1話 十年目の視線
スポットライトが熱い。
第十回目を迎えたこの授賞式で、ステージ上の温度だけは毎年変わらない。照明のせいで台下より五度は高い。手にしたトロフィーは一・二キロ——VOIDのセンターとしてグループ賞を受け取った三年間も、ソロで最優秀パフォーマンス賞を受賞した今年も、まったく同じ重さだ。
黒瀬凛、二十四歳。五人組アイドルグループVOIDのセンター。鋭い目元と削ぎ落とされた表情——感情を表に出すことを、デビュー当初から意識的にやめてきた男だ。ステージに立てば誰よりも熱く燃えるくせに、マイクを離した瞬間に炎が消えたように静かになる。それが黒瀬凛というパフォーマーだった。
司会者の声が耳の横を通り抜ける。
俺は決まりきった礼を述べ、決まりきったスピーチを口にした。ファンへの感謝、スタッフへの感謝、メンバーへの感謝。三年前に覚えた文面を少しずつ書き換えただけだ。
拍手。
一礼して、ステージの袖へ移動しようとした——その時だった。
ふと、客席を見下ろした。
最前列、左から三番目の席。
橘朔が、俺を見ていた。
橘朔——二十四歳、四人組アイドルグループLUNEのフロントマン。切れ長の目に、人を試すような視線。舞台の上では圧倒的な存在感を放ちながら、その実、誰にも本音を見せたことがない——少なくとも、業界ではそう言われていた。俺以外には。
十年間。同じ授賞式で毎年隣に座りながら、一度も目を合わせなかった相手だ。互いに互いの存在を認識しながら、まるでそこにいないものとして振る舞ってきた——それが、俺たちの暗黙のルールだった。
なのに今夜。
橘はまっすぐに俺を見上げていた。客席の暗がりの中で、スポットライトの反射が橘の瞳孔に小さく光っている。
その顔は——十年前と、何一つ変わっていなかった。
器材室。蛍光灯のジジジというノイズ。床に座り込んだ背中。震える肩。押し殺した嗚咽。
俺がドアを開けた音で、橘の肩が跳ねた。
振り返った顔。涙に濡れた目が、それでも鋭く俺を睨んでいた。
「見たなら忘れろ」
掠れた声。語気だけは強かった。
俺は床に落ちていたイヤホンを拾いながら、「当然だ」とだけ返した。
それで終わりのはずだった。ドアを閉めて、寮に戻って、翌朝の始発で実家に帰る——ただそれだけの夜だった。
だが、あの五分間の無言だけが、十年経った今も消えない。
橘は俺の「崩れた顔」を知らない。だが俺は橘のを知っている。そして橘も、俺が知っていることを知っている。
たったそれだけの繋がりが、俺たちを十年間、誰よりも近くて誰よりも遠い場所に縛り続けた。
——司会者の声で意識が戻る。
客席からの拍手が波のように押し寄せる中、橘はもう俺を見ていなかった。うつむいて、手元のプログラムに視線を落としている。いつもの橘の姿勢だ。まるでさっきの視線が幻だったかのように。
俺はスポットライトの切れた暗がりを歩き、自分の席に戻った。左から四番目。橘の隣。
椅子に座る時、袖の布地がかすかに触れた。橘は微動だにしなかった。
式の残り三十分。俺は一度も隣を見なかった。
そして橘も、一度も俺を見なかった。
————
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光が、白い天井を細く横切っていた。
スマートフォンの振動で目が覚めた。枕元で画面が断続的に光っている。通知の数が百を超えている。
画面をタップするより先に、ニュースアプリの速報が視界に滑り込んできた。
《LUNE解散——フロントマン橘朔、契約トラブルか》
《メンバー間不和の真相——事務所は「コメントを控える」》
《橘朔、全SNSアカウントを更新停止。関係者「連絡つかず」》
俺はベッドの上で、しばらく画面を見ていた。
それからスマートフォンを伏せて、いつも通りコーヒーを淹れた。豆は三年前から変えていない。サイフォンがコポコポと音を立てる五分間を、カウンターにもたれて眺める。カップに注ぎ、一口飲む。熱い。
——だからどうした。
そう自分に言い聞かせて、もう一口飲んだ。
コーヒーの苦みが舌の奥に広がる。窓の外では、十一月の朝日が隣のビルの窓に反射して、まぶしく弾けていた。
————
