安月給とは付き合えないと振られた俺、実はお前の会社の御曹司です
深夜2時の『吉牛』新宿東口店は、一日で最も賑わう時間帯を過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。カウンター席には終電を逃したサラリーマンが一人、もうろうとしながら牛丼を啜っている。キッチンでは私、龍神竜也が、次の朝の仕込みのために玉ねぎを刻んでいた。
「竜也くん、もう少しで終わりだね。今日もお疲れ様」
店長の佐藤が声をかけてくる。五十代のベテランで、この店で二十年以上働いている。
「はい、店長もお疲れ様です。あと、タレの在庫が少なくなっているので、明日の朝仕入れをお願いできますか?」
「おっと、気づかなかった。ありがとう。竜也くんがいてくれると本当に助かるよ」
私は微笑み、刻み続けた。玉ねぎの辛味が目に染みるが、もう慣れたものだ。この店でバイトを始めて一年。時給は950円。大学を卒業してからずっと、龍神グループの御曹司であることを隠し、現場の声を学ぶために全国の吉牛店舗を転々としている。
唯一の楽しみは、恋人・美優との時間だ。彼女とは大学時代から付き合って三年になる。龍神家の息子であることは告げていない。「将来のために貯金中」とだけ伝え、質素なアパートで暮らしている。
スマホが振動した。美優からだ。
『竜也、もうすぐ終わる? 今日、話があるの』
『あと30分で終わるよ。どうした?』
『じゃあ、店の前で待ってるね。大事な話』
私は少し不安を覚えた。美優のメッセージには、いつもと違う緊張感があった。
閉店作業を終え、店を出ると、美優が寒そうに腕を組んで立っていた。二月の夜風は冷たく、彼女の頬を赤く染めている。
「美優、寒いのにごめん。どうした? 何の話?」
美優はうつむき、しばらく沈黙した。そしてゆっくりと顔を上げた。彼女の目には、決意のような光が宿っていた。
「竜也……私たち、別れよう」
「……え?」
「真剣に考えたの。私、もう25歳だよ。そろそろ結婚のこと、将来のことを考えないと……」
「僕だって考えてるよ。今は貯金してるけど、そろそろちゃんとした仕事に就くつもりで……」
「時給950円のバイトから、いきなり安定した仕事に就けると思ってるの?」
美優の声には、冷たい現実が込められていた。
「竜也のことは好きよ。本当に。でも、好きだけじゃ食べていけない。私、結婚してまで貧乏生活はしたくないの」
私は言葉を失った。喉が詰まり、何も出てこない。
「竜也はいつも『そのうち』って言うけど、その『そのうち』がいつ来るの? 私、もう待てない」
「美優……」
「ごめん。でも、これが現実なの」
美優は涙を浮かべていたが、その決意は揺るがなかった。彼女は小さくうなずき、くるりと背を向けて去っていった。私は凍りつくように立ち尽くし、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
翌日、私は何もする気力がなく、アパートでベッドに横たわっていた。スマホをいじると、美優のSNSが更新されていた。
写真には、美優と見知った男性が笑顔で並んでいる。その男性は、美優の会社の先輩・拓也だ。彼女が「仕事ができるカッコいい先輩」と憧れていた人物である。
キャプションにはこう書かれていた。
『新しい始まり。理解し合える人との出会いに感謝。年収800万円でも傲慢にならないところが素敵です♡』
私の心臓が激しく疼いた。年収800万円――私の時給950円のバイトとは、比較にもならない数字だ。
さらにスクロールすると、共通の知り合いからのコメントが並んでいた。
『美優さん、おめでとう! やっぱり安定が一番だよね』
『拓也さん、社内でも評判いいし、本当に良かったね』
『時給950円のバイト男より、ずっとマシだよ!』
私はスマホをベッドに投げつけた。画面にひびが入る音が、部屋に響いた。
その時、私のスマホが鳴った。表示されたのは「父」だった。
「竜也、そろそろ遊びは終わりにしないか」
父・龍神剛一の声は、いつものように威厳に満ちていた。
「現場の声は十分学んだだろう。本社に戻り、副社長としてグループの再建に当たってほしい」
「……わかりました」
「特に、子会社の『ドリームフーズ』の業績が悪化している。お前が立て直しに当たれ」
私は息を飲んだ。ドリームフーズ――それは美優が勤める会社だ。
「どうした? 何か問題でも?」
「いえ……ありません。任せてください」
電話を切ると、私はゆっくりと立ち上がった。窓の外には、東京の夜景が広がっている。無数の光が、無数の人生を照らしている。
「美優……拓也……」
私はそっと呟いた。
「教えてやるよ。本当の『現実』を」
一週間後、私は龍神グループ本社の副社長室にいた。三十階建てのビルの最上階から見える景色は、新宿の雑踏とは別世界だった。
最初の経営会議で、私はドリームフーズの改革案を提出した。
「ドリームフーズの業績悪化は、人員の過剰と非効率な業務プロセスが原因です。まずは人員整理から始め、その後で業務のデジタル化を推進します」
