグルスとどれだけ親密になっても、それは本当に個人的な話にすぎない。
公人としてのレグルスは、その程度で政策に手心加えるような、なまぬるい相手ではないのだ。
ラスはそれを、誰よりもよくわかっていた。
もちろんそれは、レグルスがラスの知っているレグルスならば、の話だが。
ラスの言葉に混じった僅かな苛立ちに気付き、リニルネイアは表情を暗くする。
「姉様は、私がレグルス様と仲良くなることに、反対なの?」
「そうは言っていないわ。ただ私は、それとこれとは話が別と言って…」
「嘘よ!姉様は私が羨ましいんでしょう?レグルス様が私に優しくしてくださるから!」
それは、生まれて初めて、リニルネイアが姉であるラスに対し、声を荒げた瞬間だった。
嫌な考えがラスの頭をよぎった。
「リナ、あなたまさか…」
キッとラスを睨みつけるリニルネイアの顔が、かつてラスに敵意を向けてきた宮廷の女たちと重なった。
(ああ、リナ。おまえやっぱり…)
半ば呆然とするラスを残し、リニルネイアは足早に部屋を出て行った。
一人残されたラスはポツリと呟いた。
「羨ましい、か…」
はからずもそれは、確かにリニルネイアの言うとおりだった。
多少彼女の言っていた意味合いとは異なっていたが。
「そんなこと、何度思ったかしれない」
それでも現実は変わらない。
どれだけ努力しても、強くなっても、変えられないものもある。
リニルネイアの気持ちは、おそらく本物だろう。
だが、レグルスのほうは…そう考えてラスは首を振った。
ラスの頭には、あのときの光景がまだ鮮明に焼き付いているのだ。
リニルネイアが出て行った扉を見てラスは苦笑する。
リニルネイアがあまりにもレグルスのことばかりを話すので、ついでに思い出してしまったのだ。
レグルスは、帝国にリニルネイアが来て以来、ラスの部屋を訪れていなかった。
ラスの部屋を飛び出したリニルネイアは、与えられた屋敷の自分の部屋に戻っていた。
いつもと違う彼女の様子に、リニルネイアの侍女は心配になって問いかけた。
「姫様、どうなされたのです?」
「姉様が、姉様がね。私にレグルス様と仲良くするなと、意地悪を言うの」
それはいささか曲解が過ぎたが、ラスの言葉はリニルネイアにはそう言っているように感じられたのだ。
リニルネイアがその大きな瞳からはらはらと涙を流す姿に、侍女はひどく胸を痛めた。
「おかわいそうな姫様。慕っていた姉君にそんな風に言われて、さぞやお辛かったでしょう。姫様、きっと姉君は意地になっておられるのです」
「それは、姉様が、レグルス様のことを愛しているから?」
ラスがレグルスの側室であるからには、その可能性は高い。
その場合、リニルネイアは姉の思い人を奪おうとしていることになるのだ。
そう考えれば、姉の言葉も不思議ではない。
「いいえ。姉君と皇太子殿下は政略結婚ですもの。結婚前は一度も顔を合わせたことはありませんし、愛情などありませんわ」
「そう、なの?」
「ええ、そうに決まっています。だってレグルス様は、姫様にお優しいのでしょう?それはきっと姉君と心が通じ合っていないからですわ。おそらく姉君は、皇太子殿下のことを愛しておられないながら、今の地位には未練があるのでしょう」
確かにリニルネイアの姉は、いつも冷静でいろいろな物事を割り切って考えられる人物だ。
結婚のことも、それが義務と思って嫁いだとしても不思議ではない、とリニルネイアは思った。
「それとも皇太子殿下は、思ってくれる女性をないがしろにするような不誠実な方なのですか?」
侍女にそう言われ、リニルネイアは慌てて否定する。
「い、いいえ!レグルス様は誠実な方ですもの。そんなことは絶対にないわ」
それは本当にリニルネイアの主観でしかなかったが、少なくとも今までのレグルスの態度は、彼女にとってはそう思えたのだ。
「ならば大丈夫ですわ、姫様」
侍女は主人を安心させるように笑う。
姉妹で同じ人物に嫁いだ例などいくらでもある。
そして嫁いだ先での地位に、その順番は関係ない。
リニルネイアの姉は寵愛を受けてはいても側室止まり。
けれどリニルネイアなら、誰からも愛されるこの美しい少女なら、いずれこの大帝国の頂点に君臨する男の横に立てるだろう。
美しい皇帝と、その横に寄り添う美しい自分の主。
夢のような一対を想像し、侍女はうっとりとした。
「それに、姉君は姫様と半分は血が繋がっているとはいえ、庶子です。そんな方より現大公妃の娘たる姫様を娶った方が、皇太子殿下にとっても後々良いことが多いでしょう」
そもそも大公の娘とはいえ、リニルネイアの姉は平民の子供だ。
生まれながらに選ばれたリニルネイアとは違うのだ。
そしてそのリニルネイアは、エンダスという小国に閉じ込めておくなどもったいない。
侍女はそう考えていた。
リニルネイアこそ、あの美貌の皇太子と結ばれるべきなのだ。
「…そうかしら?」
「ええ、そうですとも。皇太子殿下は、いずれ国を背負って立たれるお方。その孤独さは並ではございません。姫様が愛されることで、そのお苦しみを癒して差し上げてください」
無用な姉など、切り捨てて。
「そう…ええそうね。愛のない結婚など、不幸なことでしかないものね」
リニルネイアは思った。
レグルスには自分の存在が必要だ。そして愛ある自分たちの結婚は、エンダスと帝国をさらに深く結びつけるだろう。
いつか姉だってわかってくれるに違いない、と。
生まれた時から、真綿に包まれるように育ったリニルネイア。
常に誰からも守られた優しい世界で生きてきた彼女は、人の気持ちを疑うことも、世の中には自分の都合の悪いことだって存在するということさえ知らなかった。
レグルスは一人自室にいた。
彼は装飾品を納めておく箱に触れ、そこからあるものを取り出す。
金と、彼の瞳と同じ色の宝石が使われたイヤリングだ。
もう二つ揃うことはない、永久に片方だけのそれ。
それを手で包むように持ち、しばし眺める。
レグルスの頭に思い浮かぶのは、逃げる様に去ったラスの姿だ。
あのときの彼女はどのような顔をしていただろうかと考えて、自然とレグルスの唇は弧を描く。
「もっと悩めばいい」
悩んで悩んで、そうして気付けばいい、と彼は思う。
「俺は5年も前からそうしてきたんだからな…」
そう言って、レグルスは冷たいイヤリングに唇を寄せた。




