はじまりの日のお話 4
「……理解できたかもしれません」
いかにも魔導書といった風格のある分厚い本から顔をあげ、ネルダは虚空を見つめたまま呟いた。
「本当!?」
メアリーレインが身を乗り出し、期待に満ちた眼差しを魔導書とネルダの交互に注ぐ。
「やってみます」
「ネル……! あなたならできるわ!」
”蒼の魔女”の血を引くとされる村の出身だということを、ネルダは隠して生きてきた。
受け継がれているとされる魔法使いの血。
幼い頃は理解できなかった『制約』の数々。
曽祖母の部屋に飾られていたもの、新月の夜だけに歌うことを許された歌、誕生日の夜に額に塗られた紺碧の塗料。
それらすべては、きっとこの瞬間のためにあったのかもしれない。
魔導書に意識を集中し、書かれている言葉を一言一句声に出さずに読み上げる。
つむじよりも上に、自分が認識できる領域が広がっていく感覚。
それは初めてであるはずなのに、どこか懐かしさも覚えるものだった。
遠い昔、誰かと共に祈ったようなーー
「……ーーー!」
最後の言葉を胸の内だけで唱え、ネルダは頭上に広がる領域を仰いだ。
……。
…………。
………………。
答えたのは、混じり気のない沈黙だけだった。
「何も起きませんね」
「何も起きないわね」
ネルダはメアリーレインに向き直り、慎重に言葉を紡いだ。
「やはり無理かもしれま」
最後の方はもご、とくぐもった音になる。
風よりも早いメアリーレインの手のひらが、ネルダの口をしっかりと塞いでしまったからだ。
「いいこと、ネル。言葉には力があるの。口に出したらそのとおりになってしまうわ」
「もごご」
「そうよ。あなたなら絶対にできる。わたくしを信じてちょうだい」
もごご、しか言えていないが、どうやらメアリーレインには無事伝わったらしい。
なんの根拠もないが、王女がそう言うと、たしかにそうかもしれないと思える力があった。
(……私よりも魔法の才能があるんじゃないかな)
*
「本を探してほしい……ですって?」
ネルダの願いに、メアリーレインは双眸を瞬かせる。
「はい。曽祖母から聞いたことがあります。城には魔導書が保管されていると」
「わたくしが知っているお話と逆だわ。魔導書はすべて里に隠されていて、あの時にすべてーー」
燃え尽きたはず。
続く言葉を飲み込み、代わりに謝罪を口にしようとする姫をネルダはやんわりと制する。
「私にもどちらが正しいのかわかりません。でも、確かめてみる価値はあるかと思います」
そう囁き、二人の視線が交差する。
その時にネルダは気がついたのだった。
すでに足先にとどまらず付け根くらいまでは一気に踏み入れてしまっていることに。
それからゆうにふたつきほど、王女からの音沙汰はなかった。
ネルダとしても、やはり魔導書などというのはおとぎ話の一つだったのだろうと思い始めていた。
手伝いたかったが、もし実在していたとしても使用人が立ち入りを許されている場所になど置いてあるはずがない、と及び腰になる。
とはいえこうも思った。
例えば木を隠すなら森のほうが意表をついて見つかりにくいかもしれない。
王城内のいかにもといった場所にあるよりも、雑多な場所に無造作に置いてあるほうがかえって誰も気にも留めないかもしれない。
ならば……と倉庫や貯蔵庫などを隈なく探したり、廃墟を掘り返してみたネルダだったが、それらは徒労におわってしまったのだった。
確実ではない情報を王女に伝えたことを、後悔し始めていた。
機会があれば謝りたいとネルダは強く思ったが、使用人が王女と言葉を交わせる機会など、そうそうあるものではない。
(もしかしたら、あの日のことは夢だったのかもしれない)
そう、思うことにした頃だった。
今にも朽ち果てそうな壮絶な装いの書物を嬉々として抱えながら、王女が真夜中にネルダの寝床に忍び込んできたのは。
物語は冒頭へと戻る。
朽ち果てた礼拝堂に手を加え雨露をしのげるようにし、使わなくなった敷物や灯りを人目を忍んで運び込み、かろうじて長時間の滞在に耐えうるようにしたその場所を王女は『魔法研究所』と名付けた。
