自伝小説 氷点下のアンビエント part5
一話完結のお話です。
小学校五年生から高校三年生まで。
約八年間、僕は一人の女性を想い続けた。
Kちゃん。
中学の三年間は同じクラスだった。
頭が良くて、美人で、誰にでも優しかった。
高校進学の時、彼女は地域で一番の進学校へ進んだ。
僕はというと、なんとか名前だけは進学校と呼ばれる高校に滑り込んだ。
それでもKちゃんのことを忘れた日はなかった。
高校生活は特に何もなかった。
友達とくだらない話をし、授業を受け、部活もせず、ぼんやりと毎日を過ごした。
相変わらず僕は女子と話すのが苦手だった。
同じクラスのAちゃんによく話しかけられた。
活発でボーイッシュな女の子だった。
ある日、Aちゃんが興奮気味に言った。
「こないだCちゃんがさ、水泳のあと水着を変なヤツに触られたんだって!」
「マジかよ! ヤベーな変態は!」
そう言いながら、僕の頭の中には別の感想が浮かんでいた。
Cちゃんの水着か……。
ちょっと触ってみたいかもしれない。
高校生男子なんてそんなものである。
Kちゃんへの想いは本物だったが、煩悩まで消えたわけではなかった。
そんな感じで、日々は過ぎていった。
そして高校卒業の日が来た。
僕は音響関係の専門学校へ進学することになった。
風の噂では、Kちゃんは関西の大学へ進むらしかった。
その話を聞いた時、胸がざわついた。
このまま終わるのか。
八年間好きだった人に、何も伝えないまま。
小学校五年生から高校三年生まで。
八年間。
人生のほとんどすべての青春時代だった。
このまま片想いのまま終わっていいのか。
何日も悩んだ。
考えた。
眠れない夜もあった。
そしてある夕方、意を決してKちゃんの家へ電話をかけた。
受話器を持つ手が震えていた。
「はい、Kです」
懐かしい声だった。
「あ……」
声が出ない。
「もしもし?」
「ひっ……久しぶり! Jです!」
「Jくん? 久しぶり。どうしたの?」
「あの……話したいことがあるから、明日の三時、~公園に来てくれない?」
ムードも何もない、近所の古びた公園だった。
「わかった」
それだけ言って電話は終わった。
受話器を置いた瞬間、心臓が破裂しそうになった。
翌日に備え、母親との買い物のついでに口臭スプレーまで買った。
人生で初めての告白だった。
頭の中はそれだけだった。
地面を歩いているのに、足が浮いているような感覚だった。
そして当日。
ニューバランスのスニーカー。
リーバイスのジーンズ。
黒いシャツ。
自分なりの精一杯だった。
公園に着くと、Kちゃんはもう来ていた。
三年ぶりだった。
少し大人びた雰囲気。
柔らかそうな髪。
相変わらず綺麗な顔立ち。
胸が苦しくなるほど鼓動が速くなった。
周囲の道路から丸見えの公園だった。
通り過ぎる車。
犬の散歩をする人。
夕方の風。
すべてが妙にはっきり見えた。
そして僕は口を開いた。
「あ、あの……」
喉が渇く。
言え。
今しかない。
「あの……三年間、ずっと好きだったんだ。その想いだけは伝えたくて」
Kちゃんは少しうつむいて、
「うん……ありがとう」
と言った。
沈黙が流れた。
何秒だったのか。
何分だったのか。
覚えていない。
ただ一つだけ覚えている。
あの時、本当は続きがあったことだ。
喉元まで来ていた言葉があった。
人生を変えるかもしれない一言が。
付き合ってください。
たったそれだけだった。
たった七文字だった。
だが僕には言えなかった。
断られるのが怖かった。
笑われるのが怖かった。
今の関係さえ壊れる気がした。
そして僕の口から出た言葉は、
「それだけ伝えたかったんだ。じゃ!」
だった。
じゃ。
たった二文字。
人生を変える七文字の代わりに、僕は二文字を選んだ。
そして逃げた。
本当に逃げた。
公園の出口へ向かって歩いた。
振り返れなかった。
足を止めることもできなかった。
背中にKちゃんの気配だけを感じながら、僕は公園を後にした。
家に帰る途中、
これでよかったのか?
という思いが何度も頭をよぎった。
だがもう遅かった。
あの日は終わった。
そして青春も終わった。
それから何年も経った。
ある同級会でKちゃんと再会した。
昔話になり、僕は笑いながら言った。
「高校三年の時、俺、告白して振られたよな」
するとKちゃんは不思議そうな顔をした。
「振ってないよ」
「え?」
「だって付き合ってって言われなかったもん」
僕は言葉を失った。
Kちゃんは続けた。
「言われてたら、付き合ってもいいかなって思ってたよ」
その瞬間、全身を電流が走り抜けた。
驚愕した。
戦慄した。
そして理解した。
あの日の僕は、振られたのではなかった。
逃げたのだった。
人生を変えるかもしれない一言から。
付き合ってください。
その一言から。
もちろん、もし言えていたとしても、その後どうなったかは分からない。
すぐ別れていたかもしれない。
遠距離恋愛で終わっていたかもしれない。
結婚していたかもしれない。
そんなことは誰にも分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
人生には、たった一言で未来が変わる瞬間がある。
そしてその一言は、言わなかった瞬間に永遠に失われる。
僕にとって、それは高校三年生の春の夕方だった。
あの日、公園で言えなかった七文字。
付き合ってください。
人生で最も重かった七文字だった。
そんなKちゃんも、今では三児を育てる肝っ玉母さんになったと聞く。
そして僕は今でも時々思う。
人生を変える一言は、言える時に言わなければならないのだと。




