はじまりの日のお話 2
あれから五年。
王都の片隅では、春の気配がまだ眠っていた。
その季節の訪れを告げるよりも早く、ネルダの夢には、あの夜の光が何度も訪れていた。
かつて誰かの手が触れた温もりが、今も彼の胸の奥に息づいている。
「ここだと思った」
鈴をころがすような、とはこういう声のことを言うのだろう。
眠りの底にいたネルダは、その声に導かれるように目を開けた。
夢の名残がまだ瞼の裏に滲んでいる。五年前の夜の記憶が、かすかに呼び覚まされた。
「かわいい寝顔だったわよ」
くすくす笑いながら、王女メアリーレインは窓の外から覗き込んでいた。
ネルダは驚いて身を起こし、すぐに礼を取る。
「……メアリーレインさま」
「メイって呼んでいいわよ」
「それは、ころされます」
「じゃあころしたやつをころ……罰を与えるわ。軽くね。王女流で」
なんとも物騒で、なんとも愛らしい言葉だった。
ネルダが休んでいた場所は、使用人の詰め所の裏手にある捨て去られた旧宿舎の、そのまた裏手にある廃墟化した礼拝堂であり、間違っても王族が訪れるような場所ではない。
元礼拝堂の石壁が、動揺したかのように軋んだ。
姫は、かつて窓であったはずの四角い穴にもたれかかり、その下ーー死角になっているところで小さくなっていた哀れな使用人を見下ろしながら、
「あなた、名前はネルダと言ったわね」
「……!」
「名くらい覚えるわよ。……なんだか、懐かしい感じがしたの。あなたを見たとき」
懐かしい。
その言葉が、ネルダの胸の奥をかすかに疼かせた。
なぜだか理由はわからなかった。
ただ、その言葉の向こうに、遠い過去の痛みが重なるように感じた。
不思議なお方だと、ネルダは思った。
メアリーレインーーメイの瞳は、澄んだ蒼。
空の色とも、水の色とも違う、複雑な色をしている。
どこか、あの"光の手"を思い出させる色で、ネルダは思わず息をのんだ。
「そう、興味があるの」
姫は、そう言うと悪戯っぽく微笑んだ。
「わたくしの先生になってくださらない? ネル」
それが二人の、最初の一日だった。
王女と使用人。
けれどその出会いは、やがて王国の運命をも変えてゆく小さな灯火でもあった。
*
メアリーレインは、ネルダがどこの村の出で、何を失ったのかを本人以上に知っていた。
けれど、それをかわいそうと口にすることは一度もなかった。
それだけで、ネルダは救われた気がした。
だが、王女はやはり王女らしく、突拍子もないことを言い出す。
「だからね、わたくしの魔法の先生になってほしいの」
何度目かのその懇願に、深く嘆息する。
「ですから私はそういった類のものは一切……」
「簡単なおまじないでいいのよ、ね?」
「簡単なおまじない」ーーその響きに、ネルダは戸惑った。
魔法など存在しないとわかっているのに、否定の言葉が出てこなかった。
ネルダが生まれた村には、古い言い伝えがあった。
魔女の血を引く者の里。
代を重ねるうちにその血は薄まり、今や伝承だけが残った。
それでも村には古くさい決まりが多く、曽祖母はいつも言っていた――
「その制約が、魔力を強めるのだ」と。
けれどネルダには魔力の片鱗すらなかった。
それでも、幼い日の夜空には、いつも光が瞬いていたように思う。
あれは、魔法の名残りだったのか。
それとも、もう少し違うものだったのか。
しかし彼女は思うのだった。
本当に魔法使いの村だったのならば、どうして侵略者に抗えなかったのか、と。
閉じた瞼の裏が朱に染まるのを感じていた。
あの夜のことを思い出そうとすると、いつも灰色の渦に取り込まれそうになるのだった。
思考の底に沈みかけた彼女を、一つの疑問が現実に引き戻す。
「……そもそも、どんなおまじないに興味があるんですか?」
メアリーレインは軽くあたりを見渡したあと、ネルダの耳にそっと唇を寄せた。
「……恋のおまじない」
「……こい?」
響きを確かめた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ネルダの胸を懐かしさが走った。
それがなぜなのか、彼女自身にもわからなかった。
けれど、その言葉は遠い昔に交わされた約束のような響きを持っていた。
「振り向かせたい相手がいるの」
姫の瞳が微かに光を宿す。
その光を見た瞬間、ネルダの心に小さな裂け目が走った。
ーー恋。
それは、彼女がどこかで封じたはずの言葉。
けれど、王女の無邪気な笑顔が、その封印を解こうとしていた。
忘れられたはずの"魔法"という言葉が、その瞬間、世界に音を取り戻した。




