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「あ、兄上だ」
アルタイルが嬉しそうに声を上げた。
確かにそれは、皇太子レグルスだった。
別にここは彼の宮なのだから、いても全く不思議ではない。
どうやら仕事の途中らしく、側近の二人を引き連れて、真剣な面持ちで会話をしながら廊下を歩いて行く。
「セラ、リナ。僕ちょっと行ってくるね」
そう言って、アルタイルは兄のもとへと走っていく。
「兄上ー!」
アルタイルの呼び声に、レグルスが振り向く。
そして走り込んできたアルタイルをしっかりと受け止めてやる。その上そのままアルタイルを持ち上げて、肩にまで乗せてやっていた。
兄に構われて、アルタイルは楽しそうに声を上げた。
ラスも人のことは言えないが、レグルスもアルタイル相手には態度が著しく軟化する。
リニルネイアがふと言った。
「ねえ、セラ姉様。皇太子殿下って素敵な方よね」
離れた場所で展開されている兄弟劇を見つめながら、どこかリニルネイアの声には熱があった。
「それに、とってもお優しいし」
リニルネイアのその一言には、ラスは思わず眉を寄せた。
(それは…ちょっと賛同しかねるぞ、リナ)
むしろラスの認識は正反対だ。
鬼、悪魔、鬼畜、サディスト、傍若無人の傲慢男。
たぶんラスは、レグルスを形容するその手の言葉には事欠かないだろうと思っている。
まったくいい意味の表現がないのは、レグルスの人徳(?)であろう。
が、リニルネイアにそんなことを言えるはずもない。
「…そうね。有能な方ではあると思うわ」
ラスがなんとか言えたのは、その程度だった。一応嘘ではない。
が、リニルネイアはラスの意見をあまり必要とはしていなかったらしい。
「それに本当にお美しい方…。私、あの方に最初にお会いした時、見惚れて言葉も出なかったのですもの」
そのときのことを思い出したのか、リニルネイアの視線はぼうっと空中を漂う。
リニルネイアは正真正銘の箱入り娘で、あまり男性慣れしていない。
それを差し引いても、レグルスの美貌は年頃の少女がふらりと傾くのに十分すぎる。
(というか、あいつの長所はそれくらいしか無い)
ラスが素直にレグルスのことを称賛出来るとすれば、その剣の腕や優秀な頭脳、そしてきらびやかな容姿ぐらいなものだ。
だが同時に、リニルネイアの認識に大きな誤りが生じていることに気付かずにはおれなかった。
(まあ、いいの…か?)
おそらく公式な訪問ということで、帝国側も気を遣っているのだろう。
正直ラスとしては可愛い妹に悪い虫がついたようで気分がよくないのだが、国の代表同士の仲が険悪でどうにもならないよりは、親しく話せる程度には良いに越したことはない。
リニルネイアが不快に感じるような接し方をされるよりはいいのだろう、と無理やり納得することにする。
「姉様は普段、殿下とはどのようなお話をされるの?」
それはリニルネイアの純粋な興味だったのであろうが、その質問にはラスは内心非常に焦った。
レグルスとの会話の内容など、リニルネイアにはとても聞かせられない。
おそらく一般常識を蹴倒しているであろう自信が、ラスにはある。
(というか、一般的な皇太子と側室の会話ってどんなのだ?)