取締役たちがうなずく。誰もが、創業家の御曹司である私の意見に逆らえなかった。
「まず、第一弾のリストラ対象者を発表します」
私は名簿を読み上げ始めた。その中には、もちろん、拓也の名前もあった。そして――美優の名前も。
「これらの社員は、今月末をもって解雇とします。業界内に適切に情報を流し、再就職が困難になるように手配してください」
「しかし副社長、そこまでする必要が……」
ある取締役が口を挟んだが、私は冷たく言い放った。
「温情は不要です。非効率な人材は、即座に切り捨てる。それが龍神グループの流儀です」
会議後、私は人事部長を個室に呼んだ。
「特に、この二人については注意深く扱ってほしい」
拓也と美優の写真を差し出す。
「彼らがどんなに必死に次の仕事を探しても、決して雇わないでください。そして、他の企業にも適切に『情報』を流してください」
「……かしこまりました」
人事部長の目には一瞬、困惑の色が浮かんだが、すぐにうなずいた。
その夜、私は匿名で吉牛のバイトを続けていた。店長の佐藤が心配そうに声をかけてくる。
「竜也くん、最近元気ないね。彼女とどうかした?」
「……別れました。給料が安いから、未来がないって」
「なんだって……! あの娘、そんなこと言ったのか!」
佐藤の顔が紅潮した。
「竜也くんは、この店で一番真面目で、一番仕事ができるんだぞ! 時給なんかで人を測るなんて、とんでもない!」
「ありがとうございます、店長。でも……彼女の言うことも一理あるのかもしれません」
「ばかもの! 人の価値は金じゃ決まらん!」
佐藤の言葉に、私は胸が熱くなった。これが、父が私に学ばせたかった「現場の声」なのかもしれない。
翌月、ドリームフーズではリストラが実行された。拓也と美優は同時に解雇通知を受け取った。
美優はすぐにSNSを更新した。
『突然の解雇……でも大丈夫。拓也さんと一緒なら、どこだってやっていける。新しいスタートだね!』
しかし現実は甘くなかった。拓也はすぐに再就職活動を始めたが、どこからも内定が来ない。業界内で「龍神グループからお払い箱になった」というレッテルが貼られていたからだ。
美優もアルバイトを探し始めたが、かつて「時給950円のバイト」と馬鹿にしていた仕事さえ、簡単には見つからなかった。
「なんで……どうしてどこもダメなの!?」
ある夜、美優が拓也に泣きながら訴えているのを、私は偶然カフェで目撃した。二人は私の存在に気づいていない。
「お前のせいだ! お前があのバイト男と付き合ってたから、龍神グループに睨まれたんだ!」
「そんなことないよ! 竜也なんて、ただのバイトだよ! 龍神グループの御曹司なんかじゃない!」
「でも事実として、俺たちは業界で干された! もうどこにも就職できない!」
拓也はテーブルを叩きつけ、立ち上がった。
「もうダメだ。お前とは別れる」
「え……? 拓也さん、そんな……」
「金も仕事もない女と、これ以上付き合ってられるか!」
拓也は財布から千円札を一枚取り出し、テーブルに投げつける。
「これでお前とは終わりだ。二度と近づくな」
彼はそう言い残し、店を出ていった。美優は一人取り残され、声を上げて泣いていた。
私はそっと席を立ち、彼女のテーブルに近づいた。
「美優」
彼女はゆっくりと顔を上げた。目は泣き腫れ、化粧は崩れていた。
「竜……也……?」
「久しぶり。大丈夫?」
「なんで……なんでここに……?」
「たまたまです。でも、話は聞きました」
私は向かいの席に座った。
「大変ですね。でも、人生ってそういうものです」
「竜也……ごめん、あの時は……私が悪かった……」
美優の涙が再び溢れ出した。
「あなたは真面目で優しくて……時給なんか関係ないって、今ならわかる……」
「ありがとう。でも、時給は関係ありますよ」
私は静かに言った。
「時給950円でも、一生懸命働く人の価値は、年収800万円で人を見下す人よりずっと高い。私はそう思います」
「竜也……」
「ところで」私は続けた。「再就職、大変そうですね」
「うん……どこにも雇ってくれない。なんでかわからないけど……」
「わかりますよ」
私は名刺入れから一枚の名刺を取り出し、テーブルに置いた。
龍神竜也
龍神グループ 代表取締役副社長
株式会社ドリームフーズ 代表取締役社長
美優の目が見開かれた。彼女は名刺を見つめ、また私の顔を見つめ、そして再び名刺を見つめた。
「え……? これ……冗談……?」
「冗談ではありません。私は龍神グループの創業家の息子です。ドリームフーズを含む、すべての子会社の経営責任者です」
「そんな……でも……あなた、吉牛でバイトしてた……」
「現場の声を学ぶためです。そして、そこで出会ったのがあなたでした」
美優の顔から血の気が引いていった。彼女は震え始めた。
「じゃあ……リストラも……拓也さんの再就職も……」
「全て私の指示です」
私は冷たく言い切った。
「あなたが言ったでしょう? 『時給950円のあなたとは未来がない』って。その通りでした。私とあなたには、未来はありませんでした」
