アブソリュート・グラビティ
「『アブソリュート・グラビティ』が発令されました。速やかに安全区域まで避難して下さい」
アナウンスと共に警告音が鳴り響く。それまで些か賑やかだった都市に緊張が走る。
間も無くすると、都市からは人という生物が消えた。聞えてくる音は不快な警告の音のみ。何が起こるのか。それが分かっているからこそ逃げるのだ。
「アブソリュートグラビティが始動しました。逃げ遅れてしまった場合は、地面に固定された柱などにしっかりと掴まり、その場から絶対に離れ無いで下さい」
二度目のアナウンスで漸く不快音が消え、都市は静寂を迎えた。しかしただの静寂では、当然無かった。
音の無い地響きと同時に、辺りの空気に違和感が生じ始める。
勿論都市に人は居なかった。しかし逃げ遅れた猫がいた。アナウンスや警告音など理解できない、一匹の馬鹿な野良猫がいた。塀の上をのろのろと鈍臭そうに歩いている。彼はまだ事の異常さに気づいていない。ただ、妙に辺りが静かになったな、程度にしか思っていなかった。
何だ何だ。人間共が消えたと思ったら、いきなり変な音鳴らしやがって。耳が痛えぞ。全く強情で身勝手な動物だ。これだから人間は嫌いなんだ。奴らに飼われてる仲間達はそれを理解してないし、考える頭ってのを持ってない。哀れな奴らだな。
空を見上げると烏が一羽飛んでいた。何やら慌しそうに飛んでいる。少なくとも彼にはそう見えた。
ああ、アイツはこの街の鳥達を束ねている頭烏じゃないか。あの大きい翼からしてそうに違いない。一体何を急いでるんだか。まぁおれには関係ないか。それにしてもいいなあ、鳥は。あんな大きな翼があれば、何処にだって気軽に行けるじゃないか。おれだってその気になれば何処だっていけるけれど、流石に海の向こう側なんて行けない。でもあいつらはいけるんだ。嗚呼、いいなあ、いいなあ。おれも鳥になれたら良いのになあ。
彼は羨ましそうに空を眺めた。
「にゃあお」
暢気に欠伸を吐き、隣の塀に移ろうと跳んだ。まさにその瞬間、彼は鳥になったのだ。
あ、あれ。体が上手く動かないぞ。目の前に足場があるのにいつも通り飛び移れない。それどころか身動きが取れないなんて。どういうことだ。え、え。何だ。地面があんなに遠い。何かどんどん地面が離れていってる気がするぞ。
頭の悪い彼には分からなかった。地面が離れているのではなく、自分が地面から離れているという事を。
もももしかして、おれは空中に浮いてるのか?足を動かしても何の支えだって無い!そうか。おれは今飛んでいるんだ。鳥になったんだ!
徐々に彼の体は上昇していく。同時に周りの小石や枯葉、犬の糞や虫の死骸、財布の落し物や車でさえ地面を離れ宙に浮き始める。自分が鳥になったと錯覚し、興奮している哀れな猫は、周りの異変に気づいてなどいなかった。浮かれて足や尻尾をばたつかせる。楽しそうに鳴きながら。
しかし彼が九回目の鳴き声をあげた時、その翼は無残に引き裂かれた。
「にゃ~…あ゛っ」
刹那にして引き裂かれた挙句、そのまま猫は動かなくなった。同様に浮遊していた周りの物体も、叩きつかれるかの如く地面に減り込んだ。それほど酷くはない。たった数センチほどの被害だ。しかし有り得ない速さで物体は急降下した。突然上昇したと思ったら、突然降下したのだ。
それから淡々と上昇降下を繰り返していたが、大凡数分でそれも落ち着いた。都市は平静を取り戻した。少しの傷を残して。
「『アブソリュート・グラビティ』が解除されました。周囲の安全を確認し、異常が発見され次第、御近くの区役所まで連絡する様お願い申し上げます」
終わりを告げるアナウンスは、機械のように冷たく都市全体へと響き渡った。