17
ラスは焦っていた。
未だかつてない状況に、頭が混乱している。
最後の砦は、長い付き合いの赤髪の侍女だけである。
ラスは祈るような気持ちで尋ねた。
「シュニア、つかぬことをきくが、あの腕輪を売りに来た商人のこと覚えているか?」
「商人ですか?確か四十代半ばぐらいの頭の薄い男性でしたよね」
シュニアが曇り一つない瞳でそう答えるのを聞いて、ラスはがくりと肩を落とした。
マルガレーテの処分は、彼女の身分を考え、表向きは静養と称して辺境の地にその身を移すことになった。
彼女にそそのかされた形のエレイナは、彼女の一族にその監督権がわたったが、おそらく一生表舞台に出てくることは無いだろう。
ラスの暗殺に協力したヴニーズ商会も、取り潰しとなった。
皇家への出入りが許される程であったというのに、あっけないものである。
商会のオーナーは最後まで頑なに関与を否定したが、つまらぬ言い訳だと誰も耳をかさず、オーナーはすべての私財を失うことになった。
皇太子の側室に呪物を売りつけた男など、なんとか極刑だけは免れたものの、入った者は二度と出て来られないと恐れられる、ネクロマーダ監獄に収監されることになった。
既にその男の身柄は監獄の中であるという。
ならばこいつは一体誰なんだ、とラスは自分の前にいるモノクル男を睥睨した。
ラスにあの腕輪を押しつけたのは、確かにこの男であったはずなのだが、誰に尋ねてもまったく違う人相の男だったと答えるのだ。あのシュニアでさえも。
誰も彼もがそんな反応で、ラスは自分の頭が変になったのではないかと、本気で気分が悪くなった。
「記憶を操作する方法など、いくらでもありますよ」
悪びれもなくロッソが言った。
事件後、当たり前のようにラスの部屋にやってきたロッソ。ラスはその姿を見た瞬間、シュニアに命じてロッソを椅子に縛りつけにした。
侍女三人娘はその様子を、やや引きつつも興味深げに見ていた。
ロッソは動揺するでもなく、いつものように嘘くさい笑顔である。
しかも、どこかで聞いたようなセリフである。が、某侍女と違い本当に実行している分、真実味がありすぎて背筋が寒くなる。
「ロッソ。おまえ本当は、ヴニーズを潰すためにここに来たのか」
商会のオーナーが必死に否定していたのは、本当に何も知らなかったからだろう。
それもそのはずだ。ヴニーズ商会の人間になりすました男が、勝手に宮廷内の陰謀にヴニーズ商会を巻き込んだのだから。
もっとも、人々の記憶と同様、ロッソがヴニーズ商会の人間として働いていたという事実は、綺麗さっぱり抹消されているだろう。
かわりに残っているのは、本当のヴニーズ商会の者が宮廷の一部の者と手を組み、悪を成したという“事実”、そしてそれを裏付ける証拠であろう。
「原因は、例の魔石の加工技術か?」
それ以外、ロッソとヴニーズ商会の関連はない。
ロッソが発明した魔石加工技術。
先日までヴニーズ商会が独占していたものである。
ラスの指摘に、ロッソは肩をすくめた。
「あの技術、実は完成直後に盗まれてしまったんですよ」
「らしくない失敗だな」
「ええ、まったく。ですから、私自身の手で始末してあげようと思いまして」
そのときのロッソは、嗜虐性を隠そうともしない、見る者をぞっとさせる微笑みを浮かべていた。
こちらのほうがロッソの本性に近いと知っているラスは、ちょっとばかりヴニーズ商会に同情したくなった。
魔石の加工技術は、それこそ喉から手が出るほどに欲しい代物だっただろう。だが、この男からそれを盗み、あまつさえそれで利益を得るなど、自殺行為に等しい。
ロッソに本気で睨まれて、未だこの世に存在しているのは、ラス唯一人だけなのである。
だが、盗んだのはヴニーズ商会だ。その咎は、どんな形にしろ受けるべきだろう。
むしろ今回はヴニーズ商会という組織が消滅しただけで、誰かが死んだというわけではないのだから、被害は軽微であったと言える。
ラスは大きく息を吸って吐いた。
「つまり、俺で実験するのは、ついでだったというわけだな?」
とんだ貧乏くじである。
「ついでだなどとは心外です。むろん私は、あなたに我が研究人生のすべてをささげています。今回収集したデータをもとに、今後さらなる進歩を…」
「いや、全然嬉しくねーから」
回数を重ねるごとに、確実に危険度は増してきている。
ラスは、そのうちこの男に殺されるのではなかろうかと、たまに本気で心配になる。
「あ、そうでした。実は今日伺ったのは渡したいものがあったからで…」
ロッソは今思い出したとばかりにそう言った。
どうやらそれは懐に入っているらしく、縛られている状態では当然手は届かない。
一瞬困ったような顔をしたロッソを見て、思わずラスはざまぁ見ろと思った。
が、何故かあっさり縄は外れて床に落ち、それとほぼ同時にロッソはすっと立ち上がる。
「おい…」
ラスは半目でロッソを見た。
縄の切り口はまるでナイフで切られたかのようだった。どこにそんな刃物など仕込んでいたというのだろう。
ロッソはそんなラスを気にする様子もなく、自分の懐から紙束を取り出す。なかなかに分厚い。封筒などに入れていないうえ、今まで縛られていたせいか微妙に紙がくたびれている。
「はい、これです。では、これにて失礼します」
ラスに紙束を押し付けると、ロッソは部屋を出て行った。
半分呆然としているラスに、シュニアは申し出る。
「ラス。追いかけて、一応本当に出て行ったか確認しておきます」
「頼むよ、シュニア…」
またどこかで騒ぎを起こされてはたまらない。
疲れた様子のラスから許可が出て、シュニアは主人の頭痛の種を追った。
「ロッソ」
ほどなくシュニアはロッソに追いついた。
声をかけてきたシュニアを見て、ロッソはその歩みを止める。
「あなたですか。いいんですか、主人のもとを離れて?」
「退出の許可は得ました。…あなたに尋ねたいことがあったので」
「ほう。しかし今回のことについてなら、もはや私が答えるべきことはありませんよ。第一、あなたは今回の件に関して、主人との記憶の食い違いがあるはずです」
ロッソは薄く笑いながらシュニアに言う。
「それとも、明らかに周囲のものとは違う彼女の言葉を、すべて鵜呑みにするつもりですか?」
「ラスが言うなら確かだと思いますから、もちろん信じます」
シュニアは迷わず即答した。
彼女の答えにロッソは少し驚いた様子であった。
「ほお、相変わらず大した忠誠心ですね。それとも友情ですか?少々行き過ぎている気もしますが…」
「歪んでいるあなたよりはましです」
嘲るようなロッソの言葉に、シュニアはきっぱりと言い切った。
シュニアにとってラスは主人であり、友人である。
比較すればやはり主従関係のほうが強い、とシュニアは思っているが、それも状況による。シュニア本人も、自分の気持ちがごちゃ混ぜになってよく分からなくなることはあるからだ。
それでもシュニアの心には一本筋が通っている。絶対にラスを見捨てたりしない、と。
だが、この男は違う。どこか歪んでいる。それもかなりひどく。
シュニアはそう思わずにはいられない。
彼女は静かに尋ねた。
「魔石の加工技術。本当ならどこの商会に持ち込むつもりだったんですか?」
「さあ?特に決めてはいませんでしたよ」
ロッソはいけしゃあしゃあと言うが、これは嘘だろう、とシュニアは思った。
実は数年前、ラスはとある商会を立ち上げたのだ。むろん偽名で、であるが。
傭兵団の運営には金がかかるし、物資も必要だ。その目的のためにつくられたものだったが、今はなかなか手広く商売をしている。今度は宝飾品部門に力を入れて行くらしい。
この商会が出来た時期と、ロッソが魔石の加工技術の研究を始めたのはほぼ同時期なのである。
「今回の件で宝飾関連を中心に様々な部門を独占していたヴニーズ商会は消えました。これは他の商会にとって、邪魔者が消えてくれた、ということですよね」
「わかりませんよ。結局は経営者の手腕次第でしょう、商売なんてものはね」
そしてその商会のオーナーはラスである。
むろん現場で経営の指揮をとっているものがいるのだが、問題があるようならラスが最終的に口を出す。よほどのことがない限り下手な手は打たない。
そのうえ魔石の加工技術。
これがあれば、まさに鬼に金棒だろう。先ほどロッソがラスに渡していた資料が、シュニアの頭をよぎる。
しかも、今回の事件でエレイナとマルガレーテという、ラスに敵対していた者二名を排除することができた。
すべて偶然。そんなことがあるわけがない。
どこまでがロッソの計算の内だったのか、シュニアにはわからない。けれど、この男が裏で暗躍しているのは確実だった。
ラスが苦手にしているロッソを切れないのは、何も研究の犠牲者が増える事を心配しているばかりではない。
ロッソが動くと、様々な問題をおこすくせに、最終的にプラスマイナスすればプラスになるのだ。
「ロッソ。私はあなたが嫌いです」
絶世の美女にそう言われても、ロッソは身動き一つしなかった。
「そうですか、残念ですね」
そう言いつつ、まったく残念そうではない。
さらに続けられた言葉こそ、彼の本音だっただろう。
「私は嫌いになるほど、あなたに興味は持てません」
シュニアはひやりとしたものを感じずにはいられなかった。
では誰にならば興味があるのかなど、聞くまでもないことである。
「あなたは一体、ラスに何を求めているんですか?」
ロッソはただの研究馬鹿ではない。
ラスを追いつめるような仕掛けを施しながら、彼女の助けになるものも用意している。
今は後者の方が勝っているが、どうしてロッソがそんなことをするのか目的が見えず、またそれが今後どう変化していくのかはわからない。
シュニアの知る限り、ロッソがラスに抱いているのは、友情でも恋情でもなく、もちろん忠誠心でさえない。
なのにどうして、一体何がロッソをここまでさせるのか。
「…答える義務はありませんね」
シュニアの問いには答えず、そのままロッソは皇太子宮を出て行った。
なんにしても、とりあえず危険な男は去ったのである。