30
翌日、ラスの自室の扉が開かれた。
だが、そこに立っていたのはラスの考えていた人物ではなく、薄紅色の髪をした予期せぬ訪問者であった。
親善大使たるリニルネイアとその一行には、滞在先として屋敷が一つ用意されている。
だから本来なら、そう簡単に皇太子宮にあるラスの部屋になど来られないのだが…
姉の住んでいる部屋を見てみたい、といきなりやってきた妹を見て内心ラスはため息をついた。
本来ならば事前に約束のひとつもしておくものだが、姉相手ということでリニルネイアも甘えていたのだろう。
エンダスでは公族の中でもリニルネイアは特別扱いで、他の兄弟たちから遠巻きにされていた。
ラスはその中では比較的リニルネイアと関わりを持っており、相手をしてくれるラスにリニルネイアも懐いていた。
実際ラス自身、リニルネイアを苦手に思ってはいても、彼女相手ではどうにも甘くなってしまう自覚はあった。
顔を合わせたくないと思うほど苦手なはずなのに、ついそのまま部屋に入れてしまうのだから、大概である。
リニルネイアは、エンダスから帝国までの旅の途中のことをよく話した。
生まれてからほとんど公宮の外に出たことがなかった彼女には、外の世界はひどくまぶしいものであったことだろう。
そしておそらく、リニルネイアはその気持ちを、仲の良かった姉に聞いてもらいたい気持ちでいっぱいだったのだ。
「それでね、姉様。ここに来る途中、珍しい蝶を見かけたの。思わず馬車を飛び出して追いかけてしまって…」
「まったく…リナは相変わらず、好奇心旺盛なのね。その調子で道中護衛の方たちに迷惑をかけていたりしないでしょうね?」
「まあ!そんなことしませんわ」
たしなめるようにラスが言えば、リニルネイアは子供のように頬を膨らませる。
ラスがその頬をつついてやると、リニルネイアは驚いて、それから弾けるように笑った。
妹のその様子を見て、ラスも声をたてて笑う。
そうして時間は和やかに過ぎて行った。
久々に姉妹で話ができ、名残惜しそうではあったが、それでもリニルネイアは笑顔でラスの部屋を辞していった。
「あの、申し訳ありません、姫様。差し出がましいことを申しますが、もしかして妹君と何かあったんですか?」
だから、侍女のマリアがそう問いかけてきたとき、ラスは思わず目を丸くした。
「ちょっとマリア…何言ってるの。失礼でしょ」
セシルは同僚の発言に慌てるが、ラスは笑ってそれを制止する。
「俺の態度、そんなにわかりやすかったか?」
ラスは苦笑して黒髪の侍女を見つめた。
「姫様の対応には問題はみられませんでした。でも、身内であるというのにあまりにも隙がないというか、完璧な姉という感じの対応だったので、何かあるのかな、と」
普段マイペースでのんびりしているように見えるマリアだが、案外人のことをよく見ている。
「そうだな…。確かに俺は、リニルネイアに対していろいろと思うところはある。でもそれを態度に出したことはないし、これからもそのつもりはない。俺が思っていることだって、別にあの子自身に非があるわけじゃないんだ。それに、なんだかんだ言って、リニルネイアが俺にとって可愛い妹であることには違いない。だからおまえたちも、そういうつもりでこれからもあの子に接してくれ」
ラスの胸中は複雑ではあったが、だからと言ってリニルネイアを害する気は一切ない。
それは侍女たちにも徹底してもらいたかったのだ。
マリアとセシルは互いに顔を見合わせ、そしてもう一度ラスの方を向いて、二人同時に深くうなずいた。
使いが来て皇太子宮に呼ばれたレックスは、とある一室で次の案内役が来るのを待っていた。
ラスが帝国に行くことになったため、傭兵団の代表としてエンダス公宮に出入りする機会の多いレックスだが、この宮はそれよりもかなり絢爛で、物珍しそうに部屋を眺めていた。
また、ラスが今ここで暮らしているのかという思いもあったのだった。
そこに現れたのは栗色の髪をした少女である。ラスの侍女フィリーナだ。
「レックス様ですね。お待たせしました。姫様のもとにご案内します」
そう言った少女の後にレックスはついていった。
彼は歩くたびにふわふわと揺れる栗色の髪から、どうしてか視線が離せなかった。
「あの、姫様とはエンダスでお知り合いになったのですか?」
何の会話もないのでは悪いと思ったのか、フィリーナは戸惑いがちに尋ねる。
彼女はラスから客人を迎えに行くように言われただけだったので、詳しい事情を知らなかったのだ。
「ええ、はい」
レックスの方もせっかく話かけてもらったのだからと、それに答える。
「どのようなご関係なんですか?」
それはフィリーナにとっては何気ない一言だった。
だがその質問に対しては、レックスは思わず沈黙してしまう。
ラスが自らの正体をどこまで話しているかわからなかったからだ。下手なことを言ってラスに迷惑をかけるようなことは避けたい。
実際は、フィリーナはラスからほとんどの事情を聞かされている。
だから本当のことを話されても一切問題はないのだが、そんなことレックスが知るはずもないのである。
沈黙したレックスにフィリーナは慌てる。
