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プロローグ

 エナレア大陸最大の国家ガルダ帝国、その東部地区は、激しい豪雨に見舞われていた。稲妻が空に乱舞し、三日三晩降り続いた雨は川を増水させ、多くの橋が流された。そうして、その流れがいつ自分たちに襲いかかってくるのか、と近くに住む者たちを戦々恐々とさせたのだった。

 その夜、雨は束の間降り止んでいたが、未だ星空は厚い雲のベールに覆われている。


 ガルダ帝国とその東の隣国、聖エンダス公国の国境にほど近い街道を、一台の馬車が走っていた。それを取り囲むように馬を走らせる護衛の姿が、そこに乗る存在がただの庶民ではないことを容易に想像させる。


 御者を除けば、そこに乗っているのはたった一人の少年だけだった。飾りは控えめであったが、品の良く、しかし質の高い衣服を身に着けていた。唯一の装飾品は幼い顔に似合わず大ぶりの、金細工に宝石が嵌まった卵型のイヤリングだ。宝石は少年の瞳の色と同じ、透明度の高い緑であった。

 少年の顔立ちは繊細で少女めいても見えたが、整った顔は利発そうで、将来女性に騒がれるであろうことは想像に難くない容姿であった。

 ただし、少年の表情は明るくなかった。何かを憂う表情はまるで芸術品のようでさえあったが。


 彼は病弱な母親を療養地まで見舞いに行った帰りであった。本来ならとうの昔に帝都に到着しているはずであったが、豪雨が彼と彼の乗る馬車を足止めしていたのである。


 夜の道をひた走る馬たちは、ぬかるんだ道を、泥を跳ねさせながら駆けていく。馬車のカンテラと護衛たちの持つ松明だけが、月の光も差し込まぬ暗闇にぼんやりと浮かび上がっていた。



 夜陰にまぎれて、忍び寄るものにも気付かずに……



 荒々しい馬のいななきと共に、馬車が不自然に止まった。帝都まではまだ距離があるはず。また、途中で休憩をとるなどという話も聞いてはいない。

 そう思った少年の耳に次に入ったのは、金属同士がぶつかり合う音であった。そして、複数のうめき声。

 それが何を意味するか知らないほど、少年は幼くはなかったし、無知でもなかった。


 しばらくして一瞬の静寂が広がり、そして乱暴に馬車の扉が開かれることで終わりを告げた。


「出ろ」


 そう言ったのは護衛たちの中には見たことのない顔だった。より正確に言うならば、相手は顔の下半分を布で覆っていたため、しっかりと確認できたわけではないが、どちらにしても、その態度から少年を守る者たちではないこと確実だった。


 少年は抵抗することなく馬車を降りた。

 外に出れば、見覚えのある者は総じて地面に倒れ伏し、ピクリとも動かない。


 暗闇が夜襲に一役買ったのだろう。

 皮肉にも、今更僅かに顔を出した月のおかげで、見たくもない光景が見えてしまう。


「第五皇子殿下でいらっしゃいますね」


 外へ連れ出されたのは顔を確認するためであったようだ。


「さすがは皇族、といったところですか。この状況でも落ち着いていらっしゃる」


 それとも状況が分からないほど愚かであられるのでしょうか、と襲撃者の頭らしき人物は薄く笑った。


「私が愚かであったなら、我が親愛なる兄君たちは、さぞや安穏とした日々を送ることができただろうな」


 まだ幼い容貌でありながら、少年は辛辣であった。


「豪雨にまぎれて橋を落とし、私の乗る馬車の進路を誘導して、夜陰に紛れて襲撃する。死体は盗賊あたりに襲われたように細工するのだろう。なかなか手の込んだやり口だ。だが時間と労力の無駄が多すぎる。賢明には程遠い」


 一の兄上あたりが考えつきそうな策だな、と少年は無表情のまま言ってのけた。


「…なるほど。さすがですな。ですがその賢明さ故に、あなたは命を落とすことになる」


 襲撃者がゆっくりとかざしたナイフが、月明りを反射して怪しく光る。


 少年はそんなときでも冷静だった。

 元々、自分の命にそれほど執着がある質でもなかった。彼は聡明であるがゆえに見えるものが多すぎて、それが逆に生の感覚を遠ざける。

 才に恵まれすぎた少年の魂を、この世に留める楔など存在しなかったのだ。

 毎日を漫然と生きるよりは、ここで散るのもいいかもしれない。少年は年齢に似つかわしくなく、そんなことさえ考えていた。


 ナイフが振り下ろされようとした、その瞬間。


「待ちな!」


 未だ満ちる闇の中、よく通る声が木霊した。

 風を切る音がした。矢が放たれたのだ、と気づいた時には襲撃者たちが地面に転がりうめき声をあげていた。


「な、何者だ!?」


 頭が震える声で、闇に問いかけた。まともに立っていられたのは、少年と頭だけであった。

 偶然ではない。狙ってやったのだ、と少年にはわかった。

 頭はとっさに少年を抱え込み、その首筋にナイフの切っ先を突き付けた。

 愚かなことを、と少年は思った。

 射かけられた数や方向からして、相手は複数。それもそれなりの人数だとわかった。矢羽根の形からして、帝国の正規軍ではない。月光の届かぬ道の脇の林に潜み、こちらに姿をとらえさせない。その手慣れた動き、おそらくは本物の盗賊だろう。

