無の中の確信
ったく、ふざけんなよ。畜生が。
俺は唾を吐き捨てた後、よろよろになりながらも、ひび割れた道路の上を歩いていた。夕日に照らされ、淡い赤に染まった雑居ビルの中、どうする当ても無く、ただただ歩く。
「GATE」が無くなったというのは、道に迷ったことよりも深刻だ。三度目の発令で困惑していたせいで、端末が何処に消えたのか覚えていなかった。
あれは、一昔前で言う「携帯電話」。情報伝達をする大本の手段の一つだ。だから「GATE」一台で、殆どのことが出来てしまうのだ。それを無くした今、俺は無力に等しい。こうして陰気な街を彷徨うしかないのか。
「はぁ…」
帰りたい。俺は心の中でぼやいた。ぼやいたところでどうなるわけでもないのだが。そんな俺に呆れるように、烏の汚い鳴き声が聞えた。
いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。俺はアブソリュート・グラビティが解除されたことに安堵したと同時に、恐怖を覚えた。解除されたという事は、また発令されるかもしれないのだ。これまで年に一度だけ発令されていたのに、今年は三度も発令された。それだったら、また発令されると思っても、可笑しくはないはずだろう。可能性も十分ある。しかし当たり前だが、いつ発令されるか分からない。安全区域に避難するにも、「GATE」が無いので地図を開けない。おまけに、叩き付けられたおかげで肺が痛い。
胸をさすり、歩きながら思案していた最中、この世でもっとも聞きたくなかった音が鳴り響いた。耳を塞ぎたい衝動を堪え、全力で走る。
「『アブソリュート・グラビティ』が発令されました。速やかに安全区域まで避難して下さい」
四度目の発令。二度目の警告音が頭を揺らす。
いくらなんでも早すぎる!解除されてからまだ二、三時間程度しか経っていないだろうが!
そう思っても「現象」は待ってくれない。だから逃げるしかなかった。俺はあても無くひたすらに走る。上手く呼吸が出来ず、息苦しくなりながらも、無我夢中で走り続けた。
あの警告音を聞いた途端、俺は酷く動悸がした。原因は分かっている。三度目のアブソリュートグラビティの被害を受けたのだから、それ以外考えられない。あの体が浮くような感覚、叩き付けられた衝撃。忘れる筈がない。その体験が俺の心の中に、トラウマとなって植付けられたのだ。
走っていればいずれ安全区域に着くだろう。と根拠の無い理由を抱え、走り続けた。しかし辿り着かぬまま、魔の警告音が止んだ。
嗚呼、終わった。今度は死ぬかもしれない。ふとそんな事を思い、その場に立ち止まってしまった。いや、足が動かないのだ。さっきまであんなに必死で走っていたのに。まるで固まってしまったかのように重くて動かない。
「アブソリュート・グラビティが始動しました。逃げ遅れてしまった場合は、地面に固定された柱などにしっかりと掴まり、その場から絶対に離れ無いで下さい」
その数秒後、足が地面から離れ、身体が宙に浮いた。周囲の物体も同様に浮遊する。今度は無重力というやつなのだろうか。身体は宙に浮いているものの、引っ張られるような感覚はないし、身体自体その場に留まったままだ。柱にしがみ付かなくてもその場に安定する事ができる。どうやら力さえ入れなければ安全そうだ。
もしかして、前の現象より、規模は小さいのだろうか。これなら何とかやり過ごせる。小さな希望を見出したが、それもすぐに砕けた。
上をよく見ると、三度目の発令の被害によりできた道路やビルの瓦礫が、いつの間にか頭上を包囲していた。無重力とはいえ、力が加われば動いてしまう。つまり、瓦礫同士がぶつかり合って、気づかぬうちに上へ上へと移動してしまったのだ。
これはヤバイ。本当に死ぬ。瓦礫の一つ一つの大きさは、拳程度だが、そんなものがもし、大量に降ってきたらどうなる。想像しただけでもぞっとする。要は、解除されれば死ぬ。この空間から逃げないと、と思っていても周りも同じように瓦礫が浮遊していた。少なくともこの場の視界の範囲では、回避できそうな場所が無い。
今解除されたら確実に死ぬ。重力が向きを持ち、大きくなっても死ぬ。この無重力の状態の中でここから逃げ切らなくてはならないのだ。
だが現実は非情で残酷だった。
それまで軽かった身体が、急に重くなった。いや、重力が戻り、身体の「重さ」を取り戻しただけだ。反射的に上を見た。
「うわあああああああああああああああ!」
叫ばずにはいられない。瓦礫が急降下し、俺の頭上に降りかかってくる。咄嗟に目を瞑るが、何の気休めにもならない。
死ぬ。そう確信した。