事務所に着くと、空気が違っていた。
受付のスタッフが声を潜めて話している。廊下ですれ違う他グループのマネージャーたちも、一様に硬い表情で俯き加減に歩いている。芸能界における「解散」は、誰にとっても他人事じゃない。今日はLUNEだが、明日は自分たちのグループかもしれない。だから誰もが口を閉ざす。
藤堂がスケジュール表を手に待っていた。
藤堂——黒瀬の担当マネージャー。三十代前半、細い銀縁の眼鏡、常に三歩先を読んでいる目。感情を表に出さない点では黒瀬に似ているが、黒瀬が「燃やすものを内側に隠している」なら、藤堂は「最初からほとんど何も燃やさない」タイプだった。
「おはようございます。今日の——」
「橘の事務所、どうなってる」
自分で口にしたのに、少し意外な言葉だった。
藤堂が一瞬だけ目を見開き、それから声を一段低くした。
「公式発表以上の情報は出ていません。橘さん本人とも連絡がつかない状態で、事務所側も静観の構えだそうです」
「誰か、動いてるのか」
「……いえ」
藤堂はそれだけ言って、スケジュール表を差し出した。
俺はそれを受け取った。十一時から雑誌取材。十三時からラジオ収録。十五時からダンスレッスン。いつもと変わらない一日。
スケジュールに目を走らせる指が、三行目で止まっていることに気づいた。
俺は短く息を吐いて、スケジュール表をバッグに押し込んだ。
————
雑誌の取材は淡々と終わった。インタビュアーはLUNEの話題を一度も振らなかった。当然だ。事前に事務所が質問リストから外している。それがこの業界のやり方だ。誰も、他人の火傷に手を突っ込みたくない。
問題はラジオの生放送だった。
スタジオの中は、外より少し暖かかった。防音壁に囲まれた密閉空間特有の、籠もった空気。マイクの前に座ると、ガラスの向こうにスタッフが数人見えた。
パーソナリティは中堅の男性タレントで、時々空気を読まずに踏み込む癖がある。
番組中盤。リスナーからのメールコーナーで、一瞬だけスタジオの温度が下がった。
「えーとですね、次のメール。『最近、すごく好きだったグループが解散しちゃって、悲しいです。凛くんは、そういう時ってどうやって気持ちを切り替えてますか?』——あっ」
パーソナリティが自分の失言に気づき、口を押さえた。ガラスの向こうで、スタッフが手でバツ印を作っている。
スタジオの空気が張り詰めた。
俺はイヤホンを指で押さえながら、いつもと同じトーンで言った。
「次の曲、いきましょうか」
パーソナリティが慌てて曲振りを入れる。CM明けのジングルが流れ、何事もなかったように番組は続いた。
(どうやって気持ちを切り替えるか)
俺はマイクの前で、一瞬だけ息を止めた。
——知るか。
俺だって、まだ答えを知らない。
————
夜。
マンションに戻ると、部屋の中は暗かった。電灯をつけずに、窓の外の夜景だけを頼りにソファを探した。東京の光が、ガラス一枚を隔てて静かに瞬いている。
シャワーを浴びた。熱い湯を頭からかぶる。水滴が排水口に吸い込まれていく音だけが浴室に響いた。
湯を止める。
鏡の中の自分の顔を見る。いつもと変わらない。クールで、抑制的で、感情を読ませない——世間が俺に求めている通りの顔だ。十年間、それ以外の顔をしたことがない。
だが。
昨夜の授賞式。客席で俺を見上げていた橘の目。十年前の器材室で、涙に濡れたまま俺を睨んでいたのと同じ目。
そして今朝のニュース。解散。連絡不能。
誰も橘を探さない。業界は静観し、事務所はコメントを控え、SNSは消費するだけ消費して次の話題に移る。それがこの世界のルールだ。
だが——
俺はスマートフォンを手に取った。
藤堂へのメッセージを打つ。
『橘の居場所、わかるか』
三十秒で返信が来た。
『まだ何も。ただ、昨夜遅くに事務所の非常階段で見かけたという話があります。それ以降は不明です』
俺は画面を閉じた。
クローゼットを開ける。黒いパーカーを手に取る。夜の街に溶ける色だ。
玄関で立ち止まり、靴を履く。
(十年間、目を合わせなかった相手を——今から探しに行くのか)
答えは、とっくに出ていた。
俺はドアを開けた。
午前零時十二分。廊下に、自分の足音だけが響く。