 ならば後ろの男が少年を人質にしたところで、意味などないに違いない。


「人の縄張りで暴れられたら困るんだよ」


 そう言って、一人進み出てきた者がいた。

 おそらくこの一団の首領であろう。

 フードを深くかぶっており、その顔はよく見えない。が、その声は意外にも高く、まだ若そうだった。背丈もあまりなく体つきも華奢だ。

 もしかしたら、少年より幾分年上なだけかもしれない。


 盗賊はそのまま少年たちのほうへ近づいてくる。

 頭が身を固くした。


「く、来るな!こ、子供がどうなってもいいのか!?」


「馬鹿か。そんな見も知らずのガキ、助ける義理はねえよ」


 至極その通りである、と捕らわれている身で少年は思った。

 少年の関心はもはや自分を捕まえている男にも、自分自身の命にも無かった。

 近づいてくる盗賊にひたすら視線を向けていた。


「来るな!本当に殺すぞ!」


「そうかよ!」


 盗賊は少年が盾にされていることに躊躇せず、そのまま勢いよく突っ込んできた。


 ぐいっと引っ張られる感覚。

 気付けば少年は自由の身になっていた。

 双方が交差した一瞬の間に、盗賊が少年を引きはがしたのだ。弾き飛ばされて地面に倒れそうになったが、なんとか体勢を立て直す。そのまま距離をとるために数歩下がった。好き好んで再び捕まりに行くわけがない。


 突っ込んできたときの勢いで、盗賊のフードが外れていた。 

 雲に覆われた月が、ようやくそのベールを脱ぎ、おぼろげながらも姿を現す。


 照らし出されたのは、艶のある白銀の髪。肩に届かないくらいのそれがさらりと揺れる。

 人形のような精巧な容貌でありながら、深みのある青い瞳に宿る光が、その持主の意思の強さを示していた。

 まるで生きた芸術品のよう。

 立ち姿も、その仕草一つでさえ、見る者の目を奪う。 


 少年は息も出来ずにその姿を見ていた。

 あまりにもタイミング良く差してきた光に、目の前の存在が月の祝福でも受けているのかとさえ錯覚しそうだった。

 短いはずのその時間が、少年にはひどくゆっくりに感じられた。


 あまりにも素早い動きで、頭は何が起こったのかわからなかっただろう。

 盗賊はそのまま目にも止まらぬ速さで反転しつつ剣を抜き、頭のナイフをはじき飛ばす。

 頭は武器も人質も失っていた。そのことに気付くと尻もちをついて、必死になって盗賊に乞うた。


「金ならやる!助けてくれ!」


 ついさっきまで少年へ接していたときの態度とは雲泥の差である。

 身も蓋もなく命乞いをする姿に、盗賊は嫌悪感を丸出しにしていた。


「おまえ、さっきこのガキにしようとしてたこと覚えてるか?」


「い、命だけは…!」


「うるさい」


 次の瞬間には頭は絶命していた。

 いつ切ったのかわからないほどの早業だった。

 永遠に黙り込んだそれを一瞥して、盗賊はさて、と少年に視線を向けた。


「どこの坊やか知らないが、帰るための伝手はあるか?」


「この領地の領主とは縁がある。そこまで連れて行ってもらえれば問題ない」


 少年はそう言いながら、左耳についたイヤリングを外した。

 金細工も宝石も一級品だ。片方だけでも十分に高価な代物だ。

 少年はそれを盗賊に差し出す。


「これを対価に領主の館まで送り届けてほしい」


「ほう。無頼のやからにそんな手が通じるとでも思ってるのか、お坊っちゃん?身ぐるみ剥いで売り飛ばすのが常套手段だぜ」


「見ず知らずの子供を思わず助ける、酔狂な相手になら通じるだろう」


 正義感で動くような相手ではないかもしれないが、少なくとも倫理観は持っていそうな相手だ、と少年は推察していた。そして義理堅そうな相手だとも。


 盗賊は繊細な顔立ちに似合わず、にやりと笑った。

 元々少年をどうする気もなかったのだが、そんな提案が出してきたことが意外で興が乗ったのだ。


「わかった。商談成立だ」


 そう言うと盗賊はイヤリングを受け取り、部下に指示を出しに行こうとする。

 離れようとする盗賊の服の袖を、少年は思わず掴んでいた。

 なんだよ、と盗賊はいぶかしげに振り返る。


「名前を、聞いておきたい」


「名前って、俺のをか?」


「ああ」


「なんでだ?」


「おまえが私の人生で初めて、名前を知りたいと思った相手だからだ」


「そりゃ光栄だ」


 盗賊は面白そうに笑った。

 そんな笑みにさえ、少年はしばし見惚れていた。

 ラス、と盗賊は言った。


「ラス・アロンだ」


「ラス…」


 少年は噛みしめる様にその名を呟いた。


「なかなか根性すわった坊やだな、おまえ。そうだな。もしもう一度会うことがあったなら…」


 そのときはおまえの名前を聞かせてくれ、と盗賊は言った。

 月光を背に輝きを放つ銀の髪と、穏やかに笑う深い青の瞳。その光景が自分の中に焼きつくのを少年は感じていた。




 運命的とさえ言える、夜の邂逅。

 この出会いが後の世に大きな影響を及ぼすことなど、誰もまだ知る由もなかった。




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