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蒼の首飾りの君 3

花の香りがした。香煙や香水ではなく、新鮮でみずみずしいサファイリウムの香り。

頬から首筋へと流れたそれは、やがてネルダの背へとたどり着く。

大きく広げた両の腕以外まるごとユリウスに包み込まれてしまい、行き場のなくなった手のひらが宙を掻く。


視界の端の金糸がさらりと揺れる。

抱きしめられている。

ネルダがはっきりと自覚したのは、心臓が大きくひとつ音をたてた時だった。


「……どうだ。何か思い出せそうか?」


声が、耳元の空気をかき乱す。

あの夜と重なりかけて、けれど離れていく。

自分を抱いているのは、幼い子どもなどではなかった。


「……!」


ネルダは血の流れがおかしくなった、と思った。

全力で走ったあとのように拍動の感覚が短くて、首から上が火のように熱い。

知らなかった。いや、知ろうともしなかった。

ユリウスと自分は、こんなにも違う生き物なのだということを。


「ネルダ――」


腕をゆるめて、押し黙ったままの彼女の顔を覗き込む。

ユリウスの腕の中で、ネルダは火が出そうなほどに紅潮していた。


「お……おい、……え!?」


我に返ったユリウスも、負けず劣らず赤く染まる。

物凄い勢いで後ろに下がり、無罪を訴える両腕が落ち着きなく宙をさまよう。


「すまない、違ったか!? てっきりその、あの」

「いいいいえ、違いません。でも、その、見たものが違ったかもしれなくて」

「そそそそそそそうだったな、抱擁を見たのは俺だけで」

「いえ誤解されるような仕草をしてしまった私に非がありまして、その」

「いや! 俺が! すべて悪い!」


全身の痛みをこらえているかのような苦しみに満ちた面持ちで、ユリウスは土下座せんばかりだった。ネルダも温室の床にめりこむほどに首を垂れた。


ひとしきり謝罪合戦が済んだのち。

「……ネルダが再現しようとしたのは、どんな場面だったんだ?」


なんとか平静を取り戻したユリウスに問われ、ネルダはあの光景について語った。

舞い散る花。流れ落ちる血。永久の眠りについた白の女王。

伝承との差異や、魔法が封じられた本当の理由。


しばらく考え込んだあと、ユリウスは静かに言葉を紡いだ。


「なぜ、自分はこれほどまでにサファイリウム・アルバの伝説に惹かれるのだろうと思っていた」


いまだ何も芽吹かない土の表面を撫でる。


「白の女王が、真実を知らせたがっているから……なのかもしれないな」


その言葉が、ネルダの肌をざらりと撫でてこぼれ落ちる。


(蒼の魔女は……)

もしかしたら、そうではないかも、しれない。

なぜだかそれはユリウスには伝えることができなかった。



狼と記憶について、それぞれ引き続き調査を進めるということでその晩はお開きとなった。

別れ際に交わした視線の温度が、これまでよりも少しだけ上がっていることに、まだ二人は気が付いていなかった。




王座の間には、静寂があった。

黄金の天蓋から落ちる光が、女王の白い衣を淡く染めている。

その視線は、まっすぐにメアリーレインを貫いていた。

柔らかな微笑を湛えていても、その奥に宿るのは氷のような意志だった。


「メアリーレイン。あなたが何をしているか、すべて聞きました」


女王の声は、音楽のように静かで、決して高ぶらない。

けれどその一語一語が、心臓を刃のように刺してくる。


「知っているはずでしょう。『魔法』を、目覚めさせてはならないと」


メアリーレインは唇を噛んだ。

うつむいた髪の隙間から、白い手がかすかに震える。


「お母様……いえ、陛下。あれは、ただのおまじないの絵本だと……」

「ええ、どうしてもというあなたにそう言ってあれを与えたのは私です。……本当の魔法とは、なんの関係もない。そう聞いていたのに」


女王の言葉の最後にて、己を責める色が濃く滲んでいた。


「けれど、あなたは……あなたたちは、魔法を揺り起こした」


女王は一歩、玉座の前へ進み出た。

金の冠の影が、娘の頬に落ちる。


「レイン。私は母として、あなたを守らねばならない。そして女王として――律さねばなりません」


重い沈黙。

遠く、鳥たちが一斉に羽ばたく音がした。

女王は目を閉じ、短く息を吸う。

その声は祈りのように静かに、けれど冷たく響いた。


「すべての魔法研究を、これより禁じます。違反した者は、王命への反逆と見なす」


王女は息をのみ、ようやく顔を上げた。

何も言うことができず、ただただ母を見つめていた。

母の――女王の瞳には、青ざめた自分が映っていた。




月は雲に隠れ、夜が沈黙を取り戻していた。

王都の喧騒も届かぬ遠い山の上、黒鉄の塔が一本、闇に突き立つようにそびえている。

その最上階。

自然の理をはずれた術式が、息を潜めるように光った。

指先が空をなぞる。

数式のような印が虚空に並び、青白い光を帯びて震える。

まるで誰かの心音のように、規則的に。


「……座標、送信」


囁きとともに、光が奔る。

瞬く間に塔の内壁を駆け上がり、夜空へと弾けた。

流星のような光がひとすじ、隣国アストリアの方向へ消える。

次の瞬間、塔に満ちていた灯は跡形もなく消えた。

風だけが残り、すべてをなかったことのように撫でていく。

そして、誰も見ていない闇の中――

影がひとり、静かに笑った。


「……これで、いいんだ」





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