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人が来る前にラスは部屋に戻った。
去り際にレグルスが呟いた一言が妙に気になっていた。
「これで約束が二つになったな」
約束が二つ。
(意味わからん……)
一つはわかる。剣の手合わせだ。
もっとも一応姫君なラスが剣をふるうところなど、万が一にも知られては問題だ。
影武者やら暗殺者と疑われては大いに困る。
やるなら機会を慎重にうかがう必要があるだろう。
だが、もう一つの方にラスは心当たりがなかった。
戦場ですれ違ったことはあったかもしれないが、はじめてレグルスと直接顔をあわせたのはガルダ帝国に来てからである。
何かと勘違いをしているのか、それとも……
「シューリエーラちゃーん!あーそびーましょー!」
ラスは温室に入り扉を閉めると、大きな声でそう言った。
まるきり子供が近所の友達を遊びに誘うようなセリフである。
がさがさと茂みの中から現れた白い虎。
それはいつものことながら優雅な動きであったが、心なしか呆れたような表情をしているように見えなくもない。
正妻でないラスには、正式な公務もない。つまりは時間を持て余していた。
姫君らしくおとなしく手芸でもするような性格でもない。新しく来た三人の侍女たちの手前、部屋で本を読んだり、お茶をしたりはしているものの、ときどき息抜きにふらりと出歩いたりしていた。
向かう先はとは言えば、あの温室である。
レグルスに遭遇する可能性が高いはずだが、不思議と今までかちあったことは無かった。
最初シュリエラはラスを警戒して、なかなか近づこうとはしなかった。
それをずっと追いかけまわし、一方的に話しかけ、時には餌で釣ったりもした。
シュリエラが吠えようが噛みつこうとしようが、動揺することなくひらりとかわし、何度も何度もラスはアタックを続けた。
そのうちシュリエラの方が根負けした。ラスが側に近づくのを許すようになった。名前を呼べば、自分から顔を出してくれるようにも。
ラスは久々に勝った!と思った。
シュリエラには気に入りの昼寝場所がある。
ごろりとそこに横になったシュリエラ。その腹の横に、ラスは座った。
「まあ聞いてくれよ、シュリエラ。戦争に負けて元敵国に人質として送られて、旦那は傍若無人で節操なしだわ、ここの女たちはこぞって嫌がらせをしてくるわ、故郷からついてきてくれた侍女は冷たいわ。ひどい扱いじゃないか?考えてみれば母親は俺が生まれてすぐ死んで、自分の力でやってこなきゃいけなかったし。あ~自分で言ってて思ったけど、俺って結構苦労してるよな?」
話の内容は大体愚痴である。
(まあ、あの男のことはまだよくわからないんだけどな……)
きまぐれなのだ、と周囲はレグルスのことをそう言う。
確かにそういう面もあるのだろう。しかし決してそれだけの男ではない、とラスは思う。
有能であるが故に、きまぐれといいつつどんな思惑をもって行動しているのか、さっぱりつかませないから怖ろしい。
同時に、彼自身がもつカリスマ性。
若干14歳の少年が皇太子になるには、周囲の後押しがどうしたって必要だ。彼がただの傀儡でないことは、現在の辣腕ぶりが証拠であろう。
それに女関連や少々奇抜な行動を除けば、レグルスの臣下たちの評判は悪いものではない。その業績で民からも慕われている。
戦士として共感できるものがあった。
が、その言動がいろいろと謎を呼び過ぎて、いやがらせと合わせてラスを精神的に疲弊させる原因にもなっていた。
ラスの疲れた気持ちが伝わったのか、話の内容に同情したのか。
もしかしたらどける方が面倒だと思われただけかもしれないが、ラスが腹の上に乗っても珍しくシュリエラは怒らなかった。
ラスの行動は動物に精神的癒しを求めるそれと同じだった。本来なら恭しく奉られる守護獣に対して、非常に無礼な行いである。
シュリエラも許容しているし、他にばれていないなら問題ないだろうと思う辺り、レグルスに劣らずラスも十分図太かった。
「ほんと、シュリエラは優しいよな」
(あいつらとはえらい違いだ……)
目を閉じたラスの脳裏に、よみがえる影。
それぞれ違う色を宿した、7頭の獣。
強くて弱くて残酷な彼ら……
「あーあ。名残惜しいけどもう行くな。来客があるらしいから」
最後にシュリエラの頭をなでる。
その手をぺろりとなめられ、なんだか元気づけられた気がした。
シュニアは少し困っていた。
たぶんこの状況は一般的に言い寄られている、というのであろう。
「君、美人だね。スタイルいいし、ほんとに俺好み」