「も、申し訳ありません。余計なことをお訊きして。御気分を害されるようなことを言うつもりでは…」
「い、いえ。そのようなことは…」
そうして二人して恐縮してしまう。
フィリーナはフィリーナで、自分の言動が相手を不快にさせたのではないかと不安になっていた。
その上見目麗しい男性相手ということでひどく緊張しており、しかも初めてレックスを見た時から顔が赤くなっていた自覚があったため、もうまともに顔を上げられなかった。
レックスにはフィリーナがまるで怯える小動物のように見えていた。
彼自身自分の容姿の良さには自覚があり、人並み以上にもてて、女性の扱いには慣れていた。
しかし近寄ってくるのは彼の容姿に比例して、自分に自信があるタイプの女性ばかりで、フィリーナのようなタイプにはついぞ縁がなかったのだ。
それから先は両者沈黙を守った。
その奇妙な沈黙は、ラスの部屋に到着するまで続いたのだった。
「お、来たな」
やってきた部下を、ラスは笑顔で出迎えた。
「ああ、紹介しておこうか。こいつが俺の作った傭兵団を今率いてくれているレックスだ。レックス。彼女たちは俺の侍女で、金髪のほうがセシル、黒髪のほうがマリアだ」
セシルとマリアは、ラスの紹介に合わせて軽くお辞儀をした。
「あと、おまえを案内してきてくれたのがフィリーナだ」
案内役の少女のことを紹介され、レックスは再び栗色の髪の侍女を見つめた。
何故か同時に二人の視線が合い、そしてそのことに二人ともが動揺して再び視線を同時にそらす。
レックスの態度はどこかぎこちなく、フィリーナの方もよく見ると少し頬が赤い。
「レックス。おまえ、さ…」
意味ありげな視線を送るラス。
それに対し、レックスはいつもの冷静沈着さはどこへやら、妙に焦ったような対応である。
「な、なんですか?」
「いや、まあ、別にいいんだけどさ…」
それ以上ラスは追求しないでおいた。
先々のことはわからないし、なるようになるだろうと思ったからでもあった。
「さて、それじゃあ、話をしようか」
切り替えるためにそう言って、本題に入ることにする。
ラスは仕草だけでレックスに椅子をすすめた。
一礼して座ったレックスと、ラスは向き合うようにして対峙する。
「レックス。俺がいなくなってからの公宮内の動きはどうだ?」
ラスが知りたかったのはエンダスの内情だ。
今まではその公宮にラス自身がいたため不要だったが、今となっては潜ませている僅かな手勢だけでは心もとないのが現状だ。
レックスはラスとは違う独自のルートを持っている。
それを利用した新鮮な情報が、ラスは欲しかったのだ。
「おおむね変わった動きはありません。ですが、少々気になる噂が…」
「噂?」
「はい。なんでも大公の政治に反発するとある領地で、反乱があったそうなんです。しかし、その一件は上層部で秘匿され、一般には一切情報を漏らすことはなかった、と。ですがその反乱は僅か一日で収束して、その上一滴の血も流れなかったらしく…」
実際、大公が軍を動かした様子はない。
有事の際は必ずと言っていいほどお呼びがかかるレイクウッド傭兵団にも、何の知らせもなかった。
「普通ならありえないな。それに反乱の事実を完全に隠そうとするのは、いくらなんでも無理があるだろう」
たとえ大公の命令で緘口令が敷かれたとしても、人の口に戸は立てられない。
そうするよりもいっそ反乱の事実を公表し、首謀者を処罰して見せしめにした方がてっとり早くて効果があるだろう。
「ええ。ですから噂なんです。どう考えても不自然ですし、あったという事実も公式には記録されていませんから」
「レックス、おまえはどう思う?実際に反乱はあったと思うか?」
「…俺は、実在したと思います。火のないところに煙はたたないと言いますし、実際その領地には不穏な気配があったらしいですから。もっとも、今の大公の政治に対して不満を持っていない者のほうが少ないでしょうが…」
そう言ってレックスはラスの様子を見る。
今までは平気でエンダス大公の悪口も言っていたが、よくよく考えればラスにとっては実の父親に当たるのだ。
ラスは静かにレックスの話を聞いており、その表情は考えを巡らせているようではあったが、レックスの意見を聞いても特に変化は見られなかった。
「ただ、問題は大公がどのような手段を用いて反乱を終結させたのか、ということで…」
その方法は皆目レックスにはわからなかった。
金品の類で解決するにしても、まったくの無血でなどというのは不可能だろう。
そう考えていた最中、レックス、とラスは彼の名を呼ぶ。
「村の方は、今年の収穫の見込みはどうだ?」
突然変わった話題に、レックスは驚く。
村、とはレイクウッド傭兵団の団員達が築き上げ、現在その本拠地となっている場所のことである。
団員やその家族たちが、畑仕事をしたり、工芸品を作ったりしてつつましく暮らしている。
どういう意図があるのかとレックスは思ったが、とりあえずはその問いに答えた。
「おそらく、例年よりもいいものになるだろうと思いますが…」
「そっか…それはよかった」
そう言って笑ったラスは、けれどやはり何かを抱えているように、どこか浮かない顔をしていた。




