第四話 優しい日々
あの日、現代の日本から別れを告げ、私は突然この国のスラム街へ生を受けた。
その頃の私は自分の意思はあるのに、ふちゃふにゃの赤ちゃんに生まれて色々と恥ずかしい思いをした。
でも生まれたての頃は良い意味で本能が強くて、ミルクをお母さんのふくよかな胸から飲むのも躊躇なく飲めたし自分で何一つ出来ないもどかしさを感じながらも受け入れることが出来た。
あの日、やっとの思いで目を開けると銀色の髪のお母さんが私をにこにこして見つめていて、頬に手を伸ばすとふわりっと笑った。
儚げな雰囲気を持ちながらも、芯の持つ人だった。
だったというのは、もう居ないからで…私を生んで7年経った時に、病気で死んでしまった。
もともと胸を病んでいたのと母は病床で笑った、そして私に穏やかな口調で語って聞かせる。
世界の理と父親のことを。
この世界は平らな平面で出来ていて、魔法と神獣が存在する。
何度も繰り返し、お母さんは話し聞かせてくれた。
そしてお父さんについても一緒にいることが出来なかったと言葉少なに話し、私の青灰色の瞳がお父さん譲りで…嬉しいと笑った。
「愛してたのよ、だから側にいられなかったの」と言って笑う、母はまるで何も後悔は無いようだった。
でもそうだとしたら何て遠いところに来てしまったのだろう。
あの日本という国から突然、飛ばされ…新しい親、新しい環境にめまぐるしく日々は過ぎていった。
そして私は気付いてしまった…どうしてか名前が思い出せないことに。
日本の情景を世界の情勢を思い出せても、両親の名前を思い出せない…自分の名前も思い出せない。
大切なものの筈なのに、無くしてしまった、知識はあっても記憶はない。
私はもう日本人じゃないと痛感したのだった。
そして私は昔の名前のかわりに新しい名前を貰った。
レクトフィリアと。
私は今、私を取り上げてくれた産婆のお婆ちゃんとカイルとで暮らしてる。
*****
会合を終えて、あれからカイルと連れ立って私は家に帰った。
広大なゴミ山を横に入った穴倉を1km程進んだ所にある貧民街だ、住居や闇市としてそれぞれに見合った穴が掘られそれぞれ機能している。これでも質はいいのだから驚きだ。
「婆ちゃん、只今!」
私たちが住むのは家と言っても5畳ぐらいしかない粗末な穴倉。
少し昔の日本の家の構造に似ている。
炎が部屋の中央の囲炉裏の中で燃えて、それが部屋を照らしている。
流石にそれだけじゃあ暗すぎるから燭台のように炎の魔法がかけられた燭台のようなものが壁に5つほどささっている。
その部屋で腰を少しまげたお婆ちゃんがカイルの声に反応して釜の前でスープを煮ている手を止めて、此方を振り返った。
「おう帰ったかい、食事出来とるよ」
カイルがニッと笑って、布靴をむしり取るように脱いで、草が敷き詰められた部屋に上がり私もそれに続いた。
「じゃあ俺たちも今日の稼ぎ」
といって右の手さげから細長いパン二つやクンガの実を出していく。
それにお婆ちゃんはしゃがれた声でわらった。歯が何本も欠けてるけど愛嬌のある皺くちゃの笑顔で。
「ほっほっ今日もまた凄いの」
カイルは褒められて嬉しそうだ、そして私の頭をくしゃっと撫でた。
「ほらっレクトも」
「うん、お婆ちゃんこれも」
といって私が肩からかけていた布きれを繋ぎ合わせたポシェットからカチャカチャとお金を出すと、ぎょっとお婆ちゃんは目をむく。
「孫たちが稼いでくれて大助かりじゃの」
あったかく紡がれた言葉に胸があったかくなった、そういってお婆ちゃんもカイルと一緒になって皺くちゃの手で頭を撫でてくれる。
お婆ちゃんの手が大好きだった。カイルの手も好き。
二人がいてくれるから、日々生きてける。
そんな些細な幸せで、私は確かに満足していた。
*****
「さぁ冷めないうちに食べんさい」
そして囲炉裏の火からイモルという主食をお婆ちゃんは木の棒で出してくれた。
地下ということもあり育てやすい白色のホクホクしたイモの一種で。とても甘い。
それを三人で頬張り、お婆ちゃんがまぜていたスープをすする。
そういえばと私はスープを飲んでいた手を止めてお婆ちゃんに聞いた。
「ねぇ神殿ってどこにあるの?」
お婆ちゃんは囲炉裏にかけられたスープを焦げないように混ぜながら首をかしげる。
「どうしてじゃ」
「教会の喜捨服を貰うんだよ」とカイルが言葉を続けた。
喜捨服は貧しい人に教会から与えられる羽織のようなもので、それを着ていれば上の階層にも足を踏み入れることが許される、貴族の屋敷の裏口にだって入って食事などを恵んでもらえるのだ。
だがそれには制限が勿論あって、300円ほど教会に納めなければならない。
スラム街ではそんな大金を稼ぐことすら出来ず飢えて死んでいくから、国が貧民を救うために行った喜捨服という制度は本当に必要な人には届いていないと言ってもいい。
ただ私たちは前々から稼いで貯金していたから喜捨服を貰おうと計画を仲間うちで立てていた。
それが今日、騎士団に追いかけられたことでカイルが腹を立て、意趣返しにシルヴェスト大将の屋敷へ喜捨を求めることにしたらしい。
お婆ちゃんはカイルの顔つきから何か察したらしいがふぅっとため息を零すと5階層じゃと返事をしてくれた。
それを聞いてカイルがニィッと快活に笑って、「レクト急いでご飯食べて行くぞ」と声をかけ、ゴクッとスープを飲み込んだ。そんなカイルを頼もしく感じながら私もほくほくのイモルをかじったのだった。
仲間たちには夕方の鐘が鳴ったら「道ゆく樹」の下でが合言葉だった。
そして思いかえせば、この日に出会った人、起こった事が私の今後を変える大きな流れだった。
この国が滅び、そして大勢の人々と別れた後も、この日のことを私は忘れたことはなかった。
繰り返し何度も愛おしい日々を思い出した…