凍てつく空の少年 3
鋭い音が、稽古場に響いた。
打ち下ろされた木剣を受け止めた腕が、びりびりと痺れる。
額に流れる汗を拭う間もなく、もう一撃が迫る。
「集中しろ、ユーリ!」
低響く声。
早逝した王配である父のあとを継ぎ、この国の騎士組織を統括する将・蒼盾ーー叔父だ。
息を整え、踏み込み、切り返す。
木剣と木剣がぶつかり合い、乾いた衝撃が全身に伝わる。
「……そこまで!」
互いに剣を下ろすと、叔父が口の端をわずかに上げた。
「悪くない。また腕を上げたな」
「……ありがとうございます」
「だが、力だけでは足りん。何のために剣を握るのか、その答えを見失うな」
その言葉が、胸の奥に重く響く。
何のために。
5年前のあの日から、自分なりに答えを抱いているはずだ。
けれどそこに至るまでの道のりが、果てしなく遠い気がしていた。
どれほどの鍛錬を積み、気づけば仲間の誰よりも剣を極めていたとしても、心のどこかが冷えていた。
礼を述べて稽古場を後にする。
夕陽が差し込む中庭を歩きながら、叔父の言葉が何度も頭の中を巡った。
何のために、剣を握るのか。
答えを探すように、足が自然と温室へ向かっていた。
蒼い花弁の影。光を受けて輝く露。
国花であるサファイリウムは、はかなさを宿しながら、けれど永遠を信じるかのように咲き誇っていた。
サファイリウムの種子をもとに研究を重ねている新しい株の方は、花を咲かせることなくいつものように静かに息を潜めている。
光で虹色に見える、うつくしい白銀の花弁を持つというサファイリウム・アルバ。
蒼の魔女の時代では、王国中に咲いていたとされる。
「ーー蒼の血と白き力は再び出会い、眠れる魔法が目を覚ます……」
建国神話の一節をそらんじる。
そういえば、彼女の瞳は、不思議な色をしていた。
ちらちらと虹の光が見え隠れする白銀。
もしかして、幻の花もきっと、彼女の瞳のような色をしているのではないだろうか。
あの夜以来、姉上が城を抜け出すことはなくなった。
なぜ姉上は突然失われた魔法に興味を示したのだろう。
そもそも、彼女の出自については箝口令が敷かれ、王族の中でも知っているものは一握りだ。
蒼の魔女の里……伝承の中に存在する魔女と関わりがあるとされる、隠れ里。
敵国に攻め落とされたその村の、たった一人の生き残り。
魔女も魔法も白銀の花も、神話の中だけの存在のはずだ。
すべては神話をなぞらえた子どもの遊びのはずなのに、どうしてこうも嫌な予感が消えないのか。
ざわめく心を落ち着かせるために、サファイリウムの花弁にそっと触れる。
物言わぬ花は、空と水を溶かしたような優しい青をたたえていた。
翌日、城南の東翼ーー次期女王の私室棟。
普段はけして立ち入ることのない場所だけれど、届け物の名目で訪れることになってしまい、気の遠くなるような手順を踏んだのちーー
ようやく許可が降りた頃には、もう日が傾き始めていた。
滞りなく用事を済ませて、足早に帰途につく。
騎士候補とはいえ所属はすでに騎士団にあり、このほかにもこなさねばならない日課や任務があるのだ。
日暮れまでに終わらせることができるだろうか……そんなことを考えていた時だった。
ふと中庭を横切る小さな影に気づいた。
あの夜以降、幾度となく思い出していた黒髪。
両手いっぱいに布を抱えたあの少女が、慌ただしく柱廊を駆けている。
「……ネルダ」
思わず足を止める。
一度に抱える布の量としては限界値をゆうに超えている気がする。あれではほぼ、視界はすべて布で埋まっているだろう。
あの状態でなんなく曲がり角を通過できるところを見ると、もしやこれはネルダの日課なのか。
ーー目が、離せない。
肩のあたりで切り揃られた髪が、元気よく跳ねている。
陽光のもとで見る彼女のそれはただの黒ではなく、光の加減で虹のような光彩を見せていた。
瞳と、同じだ。
もう一度あの瞳を見てみたい。
こんな機会など滅多にないというのに、どうしてよりにもよって布まみれなのだろう。
少々焦れながら目で追っていると、階段へと差し掛かった彼女の体がふわり、宙に浮きそうになった。
「ーー……!!」
*
完全につまさきの置き場を間違い、盛大にひっくり返……りそうになった、その時。
駆け寄ってくる足音と、力強い腕を背中に感じた。
洗い立ての生地が宙に舞い踊ることを覚悟して、終わった、と思っていたネルダは、大怪我も大事故も起きなかったことに驚き、瞬きを繰り返す。
両足がしっかりと石畳に着地した瞬間、誰かの気配は背中の腕とともに消えてしまった。
「え、あの! ちょっと待って」
急いで救い主が誰か確かめたいのに、生地の山でほとんど何もみえない。
(横着しないで二回に分けて運べばよかった。洗い場のおばあちゃんにも何度もそう言われたのに!)
どうにかして隙間から見渡すと、そこにあったのは風に揺れる綴れ織りだけだった。
「誰……?」
おかげで生地も無事で、どこも怪我をしていない。せめてお礼だけでも言いたかった、とネルダはもどかしく思う。
ぼんやりと立ちすくんでいたが、あることを思い出し慌てて右手の自由を確保する。
生地の山を崩さないように細心の注意をはらいながら、前掛けの下に挟んであったものを取り出した。
「よかった……潰れてない」
それは、どうにかしてメアリーレインの渡そうと思い、日々持ち歩いている『研究成果』だった。
現れてからすでにひと月以上は経つというのに、萎びることも枯れることもなく咲き続けてくれる可憐な花。
花の形はサファイリウムによく似ているけれど、色も香りもまったく違う。
銀を帯びた白の花弁は、太陽に透かすと虹とよく似た光を放つ。
「きれいだ……」
もっと陽光にあててみようと、花を掲げて最適な場所を探してみる。
白銀の花がひときわ美しく輝いたのと、息を潜めていた誰かが出てきたのは、ほぼ同時のことだった。