適当に話を捏造するために想像してみたが、焦っていてとっさにいい考えが思い浮かばなかった。
「そ、そうね…この国の将来のために、一緒に何をしていけばいいのか、とかかしら?今起こっている問題についての情報交換や対策とか…」
ラスの笑顔はややひきつっていた。
重ねて言うが、嘘ではない。
ちょっとばかりオブラートにくるんであるだけだ。
が、リニルネイアには意外だったらしい。
「一緒に花の咲く景色をご覧になったり、お茶をしつつ他愛のない話をされたりとかはしませんの?」
「…そう、ね。そういうことは、あまりないかもしれないわね」
襲いかかってくる刺客を共に倒したことはあるが。
第一レグルスと並んでにこやかにお茶など、ラスにとっては一体何を企んでいるんだと疑うしかないような状況である。
「そうなのですか…」
ラスの答えは、リニルネイアの期待には添えなかったらしい。
やや残念そうな面持ちである。
ラスの苦難の時間は、それ以上続かなかった。
噂されていたレグルス本人が、こちらにやってきたからだ。
「ね、姉様。こちらへいらっしゃるわ!」
近づいてくるレグルスを見て、興奮気味のリニルネイア。
これで会談などまともにできたのだろうか、とラスとしては非常に心配になる。
「…ええ、そうね」
ラスの返答には、力がなかった。
リニルネイアのような気分になるには、いささかレグルスの本性を知りすぎている。
(つーか、何しに来るんだ?)
とレグルスの行動一つ一つに疑惑のまなざしを向けざるをえない。
レグルスはまっすぐこちらに歩いてくる。
ついでに、小さなアルタイルはその後ろを小走りでとことことついてきていた。
「ようこそ、私の宮へ。ご連絡いただければ、お迎えに上がったのだが…」
すぐ側までやってきたレグルスは、リニルネイアに笑顔でそう言った。
どうやらやってきたのは、宮の主人として客人に挨拶をするためであったらしい。
リニルネイアの前だからか、レグルスの態度は礼儀をわきまえたものだった。
ラスへの態度とは、雲泥の差だ。
(あいつ、俺のこと本当に…って何考えてるんだよ。今考えるべきは、リニルネイアをどうレグルスの魔手から守るかだろうが)
レグルスの顔を見て頬を染めるリニルネイアを隣で眺めつつ、そんなことを思う。
確かに、この顔で優しく紳士的な態度をとるなら、それは女性の理想像そのものであるのかもしれない。
理想にするには、少々中身が暗黒すぎるのだが。
「この宮に関してはまだ不慣れだろう。よろしければ、私がご案内しようか?」
相変わらず笑みを浮かべ、リニルネイアだけを見つめたままレグルスが提案する。
が、そこでラスが待ったをかけた。
「殿下。そこまでお気をつかっていただかなくて結構ですわ。必要なら私が…」
アルタイルを軽く構う暇があっても、本来ならば仕事中のはずだ。
他国からの賓客をもてなすのは確かに重要だが、それは側室でリニルネイアの姉でもあるラスが請け負ってもいい部分のはずである。
時間的余裕を考えても、ラスの提案は受け入れられるだろうと思われた。
だが…
「私はリニルネイア姫に尋ねている」
(なっ!?)
レグルスの返答は、ひどく冷たかった。
言葉の内容そのものよりも、その言いようが。
しかもレグルスは、ラスの方を一度たりとも見ようとしないのだ。その視線の先にあるのは、常にリニルネイアである。
ラスとしては、あまりリニルネイアとレグルスを一緒にしたくないという思惑も確かにあったが、それでもほとんど善意の気持ちでの申し出であったのだ。
(こいつ、人がせっかく気を遣ってやってるのに…)
さすがのラスも、苛立つ気持ちを押さえきることができない。
確かに出過ぎたまねとも言えたかもしれない。
だが、いくらなんでも、あのような態度をとる必要はなかっただろう。
エンダスから嫁いだ側室が、実は皇太子と不仲であると認識されたら、エンダス側の心象が悪くなることにもつながるというのに。
あまりに不合理な態度のレグルスを再びラスは見つめたが、その視線がラスのほうにむけられることはなかった。
やがて、それまで沈黙していたリニルネイアが控え目に申し出る。
「あ、あの…もしご迷惑でなければ、殿下とご一緒したいです」
頬を染め、ややうつむきつつ、リニルネイアが言う。
その返答を聞き、レグルスが満足そうに笑った。
そうしてレグルスが差し出した手を、リニルネイアは少し気恥ずかしげにとったのだった。
どうしてだろう、とラスは思った。
悪い予感しかしない。




