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崩れた顔を知るのは、お前だけだ  作者: リンコ


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3/3

3話 非常階段の沈黙

橘が、俺の方を向いた。

フードの奥の顔は逆光でよく見えない。ただ、目の位置だけがわかった。十年前の器材室で俺を睨んだのと同じ目だった。

橘の唇が動いた。

「……来るな」

声は掠れていた。叫ぶ力も、拒絶する力さえも残っていない声だった。

俺は動かなかった。

コンクリートの冷たさがジーンズを通して骨まで届く。橘の肩と俺の肩の間には、拳一つ分の距離があった。触れない。それ以上も離れない。

橘はもう一度「来るな」と言おうとしたのか、口を開きかけて——やめた。

フードを深くかぶり直して、膝を抱え直した。

俺もそのまま、動かなかった。

————

最初の五分間は、外の音だけが階段を満たしていた。

遠くを通る救急車のサイレン。風が鉄骨を揺らす低い唸り。どこかの換気扇が回る単調なリズム。

橘の呼吸は浅く、不規則だった。泣いた後のような、それとも泣く前のような——息を吸うたびに喉の奥で小さく引っかかる音がする。

俺は手すりにもたれて、非常階段の壁に書かれた落書きを眺めていた。『お疲れ様でした』というマジックの文字。誰かが退職する時に書いたのだろう。その下に、別の筆跡で『俺も』と書き足されている。

(橘は、誰にも『お疲れ様』と言われなかったのか)

LUNEは四人組だった。フロントマンが一人いなくなったところで、残りの三人がいればグループは存続できる。だが解散ということは、事務所がグループごと切り捨てたということだ。橘一人の問題じゃない——だが、メディアは橘の名前だけを書き立てた。

橘は膝に顔を埋めたまま、微動だにしなかった。

————

十分が過ぎた。

橘の呼吸が少しだけ整ってきた。不規則だった吸気と呼気が、ゆっくりと同じ長さになり始めている。

(昔もそうだった)

養成所のレッスン後、誰よりも遅くまで残って練習していた橘は、最後の一曲が終わると必ず鏡の前で呼吸を整えていた。両手を膝について、肩で息をして、五分かけて心拍数を落とす。誰にも見せないルーティンだった。

俺は一度だけ、それを最後まで見ていたことがある。

橘が振り返った時、俺は目をそらした。橘も何も言わなかった。

あの頃からずっとそうだ。

言葉はなかった。でも、互いの気配には敏感だった。

俺たちの間には、十年分の言葉にならない何かが積み重なっている。誰にも見せられない顔を互いだけが知っているという、奇妙な共犯関係。

それが今、この非常階段で、また繰り返されている。

————

十五分。

橘が顔を上げた。

フードの下から、横顔が少しだけ見える。目の下に濃い隈ができていた。頬がこけている。昨夜の授賞式では完璧なアイドルの顔をしていた男が、たった一日でこんなに変わるものか。

橘は遠くを見ていた。ビルの谷間から覗く空は、もうすっかり明るくなっている。

「……なんで」

橘が言った。

「なんで、お前がここにいる」

俺は答えなかった。

答えを口にすることは、俺にとって十年分の沈黙を裏切ることになる。言葉にした瞬間、器材室の夜も、十年間の授賞式も、全部が違う意味を持ち始めてしまう。

俺は、まだそれが怖かった。

橘もそれ以上は聞かなかった。

ただ、抱えた膝に額を押しつけて、小さく息を吐いた。

————

二十分。

橘の肩が、かすかに震えている。

泣いているわけではなかった。震えはむしろ、寒さによるものに近い。十一月の早朝の外階段は、冷気が容赦なく這い上がってくる。橘のパーカーは薄手で、風を通すのが目に見えてわかった。

俺は自分の上着を脱ごうとして——やめた。

(違う)

橘が今必要としているのは防寒着じゃない。

十年前の器材室で橘を一人にしたのは俺だった。あの時、「当然だ」とだけ言ってドアを閉めたのは、橘を拒絶したからじゃない——橘のプライドを守るためだった。誰にも見られたくない顔を、俺が見てしまった。ならばせめて、見なかったことにしよう。それが俺の出した答えだった。

でも、橘にとっては違ったのかもしれない。

「見たなら忘れろ」と言った橘は、本当は——見たなら何か言え、と叫びたかったのかもしれない。

俺は、橘の震える肩を見ながら、十年前に口にしなかった言葉の重さを初めて自覚した。

————

二十五分。

俺は一度だけ、橘の手元を見た。

膝の上で握りしめられた指が、白くなっている。利き手だ。ギターを弾く指。ピアノを弾く指——養成所で誰よりも器用に、誰よりも繊細に弦を押さえていた指。

その指が今、自分の膝を握りつぶすように強張っている。

俺の指も、知らないうちに同じように握られていた。

開こうとしたが、開かなかった。

————

三十分。

橘が、小さく息を吐いた。

それまでの浅く不規則な呼吸でも、意識的に整えられた呼吸でもない——ただ肺の底から絞り出すような、深い溜息だった。

十年分の重さが、その一息に込められている気がした。

橘は顔を上げなかった。膝に埋めたままだった。

でもその一息だけで、何かが終わったのがわかった。橘の中で、何かが。

俺は立ち上がった。

腰のあたりが冷え切っていて、立ち上がるのに少し時間がかかった。ズボンの後ろにコンクリートの粉が白くついている。

橘は顔を上げなかった。

俺は橘の横に立ったまま、一度だけ、橘のフードのてっぺんを見下ろした。

黒いパーカー。養成所の頃から橘が好んで着ていた色だ。ステージでは白や金の煌びやかな衣装を纏うくせに、普段着はいつも黒だった。目立ちたくない、でも誰かに見つけてほしい——そんな色。

俺は、非常階段の一段目に足をかけた。

鉄骨が軋む。

二段目に足をかける。

背後で、橘のパーカーの布擦れの音がした。橘が顔を上げた音だ。

俺は振り返らなかった。


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