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凍てつく空の少年 1

剣を握る手に力が入らない。


まただ。わかっている。構えが甘い。踏み込みが浅い。心も、だ。

稽古場に木剣が打ちつけられる乾いた音が響くたび、胸の奥で自分の不甲斐なさが暴れる。

掌がわずかに震えるーー救うための手が、まだ体温を思い出せない。


「そこまで!」


教官の声が飛ぶ。

同年代の騎士候補たちが一斉に息を吐く中、ユリウスは一歩下がり、深く頭を下げた。


彼らが剣を振るう理由は、名誉か、忠義か。

ユリウスが剣を握る理由は、それとは違った。

どんなに力を込めても、心の奥が冷たいままなのだ。

 

稽古場を抜けて、城の裏手にある温室へ足を運ぶ。

剣よりも、鎧よりも、ここがユリウスの居場所だ。

湿った空気と、植物たちの息づかい。

葉の先に宿る露が光を弾くのを見ていると、ようやく胸の奥が静まる。


「……今日も咲かないか」


白銀の花――“サファイリウム・アルバ”。

古い伝承にしか残っていない、蒼の花の片割れ。


燃えるような夜に、その花が光を放って人々を導いたという。

ユリウスはまだ、その花を一度も見たことがなかった。


けれど、あの夜。

あの冷たい闇の中で、たしかに見た気がしたのだ。

痛いほどに震えている少女を抱き上げたとき、彼女の背後に――ふわりと、青と白の光が揺れたのを。






それは十になったばかりの夜のことだった。

とうにその頃には草や花に夢中で、正直にいって座学も剣術もまるで駄目だった。


女王が統べる、優雅で文化的な王国・サファイリア。

しかし男系王族による騎士組織が存在しており、王配である父上亡きあとは叔父が蒼盾と呼ばれる最高指揮官となり国防の要となっていた。

つまり王子であるユリウスは、ゆくゆくは騎士としてこの国を守らねばならない。

王位継承権もなければ剣術の才もない王子など、どのような扱いを受けるかは想像に難くないだろう。


その日もユリウスは訓練で盛大に失敗をし、温室に逃げ込んでいた。


王子のくせに、剣すらまともに持てない。

あの王子は虫一匹すら殺せない。

民一人どころか家畜一頭すら守れないだろう。


嘲りと哀れみの入り混じった言葉が、いつまでも頭の中で反響している。

すべて事実なのだから救えない。

許されるのであれば、ずっと植物の研究だけをしていたかった。


いつものように植物たちが作り出す優しい空気を、肺の隅々まで吸い込む。

そうして半刻もすぎれば、また立ち上がることができる。

呼吸だけに集中しようと目を伏せた時だった。


遠くから騎士たちのざわめきが聞こえて来た。

幼くても、何か問題が――それも、かなり深刻な事態が起きてしまったことを察した。

慌ただしく出撃の準備を行う騎士たちを物陰に隠れて見守っていると、ふと、魔が差した。


剣一本でなにが出来るのか、見ていたいと思った。


少なくとも自分が振り回す剣にみたてた木の棒では、稽古場の壁床に傷をつけることすらできなかった。

騎士を目指せ、王子として剣に誇りを持てと日々言われ続けても、正直なところよくわからなかったのだ。


今考えると、己の向こう見ずな振る舞いに憤りすら覚える。

よりにもよって、突然の出撃による混乱に乗じて、荷車の中に忍び込んだのだった。



――地獄だった。


見渡す限り地獄が広がっていた。

燃え盛る炎の中に、かつて人であったものが見えた。


漠然と、いつか自分も剣を持って戦場にいくのだと思っていた。

だが「戦場」などというものは存在していなかった。

そこは人々が生活を営んでいたはずの場所だったのだ。


穏やかな日々を折り重ねていたその場所を、蹂躙され、火を放たれて。

奪われた命の慟哭が地面に染み込んで、すべての幸せを過去のものに変えてしまう。

……稽古場で棒を振り回していた自分がひどく滑稽に思えて仕方がなかった。


ふと、視界の端でかすかな光を捉えた、気がした。


残党を追っている騎士たちの目を盗み、光が見えた方へゆっくりと歩みを進める。

いまにも焼け落ちそうな家々の間に、その子はいた。


はじめは、夜のような美しい黒の翼をもった鳥だと思った。

おそるおそる近づくと、翼だと思ったのは闇のように深い色をした長い髪だった。


どうしてだろう。

それを、知っている気がした。


そのあとは、無我夢中だった。

怖かった。ひらすらに怖かった。体を温めたり、食べ物を美味しくしてくれる炎の、真の姿を見た。

こうしている間にも、少女が生きるのを諦めてしまうのではないかと思った。

それは嫌だった。叫びだしたくなるくらい嫌だった。


抱き上げた腕に、やっと力が宿る。

もっと早くーーと足を踏み込む。


気を失っていたはずの少女が何事か呟いているのが聞こえて、耳をすます。


――おもいよね、いたいよね

――ごめんね

――ありがとう


こんな状況だというのに。

親兄弟も亡くして、自分も火傷を負っているのに、なおも他人を気にかける言葉を口にできるのか。


少女の強さに、背が伸びる。足に血が通う。

自分の持てるすべての力を使って部隊を目指す。


ーー生きてくれ。


祈りにも似た言葉をかけ続ける間、青と白の光が瞼の裏で瞬き続けた。



あの子は今、どうしているのだろう。


あの夜を境に、ユリウスの中の何かが変わってしまった。

「強くなりたい」と、初めて思ったのもあの時だ。


でも、強くなればなるほど、自分があの時の“優しい自分”から遠ざかっていく気がして、怖くなる。


ふと、背後から声がした。


「また温室にこもっているのね、ユーリ」

 

振り向くと、姉であるメアリーレインが立っていた。

陽だまりのような笑み。蒼い瞳が、ユリウスの内側の凍りついた部分にまで光を落とす。

姉との違いを再認識させられる。


「剣の稽古はどう? 蒼盾が褒めていたわよ」

「いつもの世辞だろう」

「いいえ、本気。あなたの努力をちゃんと見ている人がいるってこと」

「努力だけでは、誰も救えない」


その言葉に、笑みがかすかに揺れた。

でも、責めることはしない。ただ、少しだけ寂しそうに目を細めた。


「あなたは優しすぎるのよ、ユーリ。それは……とても強いことだと思うわ」


優しさが、強さ。

そんな言葉、信じられるものか。


――けれど。


その数日後、ユリウスはまた“あの少女”に出会うことになる。

王族の夜会で、王女がこっそり抜け出した夜。


後を追ったユリウスの前で、王女と話していたのは――

あの夜、炎の中で救った少女だった。


名を、ネルダという。


視線がかち合った一瞬、胸の奥で何かが点滅した。

懐かしい。守りたい。理由は、どこにもない。


気づけば半歩、手が伸びていた——そこで、止めた。

触れてはいけないと、剣より先に心が告げたから。


それでも思ってしまう。


——今度こそ、守れるだろうか。


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