凍てつく空の少年 2
月光が、廃墟の石壁を淡く照らしていた。
宴のざわめきが遠のくたび、胸の奥でなにかがざらついていく。
ーー姉上の気配が消えた。
夜会の最中に姿をくらますなど、まだ幼いとはいえ次期女王としてあり得ない。
ただの散歩ならばいい。けれどなぜかそんな気がしなかった。
ふと見た彼女の背中は、どこか浮ついていたからだ。
冷たい風を裂きながら、足音を忍ばせて追う。
王城の外れ、使用人の居住区画のそのさらに奥の、今は使われていない古い礼拝堂ーー
半ば崩れた建物の奥から、姉の……
いや、姉と誰かの、笑い声が響いた。
「ーーほらまた! どうしてそんなに喧嘩っ早いの」
相手の気心の知れた口ぶりに、同年代で仲の良い王侯貴族がいたかと記憶をたどる。
息を殺して石壁の影から覗いた瞬間、心臓が跳ね上がった。
月明かりの中に、少女の姿があった。
美しい黒髪。
夜の色をまとったその背中。
五年を経て身丈はすらりと成長し、髪も短くなってはいたが、見間違えるはずがない。
ーーあの夜の、少女だ。
炎に包まれた村で、瓦礫の下から抱き上げた、あの子。
弱々しい呼吸で、それでも自分を気遣ってくれた声。
使用人として王城に置いておくことにしたと、風の噂では聞いていた。
だが一度も姿を見たことはなく、ずっと気になっていた。
思わず喉の奥が熱くなる。
生きていたんだ。
生きて、無事に成長していた。
少女ーーネルダと呼ばれたその子は、笑みをたたえた眼差しで真っすぐに姉を見つめている。
あの夜はっきりと見ることは叶わなかったが、銀色の瞳――銀、と一言で表現するにはあまりに複雑で、美しかった。
光が触れるたびに色を変え、氷の底に隠れた虹が一瞬だけ息をするようにきらめく。
見つめるほどに、現実が遠のいていく気がした。
胸の奥にあの日の炎がよみがえった。
このままの自分では駄目だと、守るべきものを守れないと痛いほどに理解した日。
剣を持つ意味を知って、穏やかな日々に別れを告げた瞬間。
一度でいいから、あの時の少女に会ってみたかった。
理由はわからない。自分にも誰かを救うことができたのだと、実感したいから?
助けてくれてありがとう、とお礼を言われたい?
いや、違う。
指先が勝手に、鞘の上へと寄っていく。落ち着くための癖だ。
自分は単純に、あの少女のーー
思いを振り切るようにかぶりを振り、足を踏み出す。
「ここで何をしている」
二人の視線が、一斉にこちらへ向いた。
姉上を庇うように前に出た彼女は、炎の中で震えていたあの子とはまるで違う。
それでも、たしかに彼女だった。
どれほど辛い時でも、自分よりも他人のことを気遣う、凛とした少女。
こんな時でも彼女は、誰かを守ろうとしている。
その事実が、息を詰まらせた。
自分は何をしている?
守るために強くなろうとしたはずなのに、今、彼女を傷つける側に立とうとしている。
「自分の立場をわきまえろ。魔法などという戯れに姉上を巻き込むな」
冷たい言葉を選ぶしかなかった。
幼い誇りと、王族としての義務が、喉元を締め上げる。
震える声を隠すように、背を向けた。
振り返るな。
いま振り返れば、前に進めなくなる。
夜の風が吹き抜ける。
その音に、彼女の小さな息遣いが混じっていた気がした。
伝えたかった想いは言葉にならないまま、唇が震えた。




