はじまりの日のお話 5
「騎士団の任務から戻っていたのね、ユリウス……ユーリ」
姉姫の呼びかけに、王子は形の良い眉をひそめた。
「子どもじゃない。その呼び方はやめてくれ」
まあ生意気、昔はあんなに可愛かったのに、などとメアリーレインが頬を膨らませる。
それだけで呼吸が楽になるのをネルダは感じた。
ユリウスが放つ空気は、冷たい棘を含んでいたからだ。
さらりと流れる金糸のような髪と、空の色とも水の色とも似つかない深い蒼。
姉に似た色なのに、彼の瞳は切れ長で澄み切っている。
もしメアリーレインの瞳が陽光あふれる春の空だとしたら、ユリウスは凍えるような真冬の澄み切った空。
見つめられると、指の先までかじかんでしまいそうな、冷たい蒼。
五年前のあの夜とはまるで異なる印象に、ネルダはすっかり戸惑っていた。
「質問に答えろ。次期女王が夜会を抜け出して――こんなあばら屋で、使用人と何をしている」
氷の視線が真正面から刺さる。
数秒、彫刻のような横顔に感情の色は浮かばない。
「ええと……ごめんなさい! それは秘密なのよね」
にっこりと微笑んでかわそうとする姉姫に、ユリウスはさらに眉を寄せた。
「今は弟じゃない。護衛として聞いている。意味はわかるな」
「意味は分かるけれど……」
なんと答えようか思いあぐねているメアリーレインを見るに見かねて、気づけばネルダは一歩前に出ていた。
「私がかどわかしました」
二人の金髪が同時に揺れる。
「ネル!?」
「……お前、自分が何を言っているかわかっているのか」
ーーおっしゃるとおり、何を言っているかわかっているかどうかは少しだけ怪しいかもしれない。
ーーもしかしたら、言葉の選び方が絶望的に悪かったかもしれない。
ネルダの思考はぐるぐると渦を巻いていた。
現にユリウスは職務上剣に手が伸びているし、ネルダを見る眼差しは痛いほど険しくなっている。
(氷より冷たいものって何かあったかな)
あるとしたらそれくらい冷たい眼差しだ、と胸の奥まで凍りそうになる。
「私の里のことはもちろん、ご存じですよね。ある日突然、もしかしたら魔法が使えるかもしれないと思い立ち、自ら殿下に売り込みました。その……あれです、シュッセとやらを、したくて」
土壇場に立たされると自分はこうも思ってもいないことをすらすらと口にできるというのが、今日のネルダの新たな気づきであった。
「適当な古書を持ち込み、ここで殿下に”魔法”を披露しておりました。ですので……殿下は何も悪くありません」
ぽかん、と二人がネルダを見ている。見つめている。
目元などはあまり似ていない姉弟だったが、呆け顔は、意外にもよく似ていた。
痛いほどの沈黙が流れる。
「あの……以上、です」
なんらかの反応を得たくなったネルダは、区切りとしてそう付け足した。
返って来たのはメアリーレインの大笑いだった。
「ちょ、ちょっと……ネル、やめて、こんな時に笑わさないで……!」
「……姉上、少しは慎みを――」
「だってある日突然……思い立ったって……出世って……!」
「笑わせるつもりは」
体を折り曲げて苦しそうに息継ぎを繰り返しながら笑うメアリーレインに、ネルダは困惑しきりで呟く。
ふとユリウスと目が合う。
姉姫の様子に、少なくとも脅威ではないと判断したのだろうか。柄からは手を放し、今は姉姫を落ち着かせるために苦心している様子だった。
やがてひとしきり笑うと、メアリーレインは目元をぬぐいながらユリウスに向き直り言った。
「わたくしが無理を言ってこの者を呼びつけていたの。蒼の魔女の里生まれならば、もしかしたら魔法をよみがえらせられるかもしれないと思って」
その言葉に、ユリウスの表情がかすかに翳る。
「王族が軽々しく”魔法”を口にするな」
「……わかっているわよ。そんな大それたものじゃなくて、ほんの少しだけ……ちょっとしたおまじないみたいなものを、試してみたかっただけなの」
「何のために」
「それは絶対言わない!」
(それは絶対言えないですよね。恋のために、なんて)
ネルダも深く頷く。
「でも信じてちょうだい、ユリウス。あなたの考えているようなものではないから」
護衛としてではなく、弟としての逡巡が彼の横顔に影を落とす。
「秩序と身辺警護を理由にすれば、姉上のみならずそこの使用人にも厳罰が下る」
そこで口をつぐみ、苦悩に満ちた細い吐息をつく。
「…………今回だけは目を瞑る」
「ほんとう? ありがとう、ユーリ!」
「今回だけだ――それと、これで終わりじゃない。寝所までの道で話を聞く
「……はーい」
ユリウスは明らかに不服そうな姉上の返事に思うところがあるようだったが、ひとまずは飲みこんだようだ。
「それと……」
ネルダを一瞥し、形の良い唇を薄く開く。
空気が再び張りつめる。
「姉上からの命令とはいえ、王族を危険に晒していた事実は変わらない。自分の立場をわきまえろ。“魔法”などという戯れに姉上を巻き込むな」
正論だ。何も言い返すことができず、ネルダは目を伏せた。
まだ言葉を交わすようになって日は浅いが、いつのまにかネルダは、メアリーレインを”友達”だと思い始めていたのだ。
「……申し訳ございません」
首を垂れて深く謝罪するネルダを見て、比較的おとなしくなっていた王女が再び暴れ始めた。
「ちょっとユリウス! 言い方というものがあるでしょ!」
「ここも出入り禁止だ。護衛を増やす。脱走は諦めろ」
「脱走って言い方やめなさい! ――え、禁止? ちょっと!」
弟に引きずられるように連れていかれながら、メアリーレインは必死にネルダへと手を伸ばす。
「必ずまたここに来るから! 待っていてね、約束よ!」
すぐ隣の護衛に今しがた禁止されたばかりだというのに、何の迷いもなくそう宣言できる胆力に、思わず苦笑する。
じたばたと暴れて、このままでは布袋のように抱えられてしまいかねない勢いだ。
その背を見送ったネルダの胸の奥に、封じていた記憶が目覚めた。
あの夜ーー彼女を抱き上げた少年の剣の紋章は、青と白の二輪の花。サファイリアの紋。
自分と同じくらい幼いのに、こんな子も騎士として頑張っているんだ。
この子にも家族がいるのかな。今ごろ心配しているんじゃないかな。
自分ももっと頑張っていたら、みんなを救えたのかな。
ネルダは自分を責めていた。
松明の海へ着いて、大きな手に抱かれて馬上に上げられても、彼女の心はまだ空っぽだった。
それでも、声だけは途切れなかった。
寄り添うように隣を走る馬のうえから、ずっと。
――大丈夫だ。息をして。
――寒いか。すぐに着く。
凍てついた冬の空の色をしているのに、暖炉の火みたいなあたたかさを帯びた不思議な瞳。
ひとりぼっちになってしまったネルダにとって、その眼差しは、その言葉は、闇の中で唯一行き先を照らしてくれる救いの光だった。
誰も救えなかった自分が、もしこの先も生きていかねばならないのなら、いつかかならず誰かの足元を照らす光になろうと思った。
ネルダはその声を、夢みたいに何度も拾い直して、ようやく眠った。
*
あの夜を境に、世界の色は薄まった。
雪の白も、朝の金も、手のひらの血の朱も、すこしずつ灰に飲まれていった。
それでも、ひとひらの青だけは消えなかった。
瓦礫の脇で見た、かすかな光。
青と白が触れ合って生まれた、ちいさな瞬き。
ネルダはその光を知っている。
けれど、思い出したくなかった。
思い出せば、何かが解けてしまう気がした。
だから、忘れることにしたのだった。
魔法のことも、蒼の魔女のことも、その身に流れる血のことも。
声に出せば世界が揺らぐーーそう教えられてきた“律”に、今は甘えることにした。
自分は何も知らない。ただの使用人。
そう決めて、灰の上に立つ。
それでも、ときどき。
手のひらに、あの夜の熱が戻ってくる。
あの声が、耳のいちばん奥で揺れて、ネルダに息をさせる。
――自分の立場をわきまえろ。
馬上で聞いた懐かしい声に、先ほどの言葉が重なり、ネルダの胸の奥がひりひりと疼く。
眼差しが、声色が、言葉が、痛かった。
「……大丈夫」
メアリーレインも言っていた。言葉には力があると。
口に出したら、そのとおりになるから。
「大丈夫……」
ありがとう、と言えたらいい。
いつか再び会えたなら。
それだけは、封じきれずに残った。