癖のある金髪の男。
シュニアはそのところどころはねている髪を見て、イライラがつのっているのと合わせて、手にある花瓶の水をかけてやりたい気持ちでいっぱいになった。
騎士服姿の男相手に、しかも誰に見られるともわからない廊下で大立ち回りはまずいだろう。そう思ってぐっと我慢する。
しかしいい加減早くラスのところに戻りたいとシュニアは思った。なんでも客人が来るらしく、その応対もしなければならないからだ。
焦るシュニアをよそに、男はニコッと笑った。
笑うと余計に印象が幼い。
「失礼します、騎士様。主人の元に戻らなければいけませんので」
「君どこの人に仕えてるの?今のお給料の倍出すから、俺のところに来ない?」
その一言にシュニアはカチンと来た。
「お金で主人を変えるような不忠者になった覚えはありません。それに、もしもお給金がいただけなくても、地の果てまでだってあの方についていくと心に決めております」
「へぇ、君にそこまで言わせるなんて、主人は誰なの?」
「皇太子殿下のご側室、セラスティア姫にお仕えしております」
「……あっ!エンダスから来た例のお姫様か。だったらちょうどよかった」
君の主人のところに連れてってよ、と依頼してきた男にシュニアは目を丸くした。
シュニアが部屋に戻ると、客人はすでに訪れていた。見知らぬ朱色の髪をした男が立っていた。
ラスのほうは完全に姫君モードだ。当然シュニアの対応もそれに準じたものになる。
「ご苦労さま、シュニア。遅かったわね。何かあったの?」
「申し訳ありません、姫様。なんでも騎士団長を名乗る方に呼び止められて、姫様に会いたいとおっしゃられて……」
途中でまくことも出来ずに、結局連れてくるはめになったのである。
本来なら身元の分からぬ不審者を連れてくるなど、有能な侍女にあるまじき失態である。
そこで進み出たのはアノンである。
「侍女殿、その者の身元は私が保証します。どうぞ中へ入れてやってください」
シュニアはアノンを見、ついでラスに視線を移した。ラスがうなずくのを見て、渋々男を中に入れてやる。
「改めまして。お初にお目にかかります、セラスティア姫。皇太子殿下にお仕えしています、アノン・クエイクと申します。このたびはお目通りかない、恐悦至極に存じます」
「姫君。私はニール・ブロン。若輩ながらこのガルダ帝国の騎士団の団長を務めております。お見知り置きください」
「初めまして。セラスティア・アロンです。ご丁寧なあいさつ痛み入ります」
「いやぁ噂には聞いていましたが、やはりお美しい。まるで月の女神だ。殿下が気に入られるのも無理は無い」
「まあ、お上手ですこと」
この程度のお世辞言われ慣れているが、ラスはニールの言葉に嬉しそうに、けれど優雅さを忘れず声を立てて笑った。
「ですがあなたの侍女殿も本当に美しい。シュニア殿とおっしゃるのですか?廊下ですれ違った時、思わず声をかけてしまいました。先を急がれていたでしょうに申し訳ない」
「……いえ」
返答するシュニアの表情はいつになくかたい。
らしくないシュニアの様子にラスが助け船をだした。
「ニール殿。シュニアは唯一故国からついてきてくれた、心許せる私の友なのです。いくらシュニアを気に入ったからといって、私から取り上げないでくださいな」
「これは失敬」
話はそれで区切られ、ラスは本来の要件について切りだす。
「それで、皇太子殿下の側近お二人が、今日は何のためにいらっしゃったのですか?」
「それについては、私が説明いたしましょう」
ニールに代わり、アノンが言った。
「近々宴が催されることになります。我が帝国の建国の祖、アンタレス大帝の生誕祝いの宴ですが、セラスティア姫の歓迎も兼ねております。つきましては、その準備のことでご相談をと思いまして」
「なるほど。皇太子殿下に恥をかかせるわけにはまいりませんものね」
要するに、それなりの格好で出てもらわねば困るというのである。
「それにつきましては、商人の手配をしておきました。扱っているのはどれも一流の品ばかりですから、その中で気に入ったものを選んでください。もしも不安があるようなら、こちらから幾人か詳しいものを派遣しますが……」
「それには及びませんわ。ねぇ、シュニア?」
「はい、問題ありません。私どもだけで十分手は足りますわ」
ようやく調子を取り戻し、力の戻った声でシュニアは答えた。
「お気遣いありがとうございます。皇太子殿下にもそうお伝えください」
完璧なラスの微笑みを受けて、アノンとニールは黙って頭をさげ退室した。