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蒼の首飾りの君 5

深い森の奥、昼でも薄闇が残る離宮。

そこにひとりの少年がいた。


黒い外套の袖から覗く腕は、痩せて白い。

その手に握られた本は王国史。

けれど、その瞳は一度も文字を追っていなかった。


――命令されたから、読んでいる。

彼の目には、そんな冷えた無関心だけが宿っていた。


扉の向こうで、靴音が止まる。

光の粒がわずかに差し込み、少女が現れた。


金糸のような髪を束ね、青いドレスの裾を摘まんで微笑む。

その笑みには、王族の威厳よりも幼い不器用さがあった。


「あなたが……『影』の子ね?」


少年は答えない。

視線を上げたその瞳には、氷のような無音があった。


王女メアリーレインは一歩、彼の前へ進む。

「今日から、わたくしの動きを覚えてもらうの。

食事の仕方も、歩き方も、声の出し方も。……ね?」


訓練場には、鏡がいくつも並べられていた。

ひとつには王女。

もうひとつには、彼――シオン。


二人の影が重なり、ずれて、また重なる。

少女の指先が空を指すたび、少年の指も追う。

けれどその動きには、感情というものが欠けていた。


「……どうしてここにいるのか、わからない?」


王女は鏡ではなく、シオンを見ていた。


「そんな顔をしているから」


シオンは答えない。なんと答えればいいかわからなかったからだ。


「当たり前よね。だってここにいるのは、あなたの意思ではないもの」


そう言って幼い王女は、儚げに微笑んだのだった。


「わたくしと同じね」




すべてを模倣するように命じられた王女の所作は、どれも微かに影を帯びていた。


眼差しはいつも頼りなく、舞い踊るときの指先は震え、笑みはぎこちない。

王女のことを、シオンはずっと見ていた。見続けていた。他の誰よりも。


ーーわたくしと同じね。


初めて会った日の王女の言葉は、ずっと胸の中にあった。

同じであるはずがないとシオンは思った。最初は反発すら覚えた。

けれど訓練のために王女の姿を目で追ううちにやがて気づいたのだ。


彼女は、自分を恥じている。


(……何故だ)


次期女王としての継承権を持つ、女王直系の一人娘。

混じり気のない高貴な血をもつ人間が、なぜ恥じる必要がある?


知りたい、と彼は思った。




それはとある雨の夜。

剣術の訓練が中止となり、自室へと戻る道すがらだった。


離宮の一番奥、舞踊などを学ぶ広間に人の気配がある。

息を潜めて近づいたシオンが見たのは、訓練着に身を包んだ王女その人だった。


おぼつかない足取りで懸命に練習用の剣を振るっている。

書庫から剣技の本でも持ってきたのだろう。ときおり書に目を落とし、構えを一から見直す。

昼日中に目にする悲しげな姿とはまるで異なっていた。

けして上手ではない。だが、懸命に学ぼうとする王女の瞳には意思の明るい光に満ちていたのだ。


「……っ!」


と、不意に扉の装飾に手があたり、音を立ててしまう。

弾かれたように振り返った王女と目が合った。


「あなたは……」



見られてしまっては、と王女に広間に招き入れられ、扉が閉まる。


「……罰は受けます」


そう口にしたシオンを見て、王女は不思議そうに瞬きをした。


「誰もあなたを罰しないわ」

「ですが、殿下のお姿を覗き見、しました」

「それがあなたの仕事でしょう」


ふふ、と笑う。貼り付けたものではなく、王女の内側からこぼれた笑みだった。


「……ずっと変だなと思っていたの。物心ついた時から、ずっと」


ゆるやかに笑みが消え、呟きに変わる。


自分が王女なのはおかしい、と思っていた。

ここにいるべきなのは自分ではないはずなのに、なぜだろう。

王女らしくあろうと向き合うたびに、本当の自分とのずれを感じていた。


ーーメアリーレインは、そんなことを語った。


「けれどね、下手っぴなりに剣を学んでいるときは、なんだか心地がいいの。

もしかしたらわたくしは、守られるのではなく守りたいのかもしれない」


瓜二つだと言われる彼女の横顔を見て、シオンの胸の中が焦げついた。


「守りたい……この国を?」


問いながら、知らず手を固く握りしめる。

脳内で繰り返される声、死の匂い、紋章ーー


「この国を。と言うべきでしょうね」


そっと剣を撫でる。


「いまのわたくしには、そんなに『王女』らしいことは言えそうにないわ。でも」


こんなに近くで王女と眼差しを交わすのは、シオンにとって初めてのことだった。


「一番近くにいるあなたのことは、せめてこれ以上傷つけたくないと思う」


少年の指が震えた。

胸の奥の氷が、わずかにひび割れる音がした。


「……シオン」


名前を呼ばれたことが、こんなにも重いとは知らなかった。

その響きが胸に触れたとき、彼はようやく呼吸を思い出した。


「あなたは、傷つけられたことがある人の目をしてるわ」


絶え間なく振りそぞく雨の音が、沈黙を丁寧に縫っていく。

微かな灯が作り出したひとつの影が、ふたつに割れて揺れていた。




王宮の回廊を、風が吹き抜けていった。

夜気が満ち、遠くで楽団の調整音がかすかに響く。

建国祭を前に、すべてが整っていく――

けれど、メアリーレインの胸だけが乱れていた。


闇の濃い森の奥へと消える彼の背を見かけ、気がついたら追ってしまっていた。

シオンは何かの魔道具のようなものを手にしていて、それは歪んだ光のようなものをまとっていた。

そしてーーそれには見慣れぬ印章があった。

王国のものではない。

彼女は思わず立ち止まった。


その印は、幼い頃、地図で見たことがある。

敵国アストリアの王紋。

喉がひとりでに鳴る。

信じたくない。けれど、見間違えようがなかった。


脳裏によぎったのは、遠い昔に聞いた話。

アストリアの軍は、兵を作るのではなく「信仰」を作る。

子どもの頃から耳に同じ言葉を流し込み、罪と正義を入れ替える。

その呪文のような教育を『心の刻印』と呼ぶのだと。


シオンが顔を上げる。

いつもの穏やかな微笑。

けれど、その目の奥に、ほんの一瞬、影が走った。


胸の奥が痛む。

シオンが何か隠していることに気がついたのは、これが初めてではない。

王女として、知るべきことがある。

けれど、彼を疑うことは、引き裂かれるほどに苦しかった。


――どうして、そんな顔をするの。

あの頃と同じ。

何かを背負って、孤独に笑うひとの顔。


メアリーレインは、そっと目を閉じた。

少しずつ折り重なってきた事実が、彼の心を信じたいという衝動を、すべて塗り替える。


追えば、壊れてしまう。

そう感じた。だから、呼ばなかった。


(……約束したではないの。わたくしたち、最後までーー)




葉擦れの音に、シオンは振り返る。

そこには闇よりも濃い闇が息をひそめているだけだった。

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