記憶を継ぐ花 3
森に奇妙な静寂が落ちていた。
風の音も、鳥の声も聞こえない。
ただ、血の匂いだけが残っていた。
ユリウスは剣を下ろしたまま、荒く息を吐いた。
倒れた獣の体は、すでに形を失いかけている。
黒い霧のようなものが皮膚の下から溢れ、地面に吸い込まれていった。
「はやく怪我の手当てを……!」
ネルダの声は震えていた。
手で押さえた肩口に視線をやる。
浅い傷に見えた。けれど、触れた瞬間、皮膚の奥で何かが蠢く感触が走った。
「触れるな。これは……普通の傷じゃない」
痛みが広がる。熱と冷気が交互に巡り、神経を焼くようだ。
慌てて薬草袋を開き応急処置の準備をしていたネルダは、傷口を見て息をのむ。
彼の肩から零れた血は――光を孕んでいた。
淡い蒼と黒が入り混じる、不気味な光。
それは地に散るより早く、星幻草の葉に吸い込まれていく。
「魔法の、残滓……?」
思わず口をついて出る。
そんなはずはない。魔法は失われたはずだ。
ならば狼に刻まれた文様はなんだ。牙による裂傷にまとわりつく、この異様な気配はなんだ。
「わからない。だが、この森に仕掛けた誰かがいる」
言い終えるより先に、ユリウスの体がふらついた。
ネルダは咄嗟に彼を支える。
手のひらに伝わる熱。息が浅い。
――このままでは、間に合わない。
ひとりきりで魔導書に向き合う日々、幾度となく繰り返し読んだその内容は隅々まで記憶していた。
簡単な治癒の魔法。
すり傷や軽い切り傷を治すためのものだけれど、書かれているとおりに実行しても何も起きなかった。
空を仰ぐ。太陽はいまだ高いところにある。
これから破ることになる蒼の律は光律。
魔法は夜のもの。
陽光の下では命を焼かれる。
「……望むところだ」
ネルダは唇を噛み締めた。
ユリウスの血が、星幻草の葉脈に染み込みながら淡く瞬きはじめる。
まるで森そのものが息をしているようだった。
「この人の命はわたさない」
なぜだろう。覚悟を決めた言葉に、誰かの声が重なって聞こえた気がした。
胸の奥がひりひりと焦げつく。
ーー夜を越えてはならぬ。
蒼の律が、血の奥で警鐘を鳴らしている。
それでも彼女は、指を組み合わせる。
光を掬うように、ゆっくりと、静かに。
唱文を口にした瞬間、空気が震えた。
太陽の光が細い糸のように裂け、森の奥の闇にまで満ちていく。
陽光の祝福のなか、闇夜の歌が響く。生まれるはずのない歪みから、力があふれ出す。
「どうか……命の名のもとに、戻ってきて」
声はやわらかな風に溶け、祈りはあたたかな光に変わった。
次の瞬間、星幻草の群れが、息を吹き返したように光りだした。
青とも白ともつかぬ光の粒が、葉のあいだから立ちのぼる。
それはやがて花弁の形を成し、風にあおられ、ゆっくりと開いた。
咲いた。
ーー星幻草が、いま、咲くことを決めたのだ。
光がほとばしり、世界が白銀に包まれる。
地を這う根が脈打ち、空を渡る風が浮き足立つ。
ユリウスの肩の傷口から黒い光が抜け、蒼に溶けていく。
光の奔流のなかで、何かが呼応した。
星幻草の群れの中心、白銀の花が一輪、音もなく咲き誇る。
サファイリウム・アルバ。
これは花を咲かせる魔法ではないはずなのに、何故。
その花から溢れた花弁は、雨のように二人へと降りそそいだ。
むせかえるほどの香りとともに、世界がふたたび目を覚ます。
白と蒼が溶け合う。
二つの影が光の中で抱き合うように現れた。
長い時を越えた記憶が、光の粒となって落ちていく。
……そして。
ネルダは蒼の魔女だった。
正しくは、蒼の魔女の視点でその記憶の中にいた。
そしてーー
腕の中では、白の女王が冷たい亡骸となっていた。