「ごめん……ごめんなさい……許して……お願い……」
美優は机に額をこすりつけるようにして謝罪した。
「私、何でもするから……もう一度チャンスを……」
「チャンスはありません」
私は立ち上がった。
「でも、一つだけ教えてあげましょう。本当の強さとは、他人の収入や肩書で人を判断しないことです。あなたはその最も大切なことを、私との別れで教えてくれました。ありがとう」
「待って……竜也! お願い!」
私は振り返らずに店を出た。背後で美優の泣き叫ぶ声が聞こえたが、もう私の心には何も響かなかった。
その一ヶ月後、龍神グループは大規模な記者会見を開いた。吉牛チェーンの刷新と、新メニュー「特盛・復讐丼」の発売を発表するためだ。
会場には全国のメディアが集まり、カメラのフラッシュが絶え間なく光る。
「本日は、龍神グループの新たな挑戦についてお知らせします」
私は壇上で宣言した。
「まず、吉牛チェーンを全面刷新します。店舗の改装、従業員の待遇改善、そして――新メニューの導入です」
スクリーンに、真っ赤なパッケージの牛丼が映し出された。
「その名も『特盛・復讐丼』。通常の牛丼の三倍の量で、価格は1.5倍。我々の『顧客への恩返し』の精神を込めた商品です」
拍手が湧き起こる。
「そして、この商品の広告キャンペーンとして、ある人物を起用しました」
スクリーンの映像が変わる。そこに映し出されたのは――洗車場で必死に働く拓也の姿だった。彼はすっかりみすぼらしい格好になり、汚れた作業服を着て、車を洗っている。
「この方は、元ドリームフーズのエリート社員でした。しかし、傲慢さと他人を見下す態度がたたり、全てを失いました。今では、一日中車を洗う仕事で生計を立てています」
会場がざわめく。
「我々のメッセージは明確です。人の価値は、肩書や年収で決まるのではありません。誠実に働くこと、他人を尊重すること――それが本当の価値です」
記者たちが一斉に質問を浴びせる。
「龍神副社長! そのモデルを起用した理由は?」
「再就職が困難になった元社員を、なぜさらし者に?」
私は冷静に答えた。
「これは『さらし者』ではありません。『教訓』です。私たちは皆、この方の姿から学ぶことができる。傲慢さがどれほど人を落とすか、誠実さがいかに大切かを」
その夜、私は吉牛の新宿東口店を訪れた。改装された店は明るく、清潔で、客で溢れていた。
店長の佐藤が笑顔で迎えてくれた。
「副社長! いや、竜也くん! すごい人気だよ、あの『復讐丼』!」
「店長、ずっと『竜也くん』で呼んでください。ここでは、ただのバイトですから」
「ははは! でも、あの広告……あの男、元エリート社員だってね」
「ええ。でも今は、ただの洗車作業員です」
「人の価値は金じゃないって、竜也くんが証明してくれたよ」
佐藤の目には涙が光っていた。
「あの時、彼女に振られた竜也くんが心配でならなかった。でも、今の竜也くんを見て、俺は思うよ……あの別れがあってよかった、って」
「私もそう思います」
私は窓の外を見た。街には無数の光が輝き、人々が行き交っている。
美優は今、生活保護を受けながら細々と暮らしていると聞いた。拓也は洗車場の仕事を続けている。二人の人生は、あの別れの日から完全に変わってしまった。
でも、私の人生も変わった。もっと大きく、もっと強く。
スマホが振動した。父からのメッセージだった。
『よくやった。あの広告キャンペーンは少々過激だったが、効果は絶大だ。お前は立派な経営者になった』
私は微笑み、返信した。
『全ては、現場で学んだおかげです。これからも、従業員と顧客を第一に考えた経営を続けます』
店を出ると、夜風が心地よかった。私は歩き始めた。次の店舗へ、次の課題へ――誰の評価も気にせず、ただ自分が正しいと信じる道を進むために。
ふと、私はあの日、美優に言われた言葉を思い出した。
「時給950円のあなたとは未来がない」
彼女は正しかった。私と彼女には、未来はなかった。
でも、私自身には未来がある。時給950円のバイトから始まり、今では数千億円の企業グループを動かす立場になった。
人の価値は数字では測れない。でも、もし測るとしたら――それは、どれだけ誠実に生き、どれだけ人を思いやり、どれだけ逆境に耐え抜いたかで測るべきだ。
私は空を見上げた。星が見えない都会の空でも、月は確かに輝いていた。
「さあ、明日も一日頑張ろう」
私はそう呟き、歩みを進めた。長い夜が終わり、新しい朝が始まる。
あとがき:
この物語をお読みいただき、ありがとうございました。
他にも牛丼屋関連の話を連載していますので、もしこの話がお気に召しましたら、ぜひ下記の作品もご覧いただければ幸いです。
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世界を救った元英雄、記憶を失って異世界で牛丼屋になったら、教え子だった現勇者たちが泣きついてきたんだが?
引き続き、読者の皆様の心に残る物語をお届けできるよう努めてまいります。これからも応援よろしくお願いいたします。