ネルダは『魔法研究会』の会長であり、メアリーレインは助手ということになった。
「それにしても、よく見つかりましたね」
破かないように慎重に頁をめくるネルダを見て、メアリーレインは心底嬉しそうに胸を張った。
「でしょう? 根くらべには自信があるの」
「根くらべ……? 一体どなたと」
「もちろん、お母様よ」
突然登場したこの国の至高の存在に、会長は思わず脆くなっていた頁を引き破りそうになる。
王女の話はこうだった。
夜な夜な禁書庫や宝物庫に忍び込んでいることが女王の知るところになった。
理由を問われ最初は口をつぐんでいたものの、事が大きくなりそうだったので白状した。
そうしたら女王の逆鱗に触れ軟禁された。
女王の様子から在処を知っていることを察したため、教えてくれるまで飲まず食わずで過ごすことにした。
最初はどうせ口だけだと甘くみていた様子の女王だったが、三日目の晩に軟禁を解き、この本を渡してくれた、という。
「でもね、結局在処は教えてくれなかったの。これはお母様が個人的に所有していた、おとぎ話の本だと言っていたし」
時の流れがあますところなく刻まれた古めかしい表紙。
著者の名があるべき場所は表面が剥がれ落ちてしまっているが、ネルダはかろうじて本の題名を解読することに成功した。
おとぎ話の本、ではない。
ーー『初歩的な魔法の使い方』。
「それにしても驚いたわ。古代文字が読めるなんて」
その本はすべて、もう誰も使えぬはずの古の言葉で書かれていた。
かつて蒼の魔女が遺したものだという。
「故郷では皆読み書きできたし、話せました。……なんなら現代の言葉よりも先に叩き込まれるんじゃないかな」
最後の言葉はほぼネルダのひとりごとだった。
王族への礼を欠いた口調に、メアリーレインが目を見開く。
ネルダも遅れて息をのんだ。
「ネル、その話し方」
「申し訳ありません。今のはただの呟きというか……けしてメアリーレインさまへ向けた言葉では」
「その話し方にして!」
「……え?」
「前から思っていたの。もう少し気軽に話してほしいのよ」
「だからそういうのは本当にころされますから」
「あれこれ言ってくるやつはわたくしがころ……消し炭にしてさしあげるから大丈夫だから」
「だからそれぜんぜん大丈夫じゃないから」
「……!」
「……」
嵌められたのか、それとも迂闊だったのか。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
王女メアリーレインの奔放な言葉に、ネルダはつい、ごく自然に――まるで旧友にでも話すような調子で返してしまった。
不思議なことに、その距離感は驚くほどしっくりと馴染んだ。
おそらく、彼女も同じだったのだろう。
二人は、悪戯を共有した子どものように目を合わせ、どちらからともなく弾けるように笑った。
メアリーレインの笑顔は、冬の終わりを告げる光のようだった。
その瞬間、閉ざされていた時間がほどける音がした。
「普通、王女は『ころす』とか『消し炭にする』とか言っちゃだめだと思うよ」
「あら普通ってなによ、ネルダ。誰が決めたのよそんなの。連れてらっしゃいよ。殴り飛ばして差し上げるから」
「ほらまた! どうしてそんなに喧嘩っ早いの」
「気が強くなければやっていけないもの」
「なんでちょっと得意気なの。褒めてないからね」
「褒めなさいよ!」
言葉が次々と重なり、笑い声が古びた礼拝堂に反響した。
まるで長いあいだ離れていた友が、再び出会って語り合うかのように。
空気が軽くなり、時間さえも少しだけ柔らかくなったようだった。
笑いの余韻の中で、ネルダは知らず心の警戒を手放していた。
いつもなら手放さないはずのそれを、今だけは“もう少し後でもいいか”と思ってしまったのだ。
だが、その隙を縫うように――
「ここで何をしている」
静寂を切り裂く声が響いた。
澄みきった刃のようなその声に、二人の笑いがふっと止まる。
ゆるやかに振り返ると、そこにはメアリーレインとよく似た金髪碧眼の少年が立っていた。
光を背に受け、その影が礼拝堂の床を長く伸ばしている。
冷たい風が吹き込み、春の気配が一瞬で遠のいた。




